<藤原氏>南家

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藤原黒麻呂 藤原春継

 近江国に生まれる。宝亀5年(774年)正月に正六位下から従五位下に昇叙。同年3月には上総介に任ぜられ現地に赴任。近辺の原野を開墾して牧野とし「藻原荘」として成立させたとされる。この藻原荘が、現在の千葉県茂原市の起源であると言われている。宝亀8年(777年)上総守に昇進する。
 宝亀9年(778年)従五位上に叙せられると、宝亀11年(780年)治部大輔、延暦元年(782年)右中弁、延暦3年(784年)遠江守、延暦8年(789年)刑部大輔次いで治部大輔、延暦9年(790年)駿河守を歴任する。この後、従四位上にまで昇進するとともに、周防守,因幡守と地方官を歴任した。

 弘仁14年(823年)淳和天皇の即位に伴って従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵。天長4年(827年)には従五位上に叙される。また、時期は明らかでないが中務大輔や常陸介を務めた。
 常陸大目坂上盛の女を娶って、父・黒麻呂とともに開発した藻原荘に住み生涯を終え、同荘に埋葬された。
 春継は、墓所として保全するため藻原荘を興福寺に施入するよう遺言していたが、子の良尚が急死したため、寛平2年(890年)に孫の菅根等が興福寺に施入した。

藤原菅根 藤原元方

 元慶8年(884年)に文章生に補される。同年に因幡権大掾に任じられ、後に少内記に転じる。寛平2年(890年)対策に及第。寛平5年(893年)の敦仁親王立太子に際して菅原道真の推挙で春宮侍読となり、親王に『曲礼』『論語』『後漢書』などを講じる。後に道真の推挙で従五位下に叙せられた。寛平9年(897年)に敦仁親王が即位(醍醐天皇)すると、昇殿を許されて勘解由次官兼式部少輔、昌泰2年(899年)には文章博士となり、天皇の御前で『史記』を進講した。翌年には蔵人頭兼左近衛少将となる。
 昌泰4年1月25日(901年2月16日)に発生した昌泰の変では、藤原時平,藤原定国らに加担して、菅原道真の左遷を諫止するために内裏に参内しようとした宇多上皇を内裏の門前で阻んだ。これは『大鏡』『菅家文章』に載せられた著名な話であり、『北野天神縁起』ではかつて宮中にて道真に衆前で頬を打たれた屈辱を晴らそうとしたとされ、後年菅根が道真の祟りを受けて死んだとされる伏線となる話である。しかしながら、『扶桑略記』によれば菅根のみならず、道真の盟友であった左大弁兼侍従・紀長谷雄も上皇の参内を阻止したとされることや、後世の書籍である『長秋記』には宇多上皇が天皇在位中に天皇の許可の得ない上皇の参内を禁じたとする記述を載せていることから、藤原時平もしくは醍醐天皇の命令に従って菅根はその職責を果たしたに過ぎないとする見方もある。なお、上皇の参内阻止の責任を取らされて翌日に大宰大弐に一旦左遷させられるが、翌月には九州へ出発することなく前職に復職、更に式部少輔に再任されて権左中弁を兼務している。
 延喜3年(903年)従四位下に叙せられて、蔵人頭に再補の上で式部権大輔を兼任、翌年には更に春宮亮を兼ねた。延喜6年(906年)備前守。延喜8年(908年)に参議に任じられ公卿に列するが、同年に雷に打たれて死去。菅根の子孫は息子・元方が文章生から大納言にまで昇るものの、以後は振るわなかったが、彼を先駆者として藤原南家から文章博士が輩出されるようになった。

 延喜6年(906年)17歳にして文章得業生となる。越前大掾,式部丞を経て延喜17年(917年)従五位下・刑部少輔に叙任される。延喜18年(918年)権右少弁兼侍従に任ぜられると、延喜22年(922年)従五位上・右少弁、延喜23年(923年)左少弁と弁官を務めながら昇進する。醍醐朝末には延長6年(928年)正五位下、延長7年(929年)従四位下と昇進すると共に、学者として皇太子・寛明親王の東宮学士や式部権大輔を務めた。
 延長8年(930年)寛明親王の即位(朱雀天皇)に伴い、東宮学士を務めた功労として正四位下に昇叙。式部大輔を経て、天慶2年(939年)参議に任ぜられて公卿に列した。議政官として左大弁を兼ね、天慶5年(942年)従三位・中納言に昇任している。
 娘の祐姫が村上天皇の更衣となり、天暦4年(950年)に第一皇子・広平親王を生んだことから重用され、天暦5年(951年)には正三位・大納言に進み、左右大臣に並んでいた藤原実頼,師輔兄弟、その従兄弟の大納言・藤原顕忠に次ぐ地位に昇る。しかし、広平親王と同い年で、藤原師輔の娘である中宮・安子所生の第二皇・憲平親王(冷泉天皇)が、師輔の権勢により生後2ヶ月で皇太子に立てられ、広平親王の将来は閉ざされた。このことに対し元方は深く失望し、その余り病を得て悶死したとされる。時に天暦7年(953年)3月21日。享年66。
 後代、元方は怨霊となって師輔や冷泉天皇、さらにはその子孫にまで祟ったと噂された。とりわけ、冷泉天皇の精神病や三条天皇の眼病の際には、その影響が人々に意識されたという。
 天慶2年(939年)に発生した天慶の乱の際には、平将門を追討する征東大将軍の候補に挙がった。しかし、「大将軍となるからには国家にどんなことでも聞き入れられるであろう。ついては貞信公(藤原忠平)の子息の一人(大納言・藤原実頼,権中納言・藤原師輔ら)を副将軍に任命していただきたい」と無理な主張を展開して、そのことが原因で候補から外されたという。結局、征東大将軍には藤原忠文が任命された。元方が師輔らの一族に抱いていた対抗心の一端をうかがわせる逸話である。
 また、村上天皇の庚申待ちの際には、参内した貴族らが双六で夜を明かすとき、師輔が「このはらまれ給へるみこ(師輔の娘の中宮・安子の懐妊中の御子が)、男におはしますべくは、重六出でこ」と言ってサイコロを振ると見事に六の目が並び、居合わせた人々は驚き師輔を褒め称える一方で、元方は青ざめ、この時の衝撃が元方をして怨霊たらしめたという。これもまた元方が師輔ら一族への対抗心をあらわした逸話である。

藤原致忠 藤原保昌

 蔵人,備後守,右馬頭,右京大夫などを歴任。永延2年(988年)、盗賊の首領であるとして、息子の保輔に対する追捕宣旨が出された際、父親である致忠も拘禁された。長保元年(999年)橘惟頼及びその郎等を殺害した罪で惟頼の父の橘輔政に訴えられ佐渡国に流された。薫物の名手としても知られた。

 摂津守となり同国平井に住したことから平井保昌とも呼ばれる。宝塚市平井の乾家がその末裔とされる。
 長和2年(1013年)に左馬権頭兼大和守に任じられ、以後円融院判官代,丹後守,摂津守,山城守,肥前守,日向守などを歴任し、正四位下に昇る。また藤原道長・頼通父子の家司も務めている。武勇に秀で、源頼信,平維衡,平致頼らとともに「道長四天王」と称された。のちに、道長のすすめもあり女流歌人・和泉式部と結婚した。彼自身も歌人でもあった。
 10月朧月の夜に一人で笛を吹いて道を行く者があった。それを見つけた袴垂という盗賊の首領が衣装を奪おうとその者の後をつけたが、どうにも恐ろしく思い手を出すことができなかった。その者こそが保昌で、保昌は逆に袴垂を自らの家に連れ込んで衣を与えたところ、袴垂は慌てて逃げ帰ったという(『今昔物語集』)。同様の説話は『宇治拾遺物語』にもある。また、後世、袴垂は保昌の弟・藤原保輔と同一視され、「袴垂保輔」と称されたが、今昔物語の説話が兄弟同士の間での話とは考えにくいため、実際は袴垂と藤原保輔は別人と考えられている。

藤原斉明 藤原保輔

 藤原斉明と保輔兄弟は、五位の通貴の官人ながら都を騒がす大強盗とされる。寛和元年(985)1月6日夜、大内裏上東門の東、洞院西大路土御門付近にて弾正小弼・大江匡衡が何者かに襲われ左手の指を切り落とされる事件が起きた。続いて同月20日に土御門左大臣・源雅信邸にて大饗が催された帰りに中門の内にて下総守・藤原季孝が何者かに顔を傷つけられる事件が起こった。翌21日に早速諸国に追捕の官符が下されたが犯人不明のままに3ヶ月が過ぎた。しかし3月22日に藤原季孝を傷つけた犯人が藤原斉明の従者2名らしいと判明。左衛門督・源重光は花山天皇に奏上し、源忠良と錦文安等が斉明の所に派遣された。源忠良と錦文安は斉明のいる摂津国に向かったが、既に斉明は船で海上に逃れていたが、逃げ遅れた郎党の藤原末光を逮捕尋問したところ、「斉明が大江匡衡を傷つけ、藤原季孝を襲ったのは弟の保輔である。」と自白した。
 3月27日に摂津国より帰京した源忠良等は事の次第を奏上し、錦文安と右衛門府生安茂兼ら検非違使を保輔が隠れていると思われる兄弟の父である致忠の三条邸に遣わし捜索したところ、致忠は「保輔は今朝、宿願があって長谷寺へ旅立ちました。」と言い、検非違使に4月2日までに出頭させると起請文を差し出した。しかし、4月2日になっても保輔が出頭したり逮捕された様子も無く消息は絶える。
 一方、摂津より船で逃走した斉明は、山陽,南海,西海諸道に追討の官符が出されていることを知って東国に逃げようとしたが、途中4月22日に近江国高島郡にて前播磨掾・惟文王により射殺された。惟文王は賞され、5月2日に斉明の首は都に梟せられて、5月13日、あらためて斉明と保輔の罪状が議せられた。

 官人として右兵衛尉,右馬助,右京亮を歴任したが、盗賊として有名で、『尊卑分脈』でも「強盗の張本、本朝第一の武略、追討の宣旨を蒙ること十五度」と記されている。
 寛和元年(985年)、源雅信の土御門殿で開かれた大饗において、藤原季孝に対する傷害事件を起こす。さらに、以前に兄・藤原斉明を追捕した検非違使・源忠良を射たり、永延2年(988年)閏5月には藤原景斉,茜是茂の屋敷への強盗を行うなどの罪を重ねた。これらの罪状により、保輔に対する捜索は続けられ、朝廷より保輔を追捕した者には恩賞を与えると発表され、さらには父・致忠が検非違使に連行・監禁された。この状況に危機感を持った保輔は同年6月14日に北花園寺で剃髪・出家したが、まもなく以前の手下であった足羽忠信によって捕らえられた。なお、逮捕の際、保輔は自らの腹部を刀で傷つけ腸を引きずり出して自害を図り、翌日その傷がもとで獄中で没したという。なお、これは記録に残る日本最古の切腹の事例で、以降武士の自殺の手段として切腹が用いられるようになったという。
 後世『今昔物語集』などに見える盗賊の袴垂と同一視され、袴垂保輔という伝説的人物となった(ただし事実とは考えにくい)。
『宇治拾遺物語』には、保輔が自分の屋敷の蔵の床下に穴を掘り、商人を蔵に呼びつけて物を買ったそばからこの穴に突き落として殺していた、という説話が語られている。

藤原当幹

 昌泰元年(898年)35歳で文章生に補せられると、左衛門少尉,六位蔵人を歴任し、延喜4年(904年)従五位下・下野守に叙任され地方官に転じる。
 延喜9年(909年)左大臣・藤原時平の没後まもなく左衛門権佐として京官に復帰すると、延喜10年(910年)従五位上・右少弁、延喜13年(913年)左少弁、延喜15年(915年)正五位下、延喜17年(917年)従四位下と、醍醐朝中期には弁官を務めながら順調に昇進する。のち右京大夫・大宰大弐を経て、延喜23年(923年)60歳で参議に任ぜられ公卿に列した。
 延長3年(925年)以降、醍醐朝末から朱雀朝にかけて、議政官として長く治部卿を兼ねる一方、延長6年(928年)従四位上、承平4年(934年)正四位下と昇進し、承平7年(937年)従三位に至る。年来からの病気により公務を務められないとして、天慶4年(941年)2月以降辞官を請うていたが、同年11月4日八坂東院にて薨去。享年78。