清和源氏

G505:村上安信  源 経基 ― 源 頼信 ― 村上頼清 ― 村上為国 ― 村上安信 ― 屋代満照 G506:屋代満照

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屋代満照 屋代正国

 戦国期の屋代氏は、村上頼国(村上中務大輔入道)の子満照を祖としている。
 村上明国の孫家盛が埴科郡屋代郷に住して、屋代家盛と称したことに始まる明国系と頼国系の両系統の関係については、詳しくは判明していない。永正から天文年間に屋代城を築いた屋代信光は明国系屋代氏と思われるが、大永2年(1522年)に頼国系屋代氏の屋代政国が満照寺を創建したとする寺伝などの傍証から、大永2年ごろには頼国系屋代氏がこの地の実質的な支配者となっていたと考えられている。

 屋代正重の子、妻は村上義清の養女。名は政国または義綱とも。
 信濃埴科郡屋代郷を支配していた豪族で、村上義清に仕えて武田信玄の信濃侵攻に対抗し、天文17年(1548)の上田原の戦いでは嫡男基綱を喪う。天文22年(1553)に村上氏から離反して武田氏に降伏、その家臣となった。
 天正3年(1575)の長篠の戦いで次男正長(清綱)を喪い、甥の屋代秀正を養子に迎えて家督を継承させたが、なおも実権は握り続けた。1582年に武田氏が織田信長によって滅ぼされると、信長に降伏してその家臣となり、森長可の与力武将となったとされる。没年は1582年と言われているが、永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いで戦死したとする説もある。

屋代忠位

 寛文3年(1663年)、先代藩主で叔父の屋代忠興が嗣子なくして死去したため、その養嗣子として跡を継いだ。同年12月に従五位下・越中守に叙任する。大坂加番となり、元禄5年(1692年)2月に100人組頭となる。元禄6年(1693年)8月に大番頭となる。しかしその出費のために藩財政が窮乏化し、正徳元年(1711年)に全ての職を辞して出費を抑えようとした。また、川井藤左衛門を登用して本格的な藩政改革を行おうとし年貢増徴したために領民の多くが反発し、最終的に幕府の裁断により、正徳2年(1712年)7月22日、川井父子は死罪、忠位も失政を咎められて改易となり、北条藩は廃藩となった(万石騒動)。
 その後、忠位は祖先の功績などを考慮されて3000俵の知行を与えられ、旗本として存続した。正徳4年(1714年)2月20日、68歳で死去した。嫡男の忠知は忠位より先に没していたので、室賀姓を名乗っていた六男の正勝が屋代家に復し家督を継いだ。

 

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