IB01:忌部豊止美 | 忌部豊止美 ― 織田親真 | OD01:織田親真 |
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織田親真 | 織田常昌 |
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神祇権大祐・斎部親澄と富田三郎基度の孫娘(あるいは蒲生親長の娘)との間の子とされる。貞永2年(1233年)越前国丹生郡織田荘の劔神社神主。正嘉2年(1258年)出家し、覚盛あるいは覚性と号した。 |
織田氏の祖とされる。初め越前丹生郡織田庄の地頭で、『織田家譜』によると、越前守護であった管領・斯波義教(義重)にその才能を見いだされて登用され、尾張に派遣された。のちに故郷の織田庄から取り、苗字を織田と名乗った。また常昌と尾張守護代となる織田伊勢守入道常松は同一人物とも。子とされる常勝は斯波家家老となったという。 |
織田常任 | 織田常寛 |
応永7年(1400年)頃、尾張守護を兼ねた管領・斯波義教から尾張守護代に任じられた織田伊勢守入道常松の弟(または同族)と推定される。斯波義教補佐のため、在京することが多かった常松に代わり、守護所が置かれた下津城で又守護代として在地支配をしていたと考えられている。 |
清洲三奉行の一つ、織田藤左衛門家当主。兄とされる敏定が尾張守護所清洲城の支城として小田井城を築き城主となり、後に本拠を清洲城に移したため、その城主となる。 |
織田信張 | 織田信直 |
弘治2年(1556年)7月、織田信長が盆踊りの祭を主催した際には、信張の家来衆が地蔵に扮した。近江浅井攻め,比叡山の焼き討ちなどに従軍。その後天正5年(1577年)紀州の雑賀攻めなど、主に紀伊方面を担当。紀伊国佐野砦を任されていたが、その後岸和田城へ移り和泉半国を領し、信長直轄軍の一員として働いた。 |
母は織田信康の娘。妻は織田信秀の娘である小田井殿。小田井殿は織田信長の別腹の妹であり、池田恒興の異父妹である(小田井殿の生母は織田信長の乳母を務めた養徳院)。 |
津田清幽 | 織田郷広 |
若くして同族の織田信長に仕えていたが、18歳の時に故あり浪人となり、岡崎に赴き阿部正勝を介して徳川家康に約10年仕える。のち再び信長に仕官、本能寺の変後は再び浪人となる。慶長4年頃、伏見で家康に再会し、堺奉行の石田正澄(三成の兄)に政所職として家康の口添えにより仕える。 |
織田郷広の被官坂井七郎右衛門広道(号:性通)が公卿万里小路時房の代官と称して寺社領・本所領を横領。その後、郷広の推挙で時房はこの坂井を実際に代官としたが、横領行為を止めないため時房は管領細川持之に陳情した。嘉吉元年(1441年)、その責任を逃れるため、郷広は逐電した。嘉吉2年(1442年)、郷広の跡を受け、次代勘解由左衛門尉久広が尾張守護代となる。郷広は守護代の再任をはかるため8代将軍足利義政の乳母・今参局に働きかけ、今参局の進言で義政より赦免の内諾を得る。しかし、甲斐常治の意を受けた義政の生母日野重子がこれに怒り、困惑した義政が赦免を反故にしたことにより断念した。幕府の後ろ盾を得ることを諦め、宝徳3年(1451年)、直接主家の斯波義健に許しを請うが受け入れられなかった。後に越前にて将軍・義政の上意を得た甲斐常治に派遣された久広らに殺害された。 |
織田広近 | 織田武永 |
長禄3年(1459年)、愛知県丹羽郡小口に小口城を築城し、居城とした。文正元年(1466年)、尾張守護の斯波義廉に従い、広近は一門衆のほか、大軍を率いて朝倉氏景とともに上洛している。 |
文明年間に津田武永と名乗ったと推定される。文明7年(1475年)、父広近の隠居により、尾張小口城でその家督を継ぎ、小口城主となる。後に尾張川村北城を築き居城とするが、男児がおらず、川村北城を娘婿の岡田伊勢守時常に譲った。長享元年(1487年)からの六角高頼征伐(長享・延徳の乱)に斯波義寛に従い、出兵した。明応4年(1495年)、船田合戦では兄寛広と織田紀伊守広遠らと石丸利光を攻めるため、美濃に出兵するが、「織田大和守家」の織田敏定の布陣中の死を知り尾張に引き返し、「織田大和守家」の進軍を妨害していた弟広忠に加勢し寛定を討ち取った。 |
織田寛広 | |
伯父である岩倉城主の織田敏広の養子となり、文明13年(1481年)3月、養父の死後にその家督を継いで岩倉城主となり、中島郡を除く尾張上四郡に加え、海西郡と山田郡の大半に勢力を築いた。後に主君の尾張守護・斯波義寛の一字「寛」の偏諱を受け、寛広と名乗ったとされる。 |