| G425:武田信義 | 源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義光 ― 源 義清 ― 武田信義 ― 板垣信泰 | G426:板垣信泰 | ● |

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| 板垣信泰 | 板垣信方 |
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武田信玄の傅役で『甲陽軍鑑』に拠れば武田家の「両職」を務めたという板垣信方の父とされるが、異説も存在する。『武田御日坏帳二番』によれば、信方は天文14年(1545年)5月20日に高野山成慶院で「積翁浄善禅定門」の追善供養を行っており、これが信泰にあたるとも考えられている。 |
信方は武田氏の宿将として信虎の代から活躍し、晴信の傅役となる。天文9年(1540年)の信虎の信濃国佐久郡侵攻の際に敵城十数を落とす活躍をした。天文10年(1541年)に信虎の駿河国追放が起き晴信が家督を継ぐと、信方と甘利虎泰は武田家最高職の「両職」に任じられたという。同11年(1542年)7月、晴信は高遠頼継と結んで諏訪郡の諏訪頼重を降し板垣郷東光寺で自害させた。同年9月、諏訪家惣領職を望む頼継は藤沢頼親と結んで諏訪郡へ侵攻して上原城を落した。晴信は直ちに信方を先陣とする救援の軍を送り、安国寺の戦いで頼継を打ち破った。晴信は天文12年(1543年)4月に信方を諏訪郡代(上原城代)に任じ、翌5月には上原城を整備して入部している。 |
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板垣信憲 |
乾 正信 |
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天文17年(1548年)の上田原の戦いで父が戦死したため、家督を継ぎ諏訪城代となった。200騎の同心・被官を有していた。さらに武田家最高職の「両職」に任ぜられた。弘治3年(1557年)7月、信濃小谷城攻めに参陣。両職の地位にあったとされるが、父と違って有能ではなく、晴信からは疎まれていたとされる。 |
父信憲死去の時に幼少であったため、従者北原羽左衛門,都築久大夫の両名に養育され、天正18年(1590年)小田原征伐の時に陣借りして奮戦し、同年10月7日(1590年11月4日)遠江国掛川で山内一豊に召抱えられ136石を給せられた。この時、推挙した家老・山内備後守(乾和三)より「乾」の使用を許可されたといわれる。関ヶ原の戦いの後、主君の土佐入国に従って土佐に移り、年来の功を賞せられ知行1000石を賜う。二代目は禄を減ぜられて300石を相続し、以後代々土佐藩馬廻役として存続した。 |
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乾 正行 |
乾 正聡 |
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永原刑部一照の次男として生まれる。父一照は、宇多源氏佐々木氏の分流永原氏で、山内一豊に仕えて功多く、山内姓と偏諱「一」の字を賜い山内刑部一照という。一照の長男を永原但馬一長と言い、のち山内金右衛門一長と称したが、ゆえあって改易された。正行はその弟で、はじめ永原(山内)平九郎と言い、乾加兵衛正信の養子となり、乾平九郎正行と名乗る。実兄改易の時は既に乾家に入っていたため連座を免れた。 |
1757年9月27日(宝暦7年8月15日)、山内豊敷の御代に惣領御目見え仰せ付けられる。1761年1月31日(宝暦10年12月26日)、亡父直建の跡目を無相違下し置かれる。1762年(宝暦12年)、江戸勤番を仰せ付けられたが、ゆえあって願い奉り、代理の者を江戸へ勤務させた。1774年6月15日(安永3年5月7日)火の御守りを仰せ付けられ、江戸表へ出張。1787年(天明7年)奢侈禁止令が発令され、奇行が始まる。1805年9月15日(文化2年8月23日)卒去。 |
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板垣退助 |
出雲路信直 |
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明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。東アジアで初となる帝国議会を樹立し「憲政の父・国会を創った男」として知られる。 詳細は、Wikipedia「板垣退助」参照 |
江戸時代初期の京都下御霊神社神主。神道学者。山崎闇斎門人。号は八鹽道翁。初め板垣民部信直と称し、のち家号を出雲路と改める。 |
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板垣信安 |
板垣修理亮 |
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弘治3年(1557年)8月以降、板垣家が一旦断絶したが、翌永禄元年(1558年)に信方の娘婿にあたる於曾信安が、武田晴信の命によって名跡を継ぎ板垣家を再興した。 |
1575年6月29日(天正3年5月21日)上野国箕輪城の城代・内藤昌秀が長篠の戦いで討死したため、板垣信安が在城。修理亮も父に付き随う。 |