F072:藤原永頼 | 藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原巨勢麻呂 ー 藤原貞嗣 ー 藤原道明 ー 藤原永頼 ー 藤原季兼 | F074:藤原季兼 |
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藤原季兼 | 藤原季範 |
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三河国額田郡を本貫として、額田郡の開発領主であり郡司職にあたった。季兼は、権門の保護を必要としないほどの政治的成長と領城内を支配する武力を持ち、権門,国司,在庁と抗争してその立場を獲得したとみられる。 |
父が目代として赴任していた尾張国に生まれる。季範の母の実家である尾張氏は、代々熱田神宮の大宮司職を務めていたが、員職の代に至り、霊夢の託宣と称して永久2年(1114年)外孫の季範に同職を譲る。これ以降、熱田大宮司は季範の子孫の藤原氏による世襲となり、尾張氏はその副官である権宮司に退いている。 |
由良御前 | 藤原祐範 |
源義朝の正室で源頼朝の母。熱田大宮司・藤原季範を父として尾張国に生まれる。系図類では女子の3番目に記載されているが正確な生誕の順序ははっきりとは判らない。当時の熱田大宮司家は、男子は後に後白河院の北面武士となるものが多く、女子には後白河院母の待賢門院や姉の統子内親王(上西門院)に仕える女房がいるため待賢門院や後白河院,上西門院に近い立場にあったと思われる。由良御前自身も上西門院の女房であった可能性が示唆されている。 |
保元4年(1159年)3月に姉の由良御前が死去した際、49日の仏事を差配してその菩提を弔っている。平治元年(1160年)12月の平治の乱では、姉の長男で甥にあたる14歳の源頼朝が罪人として伊豆国の配所に送られる際、郎従を付けて送り出している。頼朝の伊豆配流に付き添ったのは、祐範の郎従と頼朝の父・義朝の家人で因幡国住人・高庭介資経が送った親族の藤七資家のみであったという。祐範はその後も伊豆の頼朝の元に毎月使者を送っている。 |