清和源氏

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村上義日 村上義清

 後醍醐天皇と鎌倉幕府との戦い元弘の乱(1331-1333年)が始まると、前半戦で敗北し一度は姿をくらました護良親王は、後半戦で再び姿を現し、吉野城に籠城した。これに対し、元弘3年/正慶2年(1333年)初頭、鎌倉幕府は大将・大仏高直,軍奉行・工藤高景,使節・二階堂貞藤(道蘊)らを将とする軍を編成した。閏2月1日(西暦3月17日)、二階堂軍の攻撃によって吉野城は落城した。このとき義日とその次男の義隆が討死した。
 『太平記』による忠臣伝説が著名だが、実際には吉野城の戦い以前の村上父子の動向ははっきりしない。本来、村上氏は信濃国の御家人であり、また御内人(北条得宗家の被官)として、幕府の事実上の権力者北条氏とも親しかった有力氏族である。それなのに父子がいついかなる経緯で護良親王の側近となって、吉野城で戦死したのか、歴史的実像は不明である。一説によれば、鎌倉時代には義日の系統は村上氏の傍系だったので、勢力拡大を目指して護良親王に接近したのではないかともいう。

 信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ、家督相続時には信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主。
 当時の村上家は、北信濃では越後長尾氏と関係の深い名族井上氏や水内郡の高梨氏と争い、東信濃では関東管領上杉家を後ろ盾とする小県郡の海野氏を押さえ込み、信濃の守護代であった佐久郡の大井氏を下して甲斐の武田氏と抗争を続けていた。義清は佐久郡を武田氏に奪われるが、武田信虎,諏訪頼重と結んだ海野平の戦いにおいて、海野棟綱,真田幸隆らを駆逐して、小県郡を完全に掌握することに成功している。
 天文17年(1548年)、小県南部へ侵攻した武田勢を上田原の戦いで撃退する。この戦いで義清は武田方の初鹿野伝右衛門を討ち取っている。この他に武田方は、板垣信方,甘利虎泰,才間河内守などの部将を失うことになった。
 天文19年(1550年)、義清が本領を留守にした隙に、晴信が小県の要衝砥石城に侵攻してくる。義清は高梨氏と和睦を結んで急遽反転し、武田勢に追撃戦を挑み、大勝をおさめた(砥石崩れ)。この戦いで武田方は横田高松,渡辺雲州を始め、1200名の死傷者を出した。村上方の死者は193名ほどであったといわれる。
 晴信はこれ以降、家臣の真田幸隆に命じて、村上勢の武将切り崩し調略を強化する。その結果、天文20年(1551年)には幸隆の謀略により砥石城を奪われる。これにより義清の影響力は一気に低下し、天文21年(1552年)の常田の戦いで勝利を収めるも家臣団の動揺は抑え難く、天文22年(1553年)、武田氏に通じていた大須賀久兵衛が謀反し、また室賀氏,屋代氏,石川氏など村上方の諸将が武田氏に降伏したため、義清は4月9日葛尾城を一時脱出。再度体勢を整え、4月22日には奪還に成功している。
 再び晴信は7月25日に大軍を率いて甲府を出発。抗戦能力の無くなった義清は長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に落ち延びていった。その後、義清は根知城主となり、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いにおいて、義清は信玄と再びまみえ、信玄の弟の武田信繁を討ち取ったとされる。
 元亀4年(1573年)1月1日、越後根知城にて病死。享年73。信玄の死の5ヶ月前。日滝寺に葬られたという。義清の嫡男・村上国清は8月5日に海津城代に任命され、村上氏は旧領に復帰した。

山浦景国

 天文22年(1553年)、父と供に武田信玄に追われて上杉謙信(当時は長尾景虎)を頼ってその猶子となり、謙信の養女を娶る。女系ではあるが上杉重房の血をひいていたので、後に上杉氏の一門である山浦上杉家(当時断絶していた)を継いで山浦国清と名乗る。初め、客将として謙信に仕え、川中島の戦いや越中の戦いなど、謙信に従って各地を転戦。謙信死後は上杉景勝に仕えて御館の乱の功績により、景勝から一字を与えられて山浦景国と名乗ることを許された。
 1582年には、海津城主となり父の旧領を回復する。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めでは上杉軍の先鋒を務めて活躍する。
 慶長3年(1598年)、景勝の会津移封に従って塩之森城代となり、慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いにも参陣したといわれているが、以後の消息は不明である。勇猛な武将であったと言われている。山浦家は後に、景勝側室の実家四辻家出身の山浦光則が家名を継いだ。

山浦光則 村上信貞

 猪熊季光(四辻家出身。上杉定勝生母で上杉景勝側室・四辻氏の兄弟)の次子として生まれる。キリシタンであった光則は寛永11年(1635年)、迫害を避けて妻子と共に京都から逃れ、従兄の定勝を頼って米沢へ身を寄せた。これは上に挙げた父方の血縁と同時に、米沢藩におけるキリシタン弾圧が景勝時代から、他藩と比べて軽いものだったことが起因であると言われる。
 光則は定勝の計らいにより山浦景国の跡を受け、上杉家一門の山浦上杉家を継ぎ、身柄を安堵された。しかし定勝の死後、幕府の厳命を受けた上杉綱勝によって、承応2年12月に伯母・四辻氏が葬られている米沢極楽寺境内で斬首された。遺体は四辻氏の墓の隣に葬られたといわれる。
 光則の妻子は免罪され、息子2人は僧侶(長男はのちに法音寺住職)となり、娘3人(長女は夭折)のうち次女は綱勝生母生善院(近衛家家司斉藤本盛娘)の侍女を経て上杉家臣林家に、三女は米沢長命寺住職にそれぞれ嫁いだ。
 現在、四辻氏の墓とされている上杉家側室の墓の側に光則の供養塔が建立されている。

 兄の村上義日が元弘の乱で護良親王に従い、元弘3年/正慶2年(1333年)に大和国吉野で戦死すると家督を相続。建武2年(1335年)に中先代の乱が勃発すると、信濃国内の北条氏残党を平定するため、朝廷から「信濃惣大将」に任じられ、京都から本領の更級郡村上郷に下向した。
 同年7月、北条与党の保科氏、四宮氏らが埴科郡船山の守護所を攻めると、守護の小笠原貞宗に加勢して戦い、同年9月、同郡坂木北条城の工藤薩摩守(後の薩摩氏)を攻めた。信貞は延元の乱で後醍醐天皇から離反した足利尊氏に従うが、朝廷が東海道・東山道両道に大軍を発すると、佐久郡大井城を守る大井朝行に加勢し、落城して敗走した。
 建武3年(1336年)1月、埴科郡清滝城を攻略し、更級郡牧城の香坂心覚を攻めた。同年2月には筑摩郡麻績御厨や安曇郡十日市場で北条時興や在庁官人深志介知光らと交戦した。建武4年(1337年)には高師泰に属して越前国で新田義貞軍と戦い、戦功として小県郡塩田荘を宛がわれた。
 子の師貞,師国はいずれも高師直より偏諱を受けている。