<藤原氏>南家

F072:藤原永頼  藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原巨勢麻呂 ー 藤原貞嗣 ー 藤原道明 ー 藤原永頼 ー 藤原季兼 F074:藤原季兼

リンク F075
藤原季兼 藤原季範

 三河国額田郡を本貫として、額田郡の開発領主であり郡司職にあたった。季兼は、権門の保護を必要としないほどの政治的成長と領城内を支配する武力を持ち、権門,国司,在庁と抗争してその立場を獲得したとみられる。
 尾張国の目代となり、尾張国にある熱田神宮の大宮司・尾張員職の娘・尾張職子との間に季範をもうけた。当時、熱田大宮司尾張氏は国司と対立しており、季兼にとっては国司代官としての責務を果たすためにも、尾張国の権威を持つ大宮司家の娘との婚姻関係は望むところであった。目代藤原氏と大宮司尾張氏の婚姻の結果、大宮司家と国衛の関係は修復され、国衛領寄進の形態で社領の集積が図られた。
 妻・尾張職子の実家である尾張氏は、代々熱田神宮の大宮司職を務めていたが、員職の代に至り、霊夢の託宣と称して永久2年(1114年)外孫の季範に同職を譲る。これ以降、熱田大宮司は季範の子孫の藤原南家藤原氏・千秋家による世襲となり、尾張氏はその副官である権宮司に退いている。
 康和3年10月7日(1101年11月6日)に死去。58歳没。

 父が目代として赴任していた尾張国に生まれる。季範の母の実家である尾張氏は、代々熱田神宮の大宮司職を務めていたが、員職の代に至り、霊夢の託宣と称して永久2年(1114年)外孫の季範に同職を譲る。これ以降、熱田大宮司は季範の子孫の藤原氏による世襲となり、尾張氏はその副官である権宮司に退いている。
 保延3年(1137年)8月、夢想により5男・範雅に大宮司職を譲るが、季範が死去した久寿2年(1155年)に季範の長男・範忠が大宮司職に就任する。
 季範自身は主に都で生活することが多く、従四位下の位階も受けている。従姉妹に鳥羽院の乳母藤原悦子(藤原顕隆室)がおり、またその甥が信西(諸説あり)であるなど、中央政界との繋がりも多かった。また子女を経由した人脈も幅広く、待賢門院や上西門院に女房として仕えた娘がいた他、三女の由良御前は源義朝と結婚し、頼朝,希義,坊門姫(一条能保室)らを産んでいる。さらに、養女となった孫娘(実父は範忠)は足利義康と結婚して義兼を生み、後世の足利将軍家にも季範の血統を伝えている。また由良御前が産んだ孫の坊門姫の血筋は鎌倉幕府将軍の藤原頼経,頼嗣の他、後嵯峨・亀山両天皇にも伝わっている。

由良御前 藤原祐範

 源義朝の正室で源頼朝の母。熱田大宮司・藤原季範を父として尾張国に生まれる。系図類では女子の3番目に記載されているが正確な生誕の順序ははっきりとは判らない。当時の熱田大宮司家は、男子は後に後白河院の北面武士となるものが多く、女子には後白河院母の待賢門院や姉の統子内親王(上西門院)に仕える女房がいるため待賢門院や後白河院,上西門院に近い立場にあったと思われる。由良御前自身も上西門院の女房であった可能性が示唆されている。
 久安年間頃に源義朝と結婚したと推測され、義朝との間に頼朝,希義,坊門姫をもうける(義門も彼女所生ではないかとの説もある)。
 保元元年(1156年)に起きた保元の乱においては由良御前の実家熱田大宮司家は義朝の軍勢に兵を送って援護した。また、頼朝は保元3年(1158年)、熱田大宮司家と縁の深い統子内親王の立后にあたり皇后に仕える皇后宮少進に任命され、翌保元4年(1159年)2月に統子内親王が女院号宣下されると頼朝はその蔵人に任命された。
 同年3月1日、由良御前は死去した。平治の乱の9ヶ月前のことであった。
 平治の乱では由良の兄弟である藤原範忠は義朝敗死後に甥の希義を捕らえて朝廷に差し出している。一方、弟の祐範は頼朝の伊豆国配流の際に郎従を1人派遣し、その後も毎月使者を送っている。
 文治4年(1188年)、奥州藤原氏を滅ぼそうと考えていた頼朝は「亡母のため五重の塔を造営すること」「重厄のため殺生を禁断すること」を理由に年内の軍事行動はしないことを表明している。翌文治5年(1189年)6月9日、頼朝は鎌倉で亡母の追善のため、鶴岡八幡宮に塔を建立し、都から導師を呼んで盛大な供養を行い、後白河院から馬や錦を贈られている。

 保元4年(1159年)3月に姉の由良御前が死去した際、49日の仏事を差配してその菩提を弔っている。平治元年(1160年)12月の平治の乱では、姉の長男で甥にあたる14歳の源頼朝が罪人として伊豆国の配所に送られる際、郎従を付けて送り出している。頼朝の伊豆配流に付き添ったのは、祐範の郎従と頼朝の父・義朝の家人で因幡国住人・高庭介資経が送った親族の藤七資家のみであったという。祐範はその後も伊豆の頼朝の元に毎月使者を送っている。
 祐範の死後、頼朝が挙兵し鎌倉殿となった文治4年(1188年)11月1日、祐範の子で僧侶の任憲が頼朝の元を訪れて初めて対面し、親しく語らった。建久2年(1191年)8月、任憲が熱田社領の田地を廻るめぐる争いで、朝廷の裁決で支配を退けられたものを再び申し立てるために頼朝に口添えを求めている。難しい案件なので頼朝は渋りながらも、その父・祐範への恩義から、朝廷に取次ぎをしている。