<藤原氏>北家 長良流

F405:藤原長良  藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原真楯 ― 藤原冬嗣 ― 藤原長良 ― 藤原文信 F406:藤原文信

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藤原文信 藤原惟風

 天元4年(981年)筑後守に任ぜられる。永延3年(989年)4月1日に高野山より帰還する間、安倍正国に襲われて頭部二箇所を斬られるが、これは文信が筑後守在任中に正国の父母兄弟姉妹を鏖殺したため、正国より報いを受けたものであった。4月5日に百姓の上訴により官職を停められた藤原元命の代わりとして文信は尾張守に任ぜられる。4月6日に伊賀追捕使・以忠によって捕らわれた正国の身柄は、文信の子である右衛門尉・藤原惟風の許に渡り、左右の手の指を切られ足を折られた。
 寛弘6年(1009年)筑後守在任中には、大宰大弐・藤原高遠について、20ヶ条の不法を訴えて職を停めさせている。その他、右馬権頭・鎮守府将軍を歴任して、位階は従四位上に至った。

 大宰大監を経て、花山,一条朝初頭にかけて右衛門尉・検非違使と武官を務めた。長保5年(1003年)下総の国府を焼討ちして官物を掠奪したかどで平維良が越前国に逃亡した際、惟風は追捕のための押領使に任じられている。
 正暦年間(990~995年)に藤原高子(藤原正雅の娘)と結婚し、のち高子は左大臣・藤原道長の娘である藤原妍子の乳母に選定される。妍子が寛弘元年(1004年)尚侍、寛弘8年(1010年)三条天皇の女御宣下と地位を向上させるにつれて、乳父にあたる惟風も昇進に与り、武蔵守,備前守と受領を務める傍ら、寛弘4年(1007年)までに従四位下への叙位を受けた。
 寛弘9年(1012年)妍子が中宮に冊立されると、中宮亮となった惟風を始め、その子女は中宮司を運営する中心的な組織を構成する。惟風一族の栄達ぶりは、主人である藤原道長でさえ奇怪視するほど破格なものであったという。長和2年(1013年)従四位上に至る。
 長和4年(1015年)には既に故人となっていたことから、長和3年(1014年)頃に没したと見られる。