熱田大宮司季範の長男として生まれながら、大宮司職は季範の存命中に、弟の範雅に譲られた。しかし、父が死去した久寿2年(1155年)に、範雅に代わって範忠は大宮司に就任する。このあたりの事情は父との不和があったことが推測されている。 官位については、久安5年(1149年)に縫殿助・文章生所から正六位上・兵部少丞に昇進、仁平3年(1153年)には義兄弟の源義朝とともに従五位下に叙せられ、応保元年(1161年)に左近衛将監,内匠頭と進んでいる。政治的には妻に美福門院女房上総を迎え、外孫の足利義兼が美福門院の皇女・八条院の蔵人になっていることから、美福門院に接近していたものと推測される。 また、源義朝の正室・由良御前は範忠の姉妹であり、当初政治的にも近い関係にあったと思われる。実際に保元の乱においては、範忠は外戚として義朝に兵を差し出している。しかし、平治元年(1159年)の平治の乱においては義朝には援軍を出さず、逆に戦後駿河国に潜伏していた義朝の5男・希義(母は由良御前)を捕らえて朝廷に差し出すという行動をとっている。 その後も後白河院の近臣として仕えるが、後白河院と二条天皇との対立が深まる中で、応保元年(1161年)に天皇を呪詛したとの罪状で解官・逮捕され、翌年周防国へ配流された。この時点で大宮司職は再び範雅の手に渡るが、嘉応2年(1170年)頃には赦免された範忠が再度その地位に復帰している。なお、同職はその後も二転三転し、治承2年(1178年)には平時子の命で範忠の孫の忠兼に継承されるが、治承5年(1181年)には範雅が三度返り咲いている。 範忠の一女は祖父・季範の養女として足利義康に嫁ぎ、義兼・義房らを産んでいる。この縁もあり、子孫の多くは足利氏と行動をともにしている。
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