清和源氏

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武田信義 甘利信忠

 甲斐源氏4代目当主であり、武田信玄で名高い甲斐武田氏の初代当主である。 
 源頼朝の挙兵に応じて信濃・甲斐の平氏勢を討ち、弟の安田義定や子の一条忠頼らを引き連れて富士川の戦いにも参戦した。これらの戦功により、駿河守護となる。しかし後に頼朝に疎まれ、後白河法皇との間に頼朝追討の密約があるとされて失脚した。
 軍事面で鎌倉幕府の成立を支えた功労者だが、その軍功と勢力の拡大、さらには河内源氏の流れを汲むことが逆に、河内源氏の子孫の頼朝の地位を脅かすのではないかという猜疑心をかきたて、晩年の不遇につながったといえる。また、嗣子の信光の妻に新田義重の娘を迎えた経緯から、親族の新田義重と親交があったという。 

 晴信期の信濃侵攻において、天文17年(1548年)の上田原の戦いで虎泰,信方両名は戦死し、信忠は家督を継承して甘利衆を率い、板垣信憲と共に「両職」になったといわれる。
 信忠は信玄期の取次としての活動が見られ、信濃方面では木曾氏、西上野侵攻においては上野国衆の浦野氏や鎌原氏の取次を務めているほか、常陸の佐竹氏・小田氏ら関東国衆、長井道利ら美濃・飛騨方面の取次のほか、相模後北条氏との外交にも携わっている。
 永禄7年(1564年)頃には「信忠」と改めている。永禄10年8月の諸役免許状を最後に文書から見られなくなり、信忠の没年は不詳で、永禄7年に死んだとも、永禄9年(1566年)に落馬死したとも、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いに参加して戦功を挙げたものの直後に病死したとも言われている。
 永禄9年(1566年)から永禄10年(1567年)に武田諸将より信玄宛で提出された「下之郷起請文」には信忠の名は無く、甘利源左衛門尉信康の名が見えるので、永禄10年(1567年)末から天正3年に死去している可能性が考えられている。 

甘利信康

 武田信玄,勝頼2代に仕えた。永禄10年(1567年)3月6日には真田幸綱(幸隆)が白井上杉氏の拠点上野国白井城を攻略しており、これが初見とされる。同年8月7日の下之郷起請文では、城景代,今井昌茂,玉虫定茂,六嶋守勝と連名で「庭谷衆」として吉田信生,浅利信種に起請文を提出している。永禄末年の武田信玄陣立書では信玄本陣を守る鉄砲衆として記載されている。
 永禄10年(1567年)に兄・信忠が死去しており、信忠の子・信頼が幼少であったため名代を務めていたとも考えられている。
 天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで戦死した。丸山彭『長篠合戦余話』に収録された地元の伝承によると、信康は柳田前激戦地を担当していた。武田軍が敗れ撤退を始めると、信康は織田・徳川方の防御陣地づくりに協力した柳田地区の住民を呪いつつ、庄屋の屋敷門扉に寄りかかり、立ったまま切腹したという。