<神皇系氏族>天神系

OD01:織田親真  織田親真 ― 織田敏定 OD02:織田敏定

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織田敏定 織田寛定

 敏定の家系「織田大和守家」は元々は「織田伊勢守家」(尾張守護代)の弟筋であり、初代は守護代の更に代理である又守護代を勤めた家系であった。後に敏定が伊勢守家と争って守護代の地位を獲得し清洲城を居城としたため、この家系は「清洲織田氏」とも呼ばれた。
 応仁元年(1467年)、応仁の乱が起きると、先代の尾張守護・斯波義敏と共に東軍に属した。そのことにより、斯波義廉を擁立して西軍に属した岩倉城を拠点とする織田氏の総領「織田伊勢守家」出身の守護代である織田敏広と対立した。文明8年(1476年)11月、主君・斯波義敏の命で、尾張中島郡にある尾張守護所の下津城を攻め、織田敏広とその岳父である美濃国の斎藤妙椿ら岩倉方と戦い、勝利を収めた。この際に下津城は炎上したため、織田敏広は山田郡の国府宮に敗走したという。しかし、その後の尾張は西軍優勢となったようで、敏定の動向は定かではないが、尾張を離れて京都に滞在していたとされる。
 文明10年(1478年)9月9日、応仁の乱が東軍の勝利に終わると、敏定は室町幕府から尾張守護代に任じられ、「凶徒退治」(凶徒とは西軍に属す斯波義廉と織田敏広を指す)を下命されて京都から尾張に下国した。これによって敵方であった美濃守護の土岐成頼,斎藤妙椿らの援助を受け、新たに守護所が置かれた清洲城に無事入城した。同年、10月12日に再び勢力を盛り返した織田敏広と戦い勝利するが、12月4日に織田敏広は清洲城を攻撃し、斎藤妙椿が敏広救援に乗り出してきたため形勢は逆転した。この時、敏定は美濃牽制のため、信濃国の小笠原家長に援助を求めたという。この戦いで清洲城は一時的に炎上し、敏定は山田郡の山田庄に敗走している。この戦いで右目に矢を受けたという。不利な状況のため、翌文明11年(1479年)1月19日には斎藤妙椿の仲介で両軍は尾張を分割統治することで和睦した。大和守家は尾張の南東部を安堵されて伊勢守家と尾張を共同統治することになった。その後、斯波義敏の嫡男で尾張守護・斯波義寛と共に在京していたという。
 文明13年(1481年)3月に伊勢守家と再び争うが、勝利している。その後に織田敏広は死去している。同年7月、敏広の後を継いだ養子(甥)の織田寛広、敏広の弟・広近らが斯波義寛に帰順した。さらに同年8月には織田寛広,織田広近らと共に敏定も上洛し、8代将軍・足利義政に尾張平穏の報告も兼ねて礼物の献上をしたという。
 長享元年(1487年)、9代将軍・足利義尚による六角高頼征伐(長享の乱)に参陣した斯波義寛に伊勢守家と共に従軍している。同年、主君・義寛の名代として敏定は越前国の主権を幕府に願い出ているが、要求は退けられた。延徳3年(1491年)、10代将軍・足利義稙による六角高頼征伐でも義寛に従軍し、軍功があったという(延徳の乱)。
 その後も伊勢守家と対立を続けるが、翌年の明応4年(1495年)7月、布陣中に死去したという。享年は44とされる。

 主君の尾張守護・斯波義寛の一字「寛」の偏諱を受け、寛定と名乗ったと推定される。
 明応3年(1494年)、美濃守護・土岐氏の家督争い(船田合戦)が起こると、石丸利光の娘を正室に迎えたため、土岐元頼,石丸利光方に味方して、土岐政房,斎藤妙純方の岩倉の上四郡守護代で織田伊勢守家当主の織田寛広と戦うが、明応4年(1495年)7月、父が陣中に死去する。だが、構わずに寛定は布陣を継続したが、一度、尾張へと下国して寛定は家督を継いだ。しかし、同年9月には美濃で討ち死にした。家督は一説に弟とされる寛村が継いだ。

織田寛村 織田達勝

 尾張清洲城主。明応4年(1495年)5月、土岐氏の家督争いである船田合戦では石丸利光へ援軍を送った。同年9月、父・敏定の跡を継いだ兄とされる寛定が討ち死にするとその家督を継ぎ、石丸方敗退に構わず織田伊勢守家と対立を続けた。その後、美濃の斎藤妙純を仲介に対立していた嫡流「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)の岩倉城主織田寛広と和睦した。
 明応9年(1500年)9月、実成寺に寺領安堵したのを最後に文献から寛村の名は途絶え、文亀3年(1503年)頃には寛村に代わり、次代・達定が守護代となっているので、その前後に隠居もしくは死去したと思われる。また在任期間が短いので、一説にこの両者を同一人物とする説がある。

 永正10年(1513年)、兄とされる先代の織田達定が尾張守護の斯波義達と争い、殺害された後、まもなく清洲織田氏(織田大和守家)の後継者として歴史の表舞台に登場する。清洲三奉行の補佐を受けるも、やがて、三奉行家の一つで家臣筋の「織田弾正忠家」当主である勝幡城主・織田信定が台頭するようになる。
 永正13年(1516年)妙興寺に寺領安堵の判物を出している。清州三奉行の連署によるものである。享禄3年(1530年)、守護の斯波義統の代理として兵を率いて上洛したが、軍事目的ではなかったのでそのまま帰還した。この行動は織田氏一族の反発を招いてしまった。1532年(天文元年)頃には信定の後継者である「織田弾正忠家」当主の織田信秀と争い、達勝は同じ三奉行家の「織田藤左衛門家」と共に信秀と戦ったが、その後、和睦している。
 没年については不詳であるが、永正年間後半から天文年間の後半まで存在が確認され、非常に長期間にわたり守護代の地位にあったと推測される。その後は達勝に代わり、信友が新たな守護代となった。
 永正15年(1518年)、達勝自身が勝獄山円福寺に提示した制札に「藤原達勝」とあり、このことから少なくとも達勝自身は藤原氏を称していたと伝わる。

織田信友 織田敏信

 尾張下四郡を支配した守護代・清洲織田氏(織田大和守家)の織田達勝の後継者であるが、継承時期は不明である。斯波義統を傀儡の守護として擁立した。しかし、信友自身は家臣である坂井氏や河尻氏に家中の主導権を握られていたようである。また元々は家来筋であった清洲三奉行の1人「織田弾正忠家」当主・織田信秀と尾張国の覇権をめぐって争ったが、後に和睦している。
 信秀の死後は織田信行(信勝)の家督相続を支持し、信秀の後を継いだ織田信長と対立する。信長の家臣の鳴海城主・山口教継の謀反に乗じ、萱津の戦いを起こすも、守山城の織田信光に支持された信長に敗れ、家臣・坂井甚介を失う。さらに信長暗殺計画を企てたが、事前に斯波義統の家臣である簗田弥次右衛門に知られて、信長に密告されたために失敗し、家臣の那古野弥五郎の内通もあり、かえって清洲城に焼き討ちを受けるなど追い込まれていく。
 天文23年(1554年)、信友は小守護代と呼ばれた家老の坂井大膳と図り、斯波氏の家臣の大部分が斯波義統の子の義銀に従って城外に出かけた隙に義統を暗殺した。義銀は信長を頼り逃亡。義銀を擁した信長の反撃を受けた信友は安食の戦いで敗れ、家臣・河尻左馬丞,織田三位等も失う。翌天文24年(1555年)、生き残った坂井大膳の進言により信光の調略をするも、かえって信光の謀略にかかり、ついに大膳は今川氏に逃亡した。信友自身は主殺しの咎によって信光に殺害された。
 清洲織田氏は断絶、信行も弘治3年(1557年)に信長に謀殺され、岩倉織田氏(織田伊勢守家)で尾張上四郡守護代の織田信安も子の信賢によって居城岩倉城から追放、信賢も永禄2年(1559年)に信長に降伏して追放。信友の傀儡から信長の傀儡と化した義銀も最後には追放され、尾張は信長によって名実ともに統一支配された。

 尾張下四郡を治めた守護代の「織田大和守家」当主の清洲城主・織田大和守敏定の嫡男とされ、尾張上四群を治めた「織田伊勢守家」当主の岩倉城主・織田信安の父とされるが、しかし、出自についてははっきりせず定かではない。
 文明17年(1485年)9月8日、室町時代の歌人である万里集九が江戸城に太田道灌を訪ねる中途、尾張春日井郡にある清洲城の織田敏信邸に立寄り、織田敏信の許で犬追物を見物して詩を作ったといわれる。
 延徳3年(1491年)、10代将軍・足利義稙による六角高頼征伐のため、敏信は父とされる織田敏定とともに尾張守護斯波義寛に従軍したという(延徳の乱)。
 また明応2年(1493年)、再び守護・斯波義寛に従い、織田敏信は上洛して京に滞在するなど各地で活躍したという。
 没年について岩倉市の龍潭寺にある敏信の位牌には永正14年(1517年)1月26日没。『前野家文書』「武功夜話」では明応4年(1495年)、船田合戦で討死とも。後に娘は織田信秀の側室となったといわれる。

織田信安 織田信家

 岩倉城を居城として、尾張上四郡を支配した織田伊勢守家(岩倉織田氏)の当主。ただし、尾張下四郡を支配した織田大和守家(清洲織田氏)の出身者とされる。一説に父とされる織田敏信の死後、その跡を受けて岩倉城主となるが幼かったため、織田大和守家の家臣筋にあたる犬山城主・織田信康の補佐を受けたというが定かではない。
 信長とはその父・信秀の時代においては縁戚関係を結んだこともあって比較的友好関係にあり、幼少の信長とは猿楽などを楽しんだ仲であったという。しかし、信秀の死後、犬山城主の織田信清(信康の子)と所領問題で争い、そのこじれから信長とも疎遠となった。天文22年(1553年)3月27日、家老の稲田大炊助が信長と内応している疑いがあり、稲田を殺害。弘治2年(1556年)の隣国美濃における長良川の戦いで信長の岳父である美濃の斎藤道三が子の義龍に討たれると、信安は義龍と呼応し信長と表立って敵対するようになり、同年の稲生の戦いで信長の弟で末森城主・織田信勝(信行)が信長に反乱を起こしたときは信勝に味方した。
 弘治元年(1555年)に織田大和守家当主・織田信友が守護斯波氏への謀反で信長に討たれ、弘治3年(1557年)に信勝が謀殺された後も勢力を保っていたが、長男の信賢を廃し次男の信家を後継にしようとしたため、かえって信賢により信安は岩倉城から追放されることとなる。その信賢も永禄元年(1558年)の浮野の戦いに敗れ、まもなく織田伊勢守家は滅亡したため、信安も尾張に復帰する機会を失った。
 その後、信安は斎藤義龍の家臣となり、義龍の死後もその子・龍興にも仕え信長に抵抗したが、その都度敗れた。やがて斎藤氏が滅ぼされると、信安は京都に逃れた。しかしやがて同族の誼から、信長より罪を許されて美濃白銀に所領を与えられ、晩年は安土総見寺の住職になった。信家は信長の嫡男・信忠の家臣となった。
 天正19年(1591年)10月24日に死去。なお、旧臣の山内一豊を頼って土佐で隠棲し、堪忍料として100石を宛がわれ、慶長19年(1614年)または慶長16年(1611年)11月27日に没したとする説もある。真如寺に葬られ、岩倉の誓願寺にも墓石がある。

 父の信安が兄の信賢を廃嫡し、信家に家督を継がせようとしたため、家督争いが起きた。それにより、北尾張の家臣団は二派へと分裂したが、信賢により、父の信安とともに信家は尾張から追放させられた。永禄元年(1558年)の浮野の戦いで兄が滅ぼされると、父は斎藤家に仕え、織田信長に抵抗したが、後に信長に罪を許された。この際に信家は信長の嫡男・織田信忠付きの家臣となった。
 永禄12年(1569年)、荒子城主・前田利春の嫡男・前田犬千代(後の前田利家)の元服の際、烏帽子親となり、「家」の偏諱を与えて利家と名乗らせたといわれる。
 天正10年(1582年)、信長の甲州征伐に従うが、信濃高遠城攻略の際に武田方に討ち取られた。

津田正盛 織田敏宗

 文禄3年(1594年)、徳川家康に初御目見後、大坂へ向かい豊臣秀吉に仕える。秀吉死去以後は家康に召し出され、関ヶ原の戦いでは東軍に従軍する。その後、松平忠吉附属となる。忠吉の尾張清洲入府の際、先方案内したうちの一人である。清洲越しの後、大坂冬の陣・夏の陣に従軍した。徳川義直へ年頭拝謁の時、織田家の古家であることから必ず附家老成瀬氏,竹腰氏よりも先の待遇であった。
 嫡子がなく、兼松正成の次男の正方を養嗣子にし隠居する。隠居後に実子の信明が生まれ、津田家を実子相続させる願いを残す。寛文元年4月30日病没。享年79歳。正方が家督相続するが、正方の死後、願い通り実子の信明が家督相続し、織田家の血筋が続くことになる。

 清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」織田信秀の伯父、織田信長の大伯父である。織田信秀に仕え、天文13年(1544年)8月、三河の松平長親が死去すると、三河安祥城攻めに出陣し(安城合戦)、3000軍を率いるも攻略に失敗し、やむなく撤退した。この際、腹へ傷を負ったとされる。翌年の天文14年11月9日(1545年12月12日)、京極常観の娘を娶った。なお没年は定かではないが、死因は病死とされる。また後に子とされる定宗は飯尾氏の養子となったという。
織田信定 織田信康

 信定は、尾張下四郡守護代に補任された織田大和守家の分家の生まれで、同家は重臣として仕え、清洲三奉行の1つとして大和守家の執務を輔佐、実行する家柄であった。信定も清洲城を本拠とした織田大和守家当主の織田達勝のもとで奉行の地位にあり代々弾正忠を通称とした。また、弾正左衛門尉とも称したという。
 永正13年(1516年)中に発せられた妙興寺の寺領や末寺を安堵する2つの連署状に「織田弾正忠信貞」と署名がある。
 中島郡,海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収め、津島に居館を構えた。この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎となったとされる。
 永正年間に勝幡城を築城し、大永年間に津島の館から拠点を移した。天文年間初めに嫡男・信秀に家督を譲って隠居した。この際、木ノ下城(犬山城とも言う)に移り、勝幡城を信秀に与えたとされる。

 天文2年(1533年)7月11日、兄の信秀が主家筋の織田大和守家(清洲織田氏)織田達勝と争った際、和平成立後、信秀の代理として清洲城に出向いた。また、1537年には犬山城に入城し、織田伊勢守家(岩倉織田氏)の織田信安の後見役も務めたとされる。信秀に従い、今川氏との小豆坂の戦いなどで戦功を挙げるなど、政戦両面で活躍した。
 天文13年(1544年)、斎藤道三との戦いに従軍し、美濃稲葉山城攻め(加納口の戦い)にて戦死。没年については天文16年(1547年)ともされる。子の信清は信秀,信長に対して反抗的であったため、犬山織田家は織田弾正忠家の敵対勢力の一つとなる。

織田信清 津田信益
 父・信康が「織田伊勢守家」当主の織田信安の後見人となっていたことから、その配下となっていたが伯父信秀死亡後は、犬山城で独自勢力として行動する。信清が領地を押領したため険悪な状態となっていた信長より姉を貰い受けると、弟の広良同様信長に仕える身になった。永禄元年(1558年)7月12日、浮野の戦い,岩倉城攻略で信長を支援したが、追放された織田信賢の旧領地の分与を巡って信長と諍いを起こし、永禄5年(1562年)反旗を翻し、楽田城を奪う。しかし、攻勢を強めた信長軍によって支城を次々に攻め落とされ、永禄7年(1564年)5月には居城の犬山城も陥落し、遂に信清は甲斐へと逃亡。武田氏の元で犬山鉄斎と称した。

 信清は生涯を通して信長に反抗したが、その息子である信益は信長に罪を許され、天正9年(1581年)、連枝衆として馬揃に加わる。天正10年(1582年)、本能寺の変直前の信長上洛の際、蒲生賢秀らと共に安土城本丸の留守衆に名を連ねている。のち豊臣秀吉に仕え、茶道の縁で片桐且元の下にいたことがあるともされる。晩年は越前北ノ庄藩(福井藩)に仕えた。娘らと共に、徳川将軍家との連絡役も行っていたようである。
 長女の奈和(長寿院)は結城秀康の側室となり、北ノ庄藩領内の永平寺町の信益の屋敷で、越前大野藩主となる六男の松平直良を産んだ。1609年に死去している。
次女の於佐井(貞正院、1624~84年)は、徳川家康に望まれて嫡男・秀忠の娘の東福門院に仕えた後、徳川義直の側室となり、義直正室の浅野氏の死後は継室として正室となり、娘(京姫、広幡忠幸室)を産んでいる。容姿の美しさや才知の素晴らしさが伝わっている。
 長男・信総(九郎次郎),三男・信勝(図書)は直良に仕えた。信勝は直良の勧めにより織田氏に復姓、大野藩(のちに明石藩)家老織田家の祖となる。信総の子・直信は尾張藩士津田家の祖である。
 結城秀康の側室に、侍女として仕えていた片桐氏の娘(お三の方)は、津田氏の推薦もあり、越前松平家4代・松平光通の側室となったのち、光通唯一の男子であった松平直堅を産む。この直堅は紆余曲折あって福井藩を出奔することになるが、その際、直良を頼り、大野藩の江戸藩邸に匿われた。この一件に際し直堅が直良を頼った理由は、片桐氏出身の母親からかつて片桐且元と縁があった津田信益を祖とする大野藩家老織田家(津田家)、そして津田家出身の長寿院を母とする直良へと繋がる縁を頼りにしたのだと推測される。
 織田信長の嫡男の信忠の次男、すなわち信長の孫に当たる織田秀則の後身(変名)であるという説がある。この説によると、関ヶ原で西軍として敗北した秀則は兄・秀信と別れて落ち延び、結城秀康に匿われ、織田家連枝が使う姓の「津田」に改め、“津田左衛門信益”と改名したという。

織田信益(広良) 織田信時

 美濃十九条城主。従来では津田信益と混同されてきたが、別人とされる。「織田系図」によると信長の妹とされるお市の方は広良の娘という記述がある。また勘解由左衛門と名乗ったため、「織田伊勢守家」の養子という説がある。
 織田信秀死亡後は犬山城で独自の勢力を保っていたが、尾張上四郡の守護代への対抗のため兄・信清とともに織田信長の下に付く。浮野の戦いや岩倉城攻略戦で信長を支援。永禄5年(1562年)5月、美濃攻めのため、信長は佐久間信盛を大将に任じ砦の築城を始める。
 広良は前線である十九条城の守将であったが、大雨で川が氾濫した隙をついて美濃の斎藤軍は十九条城の攻撃を始める。信長は荒れ狂う川を渡りきり、援軍として駆けつけた。織田軍来訪を知った斎藤軍は十四条で織田軍を迎え撃った(十四条の戦い)。広良は先陣として活躍するが、斎藤方の野々村正成に討ち取られてしまったとも。

 天文24年4月20日(1555年5月10日)、織田信長は清須城の奪取に成功し、大功を挙げた叔父の守山城主・織田信光に那古野城を与えた。信光のあとに守山城主となったのが信光の弟・織田信次であった。6月26日、守山城下龍泉寺近くの庄内川ほとりにおいて、信次の家臣・洲賀才蔵が馬の遠乗りをしていた信長,信行の弟・織田秀孝を射殺し、それを知った信次はそのまま逐電した。守山城は攻め寄せて来た織田信行の軍によって城下を焼き払われた。また、信長の重臣・佐久間信盛の調略によって、城内に残った家臣のうちの角田新五と坂井喜左衛門が寝返り、信時が引き入れられて守山城主となった。信時は、信盛の働きを賞して新たに知行百石を与えた。
 信長の家老・林秀貞が弟の林美作守や柴田勝家と謀って信長への謀反を企てたときは、それを知った信長に従って二人だけで林兄弟のいる那古野城に乗り込み、秀貞が三代にわたる主君に手をかけるのを躊躇したため、生還を遂げている。
 後に坂井喜左衛門の息子・孫平次が信時の若衆となって異例の出世をしたため、それを嫉んだ角田新五は、弘治2年(1556年)6月のある日に城内の塀,柵の普請と偽って軍勢を引き入れた。追い詰められた信時は切腹して果てた。
 『信長公記』から信広と同母で信長の弟ではなかった、すなわち信長の異母兄だったとも推測される。1女があり、信時の死後池田恒興の養女となって飯尾敏成に嫁し、敏成戦死の後に下間頼龍に再嫁して、下間頼広(後の池田重利)を産んだ。このため、播磨新宮藩主・池田氏は信時の女系子孫にあたる。

織田信光 織田信次

 武勇に優れ、兄・信秀に従って小豆坂の戦いに出陣し武功を挙げ、『甫庵信長記』などによれば小豆坂七本槍の一人として名を馳せた。その一方で『三河物語』によれば、信秀打倒を目指す三河の松平清康に内応して、清康を居城の守山城に呼び寄せたことになっている。清康と反目していた松平信定の娘を妻にしていたことから、清康の家臣からは疑惑を持たれもしたが、結局森山崩れにより清康は落命した。信秀の死後は、家督を継いだ甥の織田信長を支持し、萱津の戦い,村木砦の戦いなどで活躍した。
 『信長公記』によると、信長と敵対する織田大和守家当主・織田信友の重臣・坂井大膳の誘いに応じるふりをし、天文24年(1555年)4月19日に清洲城に入城。翌20日、信友を謀殺して清洲城を奪い、大膳は今川義元の下に逃れた。信光は信長に清洲城を渡すと、自身は信長より譲られた那古屋城に入ったが、弘治元年11月26日(1556年1月7日)に不慮の死を遂げた。『甫庵信長記』によると、近臣で北の方(信光夫人)と通じていた坂井孫八郎により殺害されたという。

 兄の織田信秀に仕え、初め深田城主となる。天文21年8月15日(1552年9月3日)、信秀の死後に攻勢に出た清洲織田家・織田信友の重臣・坂井大膳らが織田伊賀守の松葉城と深田城を占拠し、伊賀守と信次は人質となった。翌16日、織田信長と信光(信秀の弟で信次の兄)が駆けつけ、萱津の戦いが起こり、大膳側を敗走させ、伊賀守と信次も解放された。
 天文24年4月20日(1555年5月10日)、信友が信長によって滅ぼされ、兄の信光が守山城から那古野城へ移ると、後任の守山城主となった。ところが弘治元年6月26日(1555年7月14日)、信次が家臣を連れて龍泉寺の下の松川渡しで川狩りをしていたところ、1人の若者が馬に乗って通りかかった。若者が馬から下りないという無礼な態度だったため、信次の家臣・洲賀才蔵は怒って弓で射殺した。近づいて見てみると、その若者は信長の弟・織田秀孝であり、遺体を見て驚愕した信次はそのまま逃亡した。守山城下は、弟の死に激怒した織田信勝(信長の弟で秀孝の兄)の軍により焼き払われた。信長の異母弟・織田信時が後任の守山城主を務めたが、重臣の角田新五の謀反にあい自害したため放浪中の信次は信長に罪を許され守山城主に戻った。
 天正元年(1573年)、信長と対立した妹婿・浅井長政の小谷城が攻め落とされ、浅井氏が滅亡した際、お市の方と茶々,初,江の三姉妹は大叔父にあたる信次に預けられたともいわれている。
 天正2年(1574年)、長島一向一揆攻めに参加。兵糧攻めを受けた一揆勢は降伏しようとするが信長は受け入れず、退城して海から逃げようとする一揆方の人々を鉄砲で射殺させた。追い詰められた一揆勢は捨て身の斬り込みをかけ、この時信次は戦死した。なお、中川重政,津田盛月の祖父とされるが、年代的にやや不自然であり疑問視する見解もある。

津田信勝 津田信任

 早くから信長に仕え、信長の尾張国統一に協力した。天文21年(1552年)、信長と織田信友が争った萱津の戦いでは、坂井五郎を討ち、弘治2年(1556年)の信長と織田信行(信勝)の争った稲生の戦いでは、柴田勝家配下の鎌田勘之丞を討ったと伝わる。これらの功績により黒母衣衆の一員となった。永禄12年(1569年)からは信長の命令で足利義昭の守備を任されている。
 ところが、兄の重政と長光寺城主・柴田勝家との領地が入り組んでいたために両家の間で抗争が起き、盛月が勝家の代官を斬ったため、兄と共に改易となった上で追放された。
 後に羽柴秀吉に召されて姫路に至り、「外峯四郎左衛門」と名を改めて仕えた。以後、秀吉の下で備中攻めなどで戦功を挙げた。秀吉の許にいるのが信長に露見し切腹させられるところであったが、本能寺の変によって命拾いしたという。
 天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いに参加し、その功績により従五位下、隼人正に叙任され、津田姓に改める。戦後、家康と秀吉妹・朝日姫との縁談をまとめたのは、蜂須賀正勝と盛月の功績によるという。
 天正15年(1587年)の九州平定にも参加し、秀吉から所領を与えられて3万5千石の大名となった。
 天正17年(1589年)7月に真田氏の領土だった沼田城を小田原北条氏に引き渡す際、富田一白、榊原康政と共に立ち合いを行った。10月、後北条氏の北条氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が起きた際、富田一白と共に関係者の引き渡し,処罰を求める上使として北条氏に派遣された。この件を北条氏が拒否し、一旦は融和しつつあった秀吉と北条氏の関係が完全に決裂し、小田原攻めへと繋がった。北条氏直は高野山にて蟄居処分となったが、蟄居中の氏直が秀吉へ赦免を誓願する際にはやはり、富田一白と盛月を通して行っている。
 文禄2年(1593年)に伏見にて死去した。享年58。跡を長男の信任が継いだ。

 津田氏は勝幡織田氏庶流で、一説には織田信長の従甥にあたると云う。
 羽柴秀吉に家臣として長浜城主時代から仕え、天正元年(1573年)に黄母衣衆に任じられた。文禄2年(1593年)、父の死去により家督を継いだ。山城国三牧城主として3万5000石を領した。
 しかし同年または翌年、伏見醍醐,山科における洛外千人斬り事件の犯人として逮捕された。死罪になるところであったが、父の多年の功績に免じて死一等を減じ、所領(御牧藩の前身)を没収。剃髪出家して長意と号するように命じられ、前田利家(または利光)に身柄を預けられて、加賀国金沢に幽室蟄居となった。家督は弟の信成が1万3000石に減封された上で相続した。

津田信成 木下雅楽助

 大名の衣装や日用品を収納する挟箱を考案した。羽柴秀吉に仕えて、天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍する。文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、肥前名護屋城に在陣し、西の丸御前備衆を務め、500人の兵を預けられた。
 文禄2年(1593年)、兄の信任が洛外千人斬り事件の犯人として逮捕されたため、津田家の家督を継ぐこととなる。このとき、3万5000石から1万3000石に減封された。文禄3年(1594年)からの伏見城築城にも参加している。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、本戦では西軍の戸田勝成と奮戦して武功を挙げた。そのため戦後は所領を安堵され、御牧藩主となる。ところが慶長12年(1607年)、美濃清水藩主の稲葉通重や旗本の天野雄光らと共に京都の祇園に赴いたとき、茶屋四郎次郎や後藤庄三郎の女房をはじめとする美女7,8名を茶店に連れ込んで酒を飲ませたり、従者を木に縛り付け、刀を抜いて斬り捨てると脅すなどの乱暴狼藉を働いた経緯を徳川家康に咎められ、御牧藩は改易された。一説には、関ヶ原の戦いで戸田勝成を討ったのは織田長孝の功績であったが、それを信成が横取りしたことを咎められたともいう。
 正保2年(1645年)8月20日、下野足利にて死去した。享年84。

 織田信次の孫に当たるとされるが、年代的に疑問視されることもある。
 永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いに参陣して前田利家,毛利十郎と共に斬穫した首を持って信長の元に参じたのが初見。
 永禄4年(1561年)の森部の戦いで斎藤氏家臣の長井新八郎という武将を討ち取って高名した。そしてこの頃に赤母衣衆に選抜されている。
 永禄12年(1569年)8月の伊勢大河内城の戦いでは「尺限廻番衆」を務め、菅屋長頼,塙直政,前田利家,福富秀勝,中川重政,河尻秀隆,湯浅直宗らと共に城を包囲した。だが、雅楽助はこの戦いで股を負傷したと言われる。
 その後、元亀3年(1572年)8月に兄である中川重政,津田盛月らが織田家を追放処分となった一件に連座したか、一時消息不明となる。天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは連枝衆として周防(雅楽助)が参加している。
 後に羽柴信吉に仕え、天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いで三河中入り部隊が編成された時に羽柴信吉が大将を務める第4陣に参加して徳川家康の本拠岡崎城を目指していたが、4月9日に白山林で休息していた際に、後方から水野忠重,丹羽氏次,大須賀康高勢、側面から榊原康政勢の一斉攻撃に見舞われ信吉の隊は壊滅。この際に雅楽助は討死したという。

おつやの方 織田秀敏

 東美濃の遠山氏の宗家の当主である遠山景任に嫁いだ。元亀3年8月14日(1572年9月21日)景任は子供が無いまま病死したため、信長は息子の御坊丸を岩村遠山氏の後継として送り込んで、おつやの方を、事実上の岩村城主とした。
 同10月、甲斐国の武田信玄が西上作戦を開始する。信玄はそれまで各地に上洛する旨を喧伝しており、同11月14日、秋山虎繁は武田氏の軍勢で岩村城を取り囲み、おつやの方と婚姻すれば、岩村城に籠る者達を助命するという条件を突きつけた。おつやの方は、当時、織田氏が緒戦で忙しく救援が待てなかったため、その条件を受け入れて岩村城を開城し武田氏の軍門に下った。岩村城は武田氏のものとなり、信玄は配下の下条信氏を送り込んだ。また11月14日に信玄は遠山氏に岐阜の信長を牽制せよと命じており、また12月12日には遠藤加賀守に岩村城へ兵を増援すると伝えている。11月15日に、信長は遠山佐渡守に岩村遠山氏が武田氏に臣従したにも関わらず織田方に残って忠節を尽くしたことを賞し日吉郷,釜戸本郷を与えている。
 元亀4年(1573年)2月下旬に、織田掃部の肝煎りで、おつやの方と秋山虎繁との婚姻が行われた。その後、御坊丸は人質として甲斐に送られた。
 天正3年(1575年)織田氏と徳川氏の両軍は長篠の戦いで武田勝頼の軍勢を敗ると、織田信忠らが岩村城を包囲した。勝頼は岩村城を救援するべく出陣したが、到着するより前の11月21日、岩村城に籠城していた秋山が率いる武田方は助命を条件に降伏した。同年11月21日(12月23日)、織田氏は、秋山虎繁,大嶋杢之助,座光寺為清が降伏し、赦免の参礼に来たところを捕らえて岐阜城近くの長良川の河原へ連行し、そこでおつやの方共々が、逆さ磔の極刑に処された。おつやの方は処刑の際に声を上げて嘆き悲しみ「我、女の弱さの為にかくなりしも 叔母をかかる非道の処置をなすは、必ずや因果の報いを受けん」と絶叫しつつ果てたという。信長は、自分の叔母のおつやの方を自らの妻にして岩村城を乗っ取り、息子の御坊丸を人質として甲斐に送った秋山虎繁と、虎繁と結婚して武田方に寝返った、おつやの方を憎悪していたともされる。
 明暦3年(1657年)に岩村藩主となった丹羽氏純は、処刑された秋山虎繁と妻のおつやの方の霊の祟りにより、歴代の岩村藩主が遭難したり後嗣が夭折すると言われていたため、その祟りを鎮めるために、妙法寺の境内に、天台宗の恵照山五仏寺を建て、丹羽氏明の母・香樹院の兄が剃髪して住職となった。五仏寺は丹羽氏が国替となった際に廃寺となったが、現在、妙法寺の境内には、おつやの方と秋山虎繁を供養する「まくら冢」が残っている。

 『重修譜』によると、清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」当主の織田信定の末弟。織田信秀の叔父にして織田信長の大叔父「玄蕃」にあたるとされている。織田信秀に仕え、いち早く「秀」の偏諱を受け、秀敏と名乗ったと推定される。
 天文21年(1552年)、信秀の跡を継いだ織田信長から尾張愛知郡の中村三郷を安堵されている。この時期、織田家家中の不統一をめぐり、信長の岳父である美濃の斎藤道三に訴え、それに対し、6月22日付けの織田玄蕃允(秀敏)宛の道三の書状の中で、道三は秀敏に調停を試みるように促し、信長を擁護する立場にある秀敏を労っている。このことから織田一門の長老として、信秀の後を継いだ信長の後見人を任せられていることが窺える。
 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで甥(または兄弟)とされる飯尾定宗とともに鷲津砦に置かれた。同年5月19日、今川軍の猛攻で鷲津砦は落城した。その後は消息は不明で、落延びたともいわれるが、同じく砦を守っていた定宗が戦死していることから秀敏も討ち死にしたとみられる。
 子の秀重は信長の死後、豊臣秀吉,徳川家康に仕え、のち子孫は美濃3000余石の旗本となった。