弘仁14年(823年)無位から従四位下に叙せられ、侍従に任ぜられる。天長2年(825年)父・葛原親王による再度の抗表により、伯父に当たる淳和天皇から平姓を賜与され臣籍降下し、平高棟と名乗る。承和10年(843年)40歳の時に従三位に昇叙され公卿に列した。 仁寿元年(851年)参議に任官。斉衡元年(854年)皇太子・惟仁親王(のち清和天皇)の春宮大夫を兼任し、天安2年(858年)惟仁親王の即位に伴い正三位・権中納言に叙任される。貞観元年(859年)山城国葛野郡にあった別邸を仏教修行の道場とし、「平等寺」の額を賜与された。貞観2年(860年)中納言、貞観6年(864年)大納言に至る。 身長が六尺あり、美しいひげを持っていた。幼い頃から聡明で、古くから伝えられた書物を好んで読んだ。性格が細やかで親切であり、華美に飾り立てるようなことはなかった。諸官を歴任したが政務にあたっては寛容を重視した。晩年は仏教に帰依し経典を読誦した。大納言に任ぜられてのちは食封の多くを仏事に費やしたという。
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貞観13年(871年)に渤海使が来航すると、その接待にあたる掌渤海客使に任じられ、これに対応した。元慶2年(878年)に発生した元慶の乱の終結後に右近衛権少将兼陸奥守に遷る。 菅原道真と早くから親交があり、仁和4年(888年)の阿衡事件(阿衡の紛議)の際にはともに意見書を提出している。その後、宇多天皇,源能有の側近として重用され、東大寺俗別当,右中弁,左中弁を歴任する。特に寛平7年(895年)に能有が五畿内諸国別当に任じられると、山城国問民苦使に任じられ、権門による土地兼併が激しい同国の実情を調査して地方行政の改革と農民救済策をまとめた。宇多天皇-源能有によって推進された寛平の治において、季長は菅原道真,藤原忠平とともにその実務を担った貴族官僚であったと考えられている。 宇多上皇が新帝に出した『寛平御遺誡』において、季長は「深熟公事(公務に精通した人物)」として、藤原時平,菅原道真,紀長谷雄とともに重用すべき人物として挙げられている。だが、醍醐天皇の即位からわずか9日後の寛平9年(897年)7月22日に急死。 菅原道真から「宮中要須之人也、聖主所照不更具陳」と評価された季長の死は、前月の右大臣・源能有の死に続くもので、宇多上皇に大きな打撃を与えた。また、2人の相次ぐ死が菅原道真を結果的に政界の矢面に立たせることとなり、昌泰の変の遠因となった。
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