<藤原氏>北家 長良流

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藤原為忠 藤原為業

 白河院の近臣。官位こそ高くなかったが、祖父・知綱は白河院の乳母子、父・知信は郁芳門院の乳母子、母は後三条天皇の落胤とされる藤原有佐の娘といった天皇家との深い関係や、安芸守,三河守,丹後守など地方官を歴任して蓄えた豊かな財力を背景に隠然たる勢力を持ち、院に対して殿舎を造進する一方、歌人に対してはパトロン的な役割をも担い、数奇的生活を送った。
 生年は明らかでないが、父の知信が嘉保3年(1096年)に21歳の若さで出家していることから、嘉保年間ごろの生まれと想定される。幼少時から院蔵人として白河院に仕え、その寵幸を受ける。当初、藤原姓以外の氏姓を名乗っていたが、白河院の命令により藤原姓に戻されたという。
 元永元年(1118年)従五位下・皇后宮権大進兼安芸守に叙任されると、保安2年(1121年)令子内親王に二条堀河殿を造進して安芸守に重任、保安4年(1123年)二条堀河殿内に内堂を造進して正五位下に加階と、安芸守として蓄えた財産をもって成功により官位を進めた。また、白河院の院宣を受けて源俊頼が編纂し天治元年(1124年)頃に成立した勅撰和歌集 『金葉和歌集』に2首(または4首)入集している。
 もとより肥満体質であったが、天治2年(1125年)三河守に転任した頃より、口渇を伴う病気(糖尿病か)となり自邸に引き籠もりがちになる。しかし、白河院次いで待賢門院に女房として仕えた妻・なつともが白河院,鳥羽院の覚えめでたく、為忠は大治2年(1127年)従四位下、長承元年(1132年)従四位上と順調に昇進する一方、天承元年(1131年)には丹後守に転任している。
 保延2年(1136年)卒去。没した時期は明らかでないが、3月23日に子息・為業が鳥羽新御堂供養に奉仕しており、5月10日に藤原俊盛が為忠の後任として丹後守に任ぜられていることから、この間の期間と想定される。

 永久元年(1113年)頃の生まれとされる。六位蔵人,伊豆守,伊賀守を歴任後、仁平元年(1141年)には近衛天皇の中宮(後に皇后)藤原呈子に仕えて中宮権大進,皇后宮大進に至った。
 保元3年(1158年)頃に出家し大原に隠棲する。法名を寂念と称し、同じく出家した兄弟の寂超,寂然とともに大原三寂,常盤三寂と呼ばれた。
 若い頃より父が主催する歌合に度々参加し、九条兼実や藤原重家,源俊恵,源頼政,平忠度などとも親交が厚く、各地の歌合にも招かれている。寿永元年(1182年)に作られた『一品経和歌懐紙』の作者とされ、死去したのはそれ以後とされている。弟2人よりも後世の評価は低いとされるものの、当時を代表する歌人として知られ、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に6首が入集。落ち着きのある歌風で知られた。

藤原頼業 藤原為経

 元永年間(1118~19年)の生まれとされる。近衛天皇のもとで六位蔵人を務め、康治元年(1141年)に従五位下に叙され、翌年に壱岐守に任ぜられるが、遅くても久寿年間出家し大原に隠棲する。法名を寂然と称し、同じく出家した兄弟の寂念,寂超とともに大原三寂,常盤三寂と呼ばれた。西行とは親友の間柄であったといわれている。また、各地を旅行して讃岐国に流された崇徳院を訪問したこともある。寿永年間には健在であったとみられるが晩年は不詳。
 和歌に優れ私撰集に『唯心房集』『寂然法師集』『法門百首』があり、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に47首が入首。強い隠逸志向と信仰に裏付けられた閑寂な境地を切り開いた。また、今様にも深く通じていた。

 初名は盛忠を名乗った。従五位上・長門守。
 蔵人,長門守,皇后宮少進を歴任するが、康治2年(1143年)5月10日に出家し大原に隠棲する。法名を寂超と称し、同じく出家した兄弟の寂念,寂然とともに大原三寂,常盤三寂と呼ばれた。
 和歌に優れ私撰集に『後葉和歌集』があり、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に15首が入首。また、『今鏡』の作者の有力候補とされる。