<藤原氏>南家

F074:藤原季兼  藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原巨勢麻呂 ー 藤原貞嗣 ー 藤原永頼 ー 藤原季兼 ー 千秋憲朝 F076:千秋憲朝

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千秋季光 千秋季忠

 平安時代末より代々熱田大宮司を継承する千秋家に、千秋季平の子として生まれる。千秋家は尾張を中心に美濃・三河に社領を広げていき武士化し、16世紀頃の前半頃に勢力を拡大していた織田弾正忠家とつながりができていた。季光も当時尾張国にて戦国大名となった織田信秀の家臣となる。天文年間、信秀が尾張の軍勢を率いて美濃の斎藤利政を攻撃した際、これに従軍した。織田軍は斎藤氏の居城稲葉山城近くまで攻め寄せたが、申の刻午後3時から5時頃夕刻にいったん引き上げようと背を向けたとき、それまで立てこもったままだった斎藤軍が城より急襲に出て追撃され、兵が木曽川に追い込まれ溺れ死に敗北し、季光,織田信康,織田因幡守,青山信昌,寺沢又八らは戦死した(加納口の戦い)。
 季光はかつて悪七兵衛景清が所持していたという「あざ丸」という脇差を所持しており、戦死した際も佩いていた。この刀はその後、斎藤方の武将・陰山掃部助の手に渡ったが、同年冬に斎藤軍が大垣城を攻めた際、掃部助は戦闘で両眼を失う重傷を得た。次いで所持した丹羽長秀も眼病を得たため、刀は熱田社へ返されて奉納されている。 

 尾張国知多郡羽豆崎城主。天文3年(1534年)、熱田神宮の大宮司・千秋季光の子として誕生。父・季光は武士として織田信秀に仕えていたが、天文13年(1544年)9月、加納口の戦いで戦死し、跡を継いだ季光,長男の季直も間もなく夭折したため、弟の季忠が大宮司職と家督を継いだ。
 永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いに参加。佐々政次と共に鷲津砦,丸根砦を落とした今川義元軍と対峙していたが、織田信長が善照寺砦に到着したのを見て義元本隊に攻撃を仕掛け、政次ともども討ち死にを遂げた。この千秋・佐々の行動は、信長が奇襲を成功させるために命じた陽動作戦との説と、単なる抜け駆けと解釈する説がある。
 領地である羽豆崎近辺には海賊が出没し、家臣たちもそれと共謀して住民を苦しめていた。一計を案じた季忠は海賊の首領に「勧進で得た十万貫を渡すから、熱田社修復のための材木を紀州より運んでもらいたい」と持ちかけ、それを承諾した首領は部下全員を従えて出発するが、季忠はその隙を突いて海賊の本拠地を焼き払った。その後、季忠は約束通り代金を払おうとしたが、首領はそれを断り、ただ新たに住む場所を求めたため、季忠は彼らに遠江の鷲津浜に住居を与えた。以後、羽豆崎には海賊が出没しなくなったという。逸話として伝わるが大宮司職より武士としての豪胆さと知略が広まっていた感がある。
 父の季光は、父ではなく兄である可能性もあるが、詳細は不明。 

千秋季信

戦国時代の熱田社大宮司。父・季忠が桶狭間の戦いで戦死したとき、季信は母の胎内にあり、大宮司職は叔父の千秋季重が中継ぎをしていたという。その後、季信は母の実家である浅井備中守家のもとで養育され、15歳になった天正2年(1574年)、信長に拝謁し、大宮司職と遺領の一部を、統一後の全領知行の約束とともに取りあえず3村を給付されるが、2代にわたり戦死した千秋家は武士を離れ、重職である大宮司職に専念して守るように命令を受けた。その後、領地として与えた野並村を継いだ。
 1601年(慶長6年)2月4日『尾張国領主松平忠吉家老の小笠原吉次が、大宮司千秋李信通して、大宮司家領野並村一郷の指出提出を庄屋に命ず』とある。2月7日『徳川家康が大宮司千秋李信に大宮司領を安堵し、三河国高橋群舞木村と尾張国海東群下田村・丹羽郡赤目村三ケ村の賛地として、尾張国愛智郡野並郷一円を山ともに給料す』と伊奈忠次書状写にある。