<神皇系氏族>天神系

IB01:忌部豊止美  忌部豊止美 ― 織田親真 OD01:織田親真

リンク OD02
織田親真 織田常昌

 神祇権大祐・斎部親澄と富田三郎基度の孫娘(あるいは蒲生親長の娘)との間の子とされる。貞永2年(1233年)越前国丹生郡織田荘の劔神社神主。正嘉2年(1258年)出家し、覚盛あるいは覚性と号した。
 一般に流布している織田氏の系図では、親真を平資盛と資盛の愛妾であった三井寺一条坊の阿闍梨真海の姪の間の子とする。寿永4年(1185年)の平家滅亡に際して、資盛は子を身ごもっていた親真の母を近江蒲生郡津田庄に隠した。母はそこで親真を産み、津田の土豪の妻となり、親真も津田姓と名乗ったとされる。その後、親真は斎部親澄の養子となり、斎部姓へ改め神職についたという。その後、親真が剃髪して覚盛(覚性)と号したとされる。しかし、この説は親真の後裔にあたる織田信長が天下統一した際に、本姓を藤原氏から桓武平氏に改姓するために系譜を仮冒したものである。 

 織田氏の祖とされる。初め越前丹生郡織田庄の地頭で、『織田家譜』によると、越前守護であった管領・斯波義教(義重)にその才能を見いだされて登用され、尾張に派遣された。のちに故郷の織田庄から取り、苗字を織田と名乗った。また常昌と尾張守護代となる織田伊勢守入道常松は同一人物とも。子とされる常勝は斯波家家老となったという。 
織田常任 織田常寛

 応永7年(1400年)頃、尾張守護を兼ねた管領・斯波義教から尾張守護代に任じられた織田伊勢守入道常松の弟(または同族)と推定される。斯波義教補佐のため、在京することが多かった常松に代わり、守護所が置かれた下津城で又守護代として在地支配をしていたと考えられている。
愛知県一宮市の妙興寺に伝わる古文書の応永9年(1402年)の記事に「沙彌常竹」とあるのが初出。 

 清洲三奉行の一つ、織田藤左衛門家当主。兄とされる敏定が尾張守護所清洲城の支城として小田井城を築き城主となり、後に本拠を清洲城に移したため、その城主となる。
 織田丹波守久孝と同一人物とされ、初め「久孝」と名乗り、尾張守護・斯波義寛の一字「寛」の偏諱を受け「常寛」と改めた推定とされる。また織田氏には「常」の字を持った法名を名乗る人物が多いことから、「常寛」という名の法号であるとも考えられる。
 永正3年(1506年)9月22日没。墓所は名古屋市西区中小田井の龍光山東雲寺(津田氏菩提寺)に墓碑が存在するが、触ると「おこり」があると言い伝えられている。 

織田信張 織田信直

 弘治2年(1556年)7月、織田信長が盆踊りの祭を主催した際には、信張の家来衆が地蔵に扮した。近江浅井攻め,比叡山の焼き討ちなどに従軍。その後天正5年(1577年)紀州の雑賀攻めなど、主に紀伊方面を担当。紀伊国佐野砦を任されていたが、その後岸和田城へ移り和泉半国を領し、信長直轄軍の一員として働いた。
天正10年(1582年)の本能寺の変直後に紀伊国人たちが蜂起、蜂屋頼隆と鎮圧に努めた。その後尾張の居城である小田井城に戻り、織田信雄に知行1100貫で仕えた。天正15年(1587年)に佐々成政が肥後国の検地に失敗し切腹を命じられた際には、豊臣秀吉より八代城を与えるとの命があったが、信張はこれを固辞した。文禄3年(1594年)、近江の大津で没する。享年68。 

 母は織田信康の娘。妻は織田信秀の娘である小田井殿。小田井殿は織田信長の別腹の妹であり、池田恒興の異父妹である(小田井殿の生母は織田信長の乳母を務めた養徳院)。
小田井城に居を持ち父の信張と行動を共にしていた。天正2年(1574年)7月、長島一向一揆攻めに従軍。同年9月29日、一揆勢の捨て身の攻撃にあい、討ち死。享年29。名古屋市の善光寺別院願王寺に肖像画が残る。 

津田清幽 織田郷広

 若くして同族の織田信長に仕えていたが、18歳の時に故あり浪人となり、岡崎に赴き阿部正勝を介して徳川家康に約10年仕える。のち再び信長に仕官、本能寺の変後は再び浪人となる。慶長4年頃、伏見で家康に再会し、堺奉行の石田正澄(三成の兄)に政所職として家康の口添えにより仕える。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの直後に佐和山城の戦いが起こる。同年9月16日明方、水の手口を守備し清幽は子の重氏とともに奮戦し小早川秀秋隊と戦い城より討って出てこれを退けた。家康が和議を申し入れ、城を出て東軍方の使者・舟越景直とその交渉の任にあたり西軍の敗北を知る。家康からの書状を持って城に帰り、当初、正澄は謀かと疑ったが最終的には降伏をすることに承知し、家康は正澄の自刃の代わりに城兵や女・子供の助命を許し、翌日に使者の村越直吉(茂助)が来て引渡しとなるはずだった。しかし、17日早暁に、援軍に来ていた豊臣家家臣の長谷川守知が裏切って本丸に放火して城内に東軍を引き入れ、これに呼応して小早川秀秋,小川祐忠父子,脇坂安治父子が追手を、田中吉政が搦め手を攻撃し、佐和山城は落城、正澄と父の石田正継らが自刃した。清幽は、脇坂隊の旗奉行・村越忠兵衛を捕らえ人質とし、同僚の武者1人とともに敵の真っ只中を押し通った。この時三成の3男・佐吉と、11人の石田家家臣(大半が少年)を連れている。清幽はそのまま家康の本陣に乗りこんで家康に対し、佐和山攻撃の不義を説き、11人全員の助命を約束させたという。家康はよく見知っている清幽に、大坂に出て11人の仕官先を見つけるように伝えた。佐和山の武功があるため、またたく間に皆の仕官先が決まった。その後、清幽は佐吉を高野山まで送り届けた。佐吉は出家の際、恩人の清幽の名で得度したと伝わる。
  戦後、家康は駿府城に清幽を呼び、徳川義直に仕えるよう命じた。のちに家康が清洲城に下向した時、平岩親吉を前にして、清幽は尾張出身であるから二心はない、軍事がある時は一方の事を任せて疑うなと言った。これに対して清幽は大いに涙を流した。その後、没年は不詳だが90歳で没したという。墓所は小石川の龍雲院。 

 織田郷広の被官坂井七郎右衛門広道(号:性通)が公卿万里小路時房の代官と称して寺社領・本所領を横領。その後、郷広の推挙で時房はこの坂井を実際に代官としたが、横領行為を止めないため時房は管領細川持之に陳情した。嘉吉元年(1441年)、その責任を逃れるため、郷広は逐電した。嘉吉2年(1442年)、郷広の跡を受け、次代勘解由左衛門尉久広が尾張守護代となる。郷広は守護代の再任をはかるため8代将軍足利義政の乳母・今参局に働きかけ、今参局の進言で義政より赦免の内諾を得る。しかし、甲斐常治の意を受けた義政の生母日野重子がこれに怒り、困惑した義政が赦免を反故にしたことにより断念した。幕府の後ろ盾を得ることを諦め、宝徳3年(1451年)、直接主家の斯波義健に許しを請うが受け入れられなかった。後に越前にて将軍・義政の上意を得た甲斐常治に派遣された久広らに殺害された。 
織田広近 織田武永

 長禄3年(1459年)、愛知県丹羽郡小口に小口城を築城し、居城とした。文正元年(1466年)、尾張守護の斯波義廉に従い、広近は一門衆のほか、大軍を率いて朝倉氏景とともに上洛している。
 兄敏広の命で斎藤氏に備えるため文明元年(1469年)、尾張丹羽郡に木ノ下城(犬山城)を築城し、小口城から移った。文明7年(1475年)、嫡男寛広を兄敏広の養子としたため、もう1人の子寛近(津田武永)に家督を譲り、小口に隠居所・万好軒(現在の吉祥山妙徳寺)を立て、ここに閑居した。
 文明13年(1481年)8月、清洲城主で尾張下四郡守護代でもある「織田大和守家」当主の織田敏定と子の寛広と共に上洛し、8代将軍足利義政に貢ぎ物をしている。『蔭凉軒日録』によると、長享2年(1488年)、美濃龍門寺領を巡って、京都の蔭凉軒主から広近宛に書状が送られた。このことから隣国美濃にまで影響力を持っていたのが窺える。 

 文明年間に津田武永と名乗ったと推定される。文明7年(1475年)、父広近の隠居により、尾張小口城でその家督を継ぎ、小口城主となる。後に尾張川村北城を築き居城とするが、男児がおらず、川村北城を娘婿の岡田伊勢守時常に譲った。長享元年(1487年)からの六角高頼征伐(長享・延徳の乱)に斯波義寛に従い、出兵した。明応4年(1495年)、船田合戦では兄寛広と織田紀伊守広遠らと石丸利光を攻めるため、美濃に出兵するが、「織田大和守家」の織田敏定の布陣中の死を知り尾張に引き返し、「織田大和守家」の進軍を妨害していた弟広忠に加勢し寛定を討ち取った。
 天文13年(1544年)8月、清洲三奉行の一人弾正忠家当主の織田信秀の要請で援軍を送る。天文16年(1547年)7月頃に出家。 

織田寛広

 伯父である岩倉城主の織田敏広の養子となり、文明13年(1481年)3月、養父の死後にその家督を継いで岩倉城主となり、中島郡を除く尾張上四郡に加え、海西郡と山田郡の大半に勢力を築いた。後に主君の尾張守護・斯波義寛の一字「寛」の偏諱を受け、寛広と名乗ったとされる。
 明応3年(1494年)、土岐氏の家督争いである船田合戦が起こると、斎藤妙純方に付いた。敏定・寛定父子が石丸利光方に付いたことや、寛広は養父の代に斎藤氏と縁戚関係を結んでいたためである。明応4年(1495年)6月、斎藤方の援軍として敏定らと戦って破る。
 明応4年、弟の織田寛近(津田武永)と共に石丸利光を攻めた。翌年の明応5年(1496年)4月10日、織田両氏共に多数の戦死者を出していたので、斎藤妙純の仲裁で寛定の跡を継いだ弟の織田寛村と一時的に和睦した。しかし、再度敵対したという。
 同年5月10日、再び斎藤方へ援軍を送り、石丸方の居城・城田寺城を裏側を囲む。合戦は利光らが自殺して石丸方が敗北、織田大和守家の惨敗に終わるが、同年12月7日、妙純が近江で戦死したため、斎藤氏の後ろ盾を失い織田伊勢守家は衰退、永正元(1504年)以降、寛広の名は文献から途絶えた。天文6年(1537年)頃には跡を従兄とされる敏広の実子広高が継ぎ、その後、織田大和守家出身とされる織田信安が守護代として台頭する。