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藤原鷲取 | 藤原藤嗣 |
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宝亀2年(771年)従五位下・伊勢員外介に叙任されると、翌宝亀3年(772年)伊勢介、宝亀5年(774年)伊勢守と伊勢国司として順調に昇進し、宝亀6年(775年)には従五位上に昇叙されている。宝亀7年(776年)造宮少輔に転じると、のち造宮大輔,中務大輔と光仁朝の後半は京官を歴任する一方、この間の宝亀10年(779年)上野守を兼ねている。 |
延暦12年(793年)常陸掾に任ぜられると、中務少丞,式部大丞を経て、延暦18年(799年)従五位下に叙爵される。のち、権右少弁,大宰少弐を歴任する。延暦25年(806年)4月に平城天皇が即位すると、5月に従五位上、6月に従四位下と1年間で4階級の昇叙を受けるなど、平城朝で急速に昇進するとともに、右京大夫,兵部大輔を歴任した。 |
藤原高房 | 藤原国風 |
弘仁13年(822年)右京少進、天長3年(826年)式部大丞。天長4年(827年)従五位下に叙位、美濃介に任ぜられて現地に下向。その後も、備後,肥後,越前等の守に任ぜられ、地方官として治績を上げるが、位階は嘉祥3年(850年)に叙せられた正五位下に留まった。仁寿2年(852年)背中にできた悪性の腫瘍により没した。
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最初は海賊を取り締まるはずの純友であったが、その任期を終えた後も居残り、ついには自らが海賊の大将となった。折から東国では、平将門が朝廷に対し関八州を手中に収めようと反乱を起こしていた。この二人は決して意思統一をしていたとは思えないが、関東,瀬戸内海と、京都を挟んでほぼ同時期に起きた、反乱は朝廷を大いに慌てさせた。一時期は純友懐柔策として五位の昇叙しているが一時の策にすぎなかった。当時瀬戸内海は物資の往来が盛んで、陸上輸送に比べ、船での海上輸送は効率的であった。それが海賊を生じる要素にもなっていた。 |
藤原元命 | 藤原春岡 |
寛和2(986)年,尾張守に任じられて赴任したが、租税調庸の不法な増徴をはじめ、公費の横領,息頼方や一族郎等による狼藉,官物の京宅への運送など、苛斂誅求の限りを尽くしたとして、永延2(988)年11月8日、郡司,百姓らから31カ条にわたる罪状を訴えられた。悪徳受領の典型とされる。その結果、翌永祚1(989)年4月5日の除目で罷免されたが(代わって藤原文信が任命)、長徳1(998)年4月、吉田祭の上卿(行事の責任者)が不参のため散位の元命が代わりにこれを勤めており、罷免は当面のトラブルを避けるための糊塗策であったか。もっとも『尾州鳴海地蔵縁起』には、元命は解任されたあと「術ツキテ東寺門ニテ乞食ケルガ、終ニハ飢死タリケリ」とあって、史実ではないが、その暴政ぶりが語りつがれ説話になったことが知られる。 |
承和7年(840年)従五位下に叙爵し、翌承和8年(841年)常陸介に任ぜられる。承和13年(846年)宮内少輔に任ぜられると、右衛門権佐,少納言と、仁明朝末から文徳朝初頭にかけて京官を歴任する。この間の嘉祥3年(850年)3月の仁明天皇の崩御に際して伊勢国の固関使を務め、同年4月の文徳天皇の即位に伴って従五位上に叙せられている。仁寿2年(852年)大宰少弐に任ぜられると、越中守,大和権守と、文徳朝から清和朝にかけて地方官を歴任し、この間の貞観4年(862年)には正五位下に昇叙された。
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