F062: 藤原黒麻呂 | 藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原巨勢麻呂 ー 藤原黒麻呂 ー 藤原懐忠 | F063:藤原懐忠 |
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藤原懐忠 | 藤原重尹 |
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村上朝の天暦4年(950年)従五位下に叙爵。天暦8年(954年)阿波権守に任ぜられる。天徳2年(958年)同母兄の克忠が没してまもなく侍従に任ぜられると、のち左衛門佐,左近衛少将,右近衛少将と武官を務める一方、備中権介,伊予権介,讃岐権守と地方官を兼任した。 |
一条朝の長徳5年(999年)正月に従五位下・侍従に叙任され、閏3月に右兵衛佐に任ぜられる。 |
藤原公経 | 藤原輔尹 |
若い頃は河内国の古寺の沙門で、公泰と号したという。のち還俗して叔父の権中納言・重尹の養子となり、文章生に補せられる。後朱雀朝の長久3年(1042年)勘解由判官に任官すると、式部少丞を経て、後冷泉朝の天喜2年(1054年)巡爵により従五位下・加賀権守に叙任されるが、同年中に中務権大輔として京官に遷った。康平2年(1059年)中務権大輔の功労により従五位上に陞叙。 |
『枕草子』は輔尹の母が尾張安居兼時という者の娘であることを注記しているので、輔尹の祖父が兼時だとわかる。宮中の御神楽で人長を務めた兼時は、『紫式部日記』に登場する舞の名手であった。と同時に、『今昔物語集』にも幾度か登場する。近衛府の舎人仲間と稲荷詣でに行き、参詣に来た女をからかったり、徴税に応じない国司の邸に乗り込んで、出された料理で腹を下したり、右近馬場の競馬で下野敦行に負けるなど、概して武人肌の、よく言えば豪放磊落な、悪く言えば粗野な人だったらしい。 |