OD01:織田親真 | 織田親真 ― 織田敏定 | OD02:織田敏定 |
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織田敏定 | 織田寛定 |
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敏定の家系「織田大和守家」は元々は「織田伊勢守家」(尾張守護代)の弟筋であり、初代は守護代の更に代理である又守護代を勤めた家系であった。後に敏定が伊勢守家と争って守護代の地位を獲得し清洲城を居城としたため、この家系は「清洲織田氏」とも呼ばれた。 |
主君の尾張守護・斯波義寛の一字「寛」の偏諱を受け、寛定と名乗ったと推定される。 |
織田寛村 | 織田達勝 |
尾張清洲城主。明応4年(1495年)5月、土岐氏の家督争いである船田合戦では石丸利光へ援軍を送った。同年9月、父・敏定の跡を継いだ兄とされる寛定が討ち死にするとその家督を継ぎ、石丸方敗退に構わず織田伊勢守家と対立を続けた。その後、美濃の斎藤妙純を仲介に対立していた嫡流「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)の岩倉城主織田寛広と和睦した。 |
永正10年(1513年)、兄とされる先代の織田達定が尾張守護の斯波義達と争い、殺害された後、まもなく清洲織田氏(織田大和守家)の後継者として歴史の表舞台に登場する。清洲三奉行の補佐を受けるも、やがて、三奉行家の一つで家臣筋の「織田弾正忠家」当主である勝幡城主・織田信定が台頭するようになる。 |
織田信友 | 織田敏信 |
尾張下四郡を支配した守護代・清洲織田氏(織田大和守家)の織田達勝の後継者であるが、継承時期は不明である。斯波義統を傀儡の守護として擁立した。しかし、信友自身は家臣である坂井氏や河尻氏に家中の主導権を握られていたようである。また元々は家来筋であった清洲三奉行の1人「織田弾正忠家」当主・織田信秀と尾張国の覇権をめぐって争ったが、後に和睦している。 |
尾張下四郡を治めた守護代の「織田大和守家」当主の清洲城主・織田大和守敏定の嫡男とされ、尾張上四群を治めた「織田伊勢守家」当主の岩倉城主・織田信安の父とされるが、しかし、出自についてははっきりせず定かではない。 |
織田信安 | 織田信家 |
岩倉城を居城として、尾張上四郡を支配した織田伊勢守家(岩倉織田氏)の当主。ただし、尾張下四郡を支配した織田大和守家(清洲織田氏)の出身者とされる。一説に父とされる織田敏信の死後、その跡を受けて岩倉城主となるが幼かったため、織田大和守家の家臣筋にあたる犬山城主・織田信康の補佐を受けたというが定かではない。 |
父の信安が兄の信賢を廃嫡し、信家に家督を継がせようとしたため、家督争いが起きた。それにより、北尾張の家臣団は二派へと分裂したが、信賢により、父の信安とともに信家は尾張から追放させられた。永禄元年(1558年)の浮野の戦いで兄が滅ぼされると、父は斎藤家に仕え、織田信長に抵抗したが、後に信長に罪を許された。この際に信家は信長の嫡男・織田信忠付きの家臣となった。 |
津田正盛 | 織田敏宗 |
文禄3年(1594年)、徳川家康に初御目見後、大坂へ向かい豊臣秀吉に仕える。秀吉死去以後は家康に召し出され、関ヶ原の戦いでは東軍に従軍する。その後、松平忠吉附属となる。忠吉の尾張清洲入府の際、先方案内したうちの一人である。清洲越しの後、大坂冬の陣・夏の陣に従軍した。徳川義直へ年頭拝謁の時、織田家の古家であることから必ず附家老成瀬氏,竹腰氏よりも先の待遇であった。 |
清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」織田信秀の伯父、織田信長の大伯父である。織田信秀に仕え、天文13年(1544年)8月、三河の松平長親が死去すると、三河安祥城攻めに出陣し(安城合戦)、3000軍を率いるも攻略に失敗し、やむなく撤退した。この際、腹へ傷を負ったとされる。翌年の天文14年11月9日(1545年12月12日)、京極常観の娘を娶った。なお没年は定かではないが、死因は病死とされる。また後に子とされる定宗は飯尾氏の養子となったという。 |
織田信定 | 織田信康 |
信定は、尾張下四郡守護代に補任された織田大和守家の分家の生まれで、同家は重臣として仕え、清洲三奉行の1つとして大和守家の執務を輔佐、実行する家柄であった。信定も清洲城を本拠とした織田大和守家当主の織田達勝のもとで奉行の地位にあり代々弾正忠を通称とした。また、弾正左衛門尉とも称したという。 |
天文2年(1533年)7月11日、兄の信秀が主家筋の織田大和守家(清洲織田氏)織田達勝と争った際、和平成立後、信秀の代理として清洲城に出向いた。また、1537年には犬山城に入城し、織田伊勢守家(岩倉織田氏)の織田信安の後見役も務めたとされる。信秀に従い、今川氏との小豆坂の戦いなどで戦功を挙げるなど、政戦両面で活躍した。 |
織田信清 | 津田信益 |
父・信康が「織田伊勢守家」当主の織田信安の後見人となっていたことから、その配下となっていたが伯父信秀死亡後は、犬山城で独自勢力として行動する。信清が領地を押領したため険悪な状態となっていた信長より姉を貰い受けると、弟の広良同様信長に仕える身になった。永禄元年(1558年)7月12日、浮野の戦い,岩倉城攻略で信長を支援したが、追放された織田信賢の旧領地の分与を巡って信長と諍いを起こし、永禄5年(1562年)反旗を翻し、楽田城を奪う。しかし、攻勢を強めた信長軍によって支城を次々に攻め落とされ、永禄7年(1564年)5月には居城の犬山城も陥落し、遂に信清は甲斐へと逃亡。武田氏の元で犬山鉄斎と称した。 |
信清は生涯を通して信長に反抗したが、その息子である信益は信長に罪を許され、天正9年(1581年)、連枝衆として馬揃に加わる。天正10年(1582年)、本能寺の変直前の信長上洛の際、蒲生賢秀らと共に安土城本丸の留守衆に名を連ねている。のち豊臣秀吉に仕え、茶道の縁で片桐且元の下にいたことがあるともされる。晩年は越前北ノ庄藩(福井藩)に仕えた。娘らと共に、徳川将軍家との連絡役も行っていたようである。 |
織田信益(広良) | 織田信時 |
美濃十九条城主。従来では津田信益と混同されてきたが、別人とされる。「織田系図」によると信長の妹とされるお市の方は広良の娘という記述がある。また勘解由左衛門と名乗ったため、「織田伊勢守家」の養子という説がある。 |
天文24年4月20日(1555年5月10日)、織田信長は清須城の奪取に成功し、大功を挙げた叔父の守山城主・織田信光に那古野城を与えた。信光のあとに守山城主となったのが信光の弟・織田信次であった。6月26日、守山城下龍泉寺近くの庄内川ほとりにおいて、信次の家臣・洲賀才蔵が馬の遠乗りをしていた信長,信行の弟・織田秀孝を射殺し、それを知った信次はそのまま逐電した。守山城は攻め寄せて来た織田信行の軍によって城下を焼き払われた。また、信長の重臣・佐久間信盛の調略によって、城内に残った家臣のうちの角田新五と坂井喜左衛門が寝返り、信時が引き入れられて守山城主となった。信時は、信盛の働きを賞して新たに知行百石を与えた。 |
織田信光 | 織田信次 |
武勇に優れ、兄・信秀に従って小豆坂の戦いに出陣し武功を挙げ、『甫庵信長記』などによれば小豆坂七本槍の一人として名を馳せた。その一方で『三河物語』によれば、信秀打倒を目指す三河の松平清康に内応して、清康を居城の守山城に呼び寄せたことになっている。清康と反目していた松平信定の娘を妻にしていたことから、清康の家臣からは疑惑を持たれもしたが、結局森山崩れにより清康は落命した。信秀の死後は、家督を継いだ甥の織田信長を支持し、萱津の戦い,村木砦の戦いなどで活躍した。 |
兄の織田信秀に仕え、初め深田城主となる。天文21年8月15日(1552年9月3日)、信秀の死後に攻勢に出た清洲織田家・織田信友の重臣・坂井大膳らが織田伊賀守の松葉城と深田城を占拠し、伊賀守と信次は人質となった。翌16日、織田信長と信光(信秀の弟で信次の兄)が駆けつけ、萱津の戦いが起こり、大膳側を敗走させ、伊賀守と信次も解放された。 |
津田信勝 | 津田信任 |
早くから信長に仕え、信長の尾張国統一に協力した。天文21年(1552年)、信長と織田信友が争った萱津の戦いでは、坂井五郎を討ち、弘治2年(1556年)の信長と織田信行(信勝)の争った稲生の戦いでは、柴田勝家配下の鎌田勘之丞を討ったと伝わる。これらの功績により黒母衣衆の一員となった。永禄12年(1569年)からは信長の命令で足利義昭の守備を任されている。 |
津田氏は勝幡織田氏庶流で、一説には織田信長の従甥にあたると云う。 |
津田信成 | 木下雅楽助 |
大名の衣装や日用品を収納する挟箱を考案した。羽柴秀吉に仕えて、天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍する。文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、肥前名護屋城に在陣し、西の丸御前備衆を務め、500人の兵を預けられた。 |
織田信次の孫に当たるとされるが、年代的に疑問視されることもある。 |
おつやの方 | 織田秀敏 |
東美濃の遠山氏の宗家の当主である遠山景任に嫁いだ。元亀3年8月14日(1572年9月21日)景任は子供が無いまま病死したため、信長は息子の御坊丸を岩村遠山氏の後継として送り込んで、おつやの方を、事実上の岩村城主とした。 |
『重修譜』によると、清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」当主の織田信定の末弟。織田信秀の叔父にして織田信長の大叔父「玄蕃」にあたるとされている。織田信秀に仕え、いち早く「秀」の偏諱を受け、秀敏と名乗ったと推定される。 |