板垣信泰 |
板垣信方 |
武田信玄の傅役で『甲陽軍鑑』に拠れば武田家の「両職」を務めたという板垣信方の父とされるが、異説も存在する。『武田御日坏帳二番』によれば、信方は天文14年(1545年)5月20日に高野山成慶院で「積翁浄善禅定門」の追善供養を行っており、これが信泰にあたるとも考えられている。 信泰は於曽郷を本拠とし、大永3年(1523年)閏年3月4日に生母「苗庵理根禅定尼」の逆修供養を高野山引導院で行なっている。「向嶽寺文書」によれば、大永5年(1525年)2月25日、向嶽寺明白軒に湯薬種田を寄進した。年未詳3月20日にも同じく明白軒に「御きたさま」の代理として向嶽寺開祖の抜隊得勝へ寺領を寄進している。この「御きたさま」は武田信虎正室の大井夫人を指すとする説がある。
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信方は武田氏の宿将として信虎の代から活躍し、晴信の傅役となる。天文9年(1540年)の信虎の信濃国佐久郡侵攻の際に敵城十数を落とす活躍をした。天文10年(1541年)に信虎の駿河国追放が起き晴信が家督を継ぐと、信方と甘利虎泰は武田家最高職の「両職」に任じられたという。同11年(1542年)7月、晴信は高遠頼継と結んで諏訪郡の諏訪頼重を降し板垣郷東光寺で自害させた。同年9月、諏訪家惣領職を望む頼継は藤沢頼親と結んで諏訪郡へ侵攻して上原城を落した。晴信は直ちに信方を先陣とする救援の軍を送り、安国寺の戦いで頼継を打ち破った。晴信は天文12年(1543年)4月に信方を諏訪郡代(上原城代)に任じ、翌5月には上原城を整備して入部している。 天文16年(1547年)閏7月、晴信は信方率いる諏訪衆とともに大軍で佐久郡に侵攻し、志賀城の笠原清繁を包囲した。関東管領上杉憲政は金井秀景に西上野衆を率いさせ救援の軍を差し向けた。晴信は信方と甘利虎泰に別動隊を編成させて迎撃にあたらせる。8月6日、信方は小田井原の戦いで関東管領軍を撃破し、敵将14,5人、兵3000を討ち取る大勝をおさめた。救援の望みを失った志賀城は落城し、晴信は佐久郡の平定を完了する。 老年になり、板垣信方はしばしば増長ぎみの行いがあり、武田信玄はこれを諫めて、天文17年(1548年)2月、晴信は村上義清を討つべく小県郡へ出陣。同2月14日の上田原の戦いで武田軍は敗北し、信方は甘利虎泰,才間河内守,初鹿伝右衛門と共に討死した。
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板垣信憲 |
乾 正信 |
天文17年(1548年)の上田原の戦いで父が戦死したため、家督を継ぎ諏訪城代となった。200騎の同心・被官を有していた。さらに武田家最高職の「両職」に任ぜられた。弘治3年(1557年)7月、信濃小谷城攻めに参陣。両職の地位にあったとされるが、父と違って有能ではなく、晴信からは疎まれていたとされる。 家臣らにも見放されたが、父信方が草履取りから取り立てた曲淵吉景だけが長禅寺にも従って来た。あるとき吉景が少し目をはなした隙に、私怨により本郷八郎左衛門に殺害された。あるいは晴信の勘気を蒙り改易され「板垣」の名を名乗ることも召し上げられた上、追放されたともいわれる。 これによって板垣家は一旦断絶したが、翌永禄元年(1558年)、晴信は板垣信方の女婿・於曾左京亮に板垣の名跡を継がせて板垣信安と名乗らせ、以後こちらを板垣家の嫡流とした。信安の嫡子に板垣修理亮がいる。
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父信憲死去の時に幼少であったため、従者北原羽左衛門,都築久大夫の両名に養育され、天正18年(1590年)小田原征伐の時に陣借りして奮戦し、同年10月7日(1590年11月4日)遠江国掛川で山内一豊に召抱えられ136石を給せられた。この時、推挙した家老・山内備後守(乾和三)より「乾」の使用を許可されたといわれる。関ヶ原の戦いの後、主君の土佐入国に従って土佐に移り、年来の功を賞せられ知行1000石を賜う。二代目は禄を減ぜられて300石を相続し、以後代々土佐藩馬廻役として存続した。 |
乾 正行 |
乾 正聡 |
永原刑部一照の次男として生まれる。父一照は、宇多源氏佐々木氏の分流永原氏で、山内一豊に仕えて功多く、山内姓と偏諱「一」の字を賜い山内刑部一照という。一照の長男を永原但馬一長と言い、のち山内金右衛門一長と称したが、ゆえあって改易された。正行はその弟で、はじめ永原(山内)平九郎と言い、乾加兵衛正信の養子となり、乾平九郎正行と名乗る。実兄改易の時は既に乾家に入っていたため連座を免れた。 のち兄の名「金右衛門」を襲名し乾金右衛門正行と改めた。養父正信死去ののち、慶長年中養父跡目高1000石の内、300石を下し置かれ相続する。 1614年(慶長19年)、江戸御城の御普請の時、普請御用を仰せ付けられた。 1650年1月20日(慶安2年12月18日)病死。
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1757年9月27日(宝暦7年8月15日)、山内豊敷の御代に惣領御目見え仰せ付けられる。1761年1月31日(宝暦10年12月26日)、亡父直建の跡目を無相違下し置かれる。1762年(宝暦12年)、江戸勤番を仰せ付けられたが、ゆえあって願い奉り、代理の者を江戸へ勤務させた。1774年6月15日(安永3年5月7日)火の御守りを仰せ付けられ、江戸表へ出張。1787年(天明7年)奢侈禁止令が発令され、奇行が始まる。1805年9月15日(文化2年8月23日)卒去。 正聰は資性剛果で、反骨の気概があり当時の人を驚かせた奇行が『土佐史談』などに多く伝えられている。1787年(天明7年)に老中松平定信の奢侈禁止令が出され、駕籠に乗るのを禁止されると小舟を従者数名に担がせたり、娘の婚礼の時、婚具が豪華にならないよう風呂敷包みに収まる程度にしようと婚家と取り決めしたが、巨大な風呂敷包みで土佐の人を驚かせたという逸話がある。また、乾家の屋敷の松の枝が、家老・深尾近江の2階建ての楼閣からの眺めの邪魔になると枝の剪定を依頼されたとき、正聰は素直に切り落としたが、数日後、正聰は朝夕天守閣を遥拝し銃身・剣戟の試練するにあたり深尾近江の楼閣が眺望を塞いでしまったと邪魔な楼閣を壊させた。
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板垣退助 |
出雲路信直 |
明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。東アジアで初となる帝国議会を樹立し「憲政の父・国会を創った男」として知られる。
詳細は、Wikipedia「板垣退助」参照
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江戸時代初期の京都下御霊神社神主。神道学者。山崎闇斎門人。号は八鹽道翁。初め板垣民部信直と称し、のち家号を出雲路と改める。 1650年4月2日(慶安3年3月2日)京都下御霊神社の別当板垣元専の嫡男として生まれる。 神道と儒学を融合させ垂加神道を開いた山崎闇斎に学び、その高弟となる。 1682年(天和2年)、闇斎の帰幽後は、その後継となって垂加神道の発展に寄与した。門弟には玉木正英等がいる。 1684年(貞享元年)下御霊神社の別当職を継ぎ、次いでその神主となり家号を初めて出雲路と称した。1703年5月5日(元禄16年3月20日)帰幽。享年54。
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板垣信安 |
板垣修理亮 |
弘治3年(1557年)8月以降、板垣家が一旦断絶したが、翌永禄元年(1558年)に信方の娘婿にあたる於曾信安が、武田晴信の命によって名跡を継ぎ板垣家を再興した。 永禄12年(1569年)の駿河侵攻では久能城主を務めている。上野国箕輪城は城代・内藤昌秀が天正3年5月21日(1575年6月29日)長篠合戦で討死したため、正7年(1579年)2月に内藤昌月が上野国箕輪城代就任するまでの間、板垣信安に委ねられた。 1572年(元亀3年)、武田勢が西上作戦を始めるにあたって、田中城主を山県昌景から板垣信安に替え、さらに諏訪原城を構えて徳川氏と対決姿勢を強めた。板垣信安は「田中の板垣殿」と呼ばれた。しかし、この西上作戦の最中で信玄が没し、武田勝頼が1575年(天正3年)に長篠の戦いで大敗を喫すると、徳川氏が諏訪原城を奪い、田中城の支城も徳川氏の手に落ちて孤立した。 1582年(天正10年)、武田親族衆である江尻城の穴山梅雪が徳川氏に寝返ると、田中城の城主だった依田信蕃は開城し徳川氏の傘下に入った。
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1575年6月29日(天正3年5月21日)上野国箕輪城の城代・内藤昌秀が長篠の戦いで討死したため、板垣信安が在城。修理亮も父に付き随う。 武田氏滅亡後の1582年(天正10年6月12日)真田昌幸に仕え、天正13年(1585年)信濃国上田の合戦で奮戦したが、1600年(慶長5年)、真田昌幸が関ヶ原の戦いで西軍方についたため主家改易となり、召抱えを解かれる。その後、修理亮は仕官をしなかったが、板垣修理亮の子・半右衛門が、1605年(慶長10年)堀尾忠晴に仕え、さらに、1635年(寛永12年)、板垣修理亮の外孫・諸星信茂が、幕府の御書院番与力に召し加えられた。半右衛門の子、平右衛門の時に堀尾家の召抱えを解かれたが、平右衛門の子・板垣知貞が、1651年(慶安4年)前田利常に仕え、以後は代々加賀藩士となった。
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