<桓武平氏>高棟王系

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平  時信 平 時子 平 時忠

 官位は検非違使・兵部権大輔・正五位下、贈左大臣・正一位。
 文章生を経て検非違使,兵部権大輔となる。鳥羽法皇の判官代として仕え、康治元年(1142年)5月には法皇の東大寺での受戒にあたって藤原顕頼と共に奉行を務めた。翌康治2年(1143年)に正五位下に叙される。
  久安3年(1147年)3月、院や皇后の近臣が居住する五条京極辺りにあった時信の屋敷が火災によって焼失している。久安4年(1148年)2月、前年に娘婿である清盛の行動が発端となった祇園闘乱事件の報謝のため、祇園社で法華八講を行う準備に派遣されている。翌年久安5年(1149年)7月26日死去。
  娘の滋子は、時信の死後に後白河法皇の寵妃となり、応保元年(1161年)に憲仁親王(のち高倉天皇)を産む。仁安3年(1168年)憲仁親王の即位によって天皇の外祖父となったことから、時信は左大臣・正一位を贈位された。
  『本朝世紀』によれば、「天性柔順」で争いごとをしない性格で、その死は多くの人に惜しまれたという。

 第一子の宗盛の誕生年より、久安元年(1145年)頃、清盛の後妻として迎えられたと推測されている。平治の乱後、二条天皇の乳母となり、永暦元年(1160年)12月24日、八十島典侍の賞により従三位に叙された。時子が二条帝の乳母となり、清盛が乳父となったことは、信西の地位の継承の狙いとともに、後白河院と二条帝の対立の中で、二条帝への従属と政治的奉仕の姿勢を示すものと考えられている。二条帝の崩御後、後白河院の寵妃となった異母妹・滋子とともに清盛と後白河院の政治的提携強化の媒介となり、仁安元年(1166年)10月10日、滋子の生んだ憲仁親王(後の高倉天皇)が立太子すると、同年10月21日に従二位に叙せられた。
  仁安3年(1168年)、清盛とともに出家。清盛が福原へ遷ると西八条第を継承し、八条櫛笥亭(八条二品亭)と名称を改めている。承安元年(1171年)、徳子が高倉天皇に入内すると、中宮の母として徳子の出産に関わったほか、高倉帝の諸皇子女の出生や成長儀式にも深くかかわり、清盛一門と皇室との関係を結ぶ役割も果たした。
   清盛亡き後は、宗盛や建礼門院徳子の母である時子が平家の家長たる存在となり、一門の精神的支柱として重きをなした。壇ノ浦の戦いで一門が源氏軍に最終的な敗北を喫すと、安徳帝に「浪の下にも都の候ぞ」と言い聞かせ、幼帝を抱いて海中に身を投じ自害した。
  なお『吾妻鏡』には、時子は、三種の神器の一つ天叢雲剣を持ち、安徳帝は按察使局が抱いて入水したとあり、按察使局は引き上げられて助かっている。また『愚管抄』には、時子が安徳帝を抱き、さらに天叢雲剣と三種の神器のもう一つである神璽を具して入水したとある。

 官位は正二位・権大納言で平大納言,平関白と称された。平家滅亡後も生き延びている。「平家にあらずんば人にあらず」とはこの時忠の発言である。
 久安2年(1146年)3月、17歳で非蔵人、翌年正月に六位蔵人となる。久安4年(1148年)から翌年にかけて検非違使・左衛門少尉となる。
  平治の乱が終わり清盛の発言力が著しく高まった永暦元年(1160年)4月、時忠は検非違使・右衛門権佐に抜擢された。翌年正月には清盛が検非違使別当に就任して京都の治安維持の責任者となり、時忠は清盛の下で現場の指揮に当たった。
  この頃から時忠は清盛の思惑から外れ、独自の動きを見せるようになる。応保2年(1162年)6月、院近臣・源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛したとして解官されるが、時忠も陰謀に関わったとして23日に出雲国に配流された。この事件において清盛は二条天皇支持の立場をとり、時忠に手を差し伸べることはなかった。
   永万元年(1165年)7月に二条天皇が崩御すると、非蔵人から蔵人頭にまでなるなど極めて異例の累進をして、仁安2年(1167年)2月11日には参議・右兵衛督となり、召還されてわずか2年余りで公卿への昇進を果たした。
  仁安3年(1168年)2月に憲仁親王が践祚(高倉天皇)、3月には妹・滋子が皇太后となる。時忠も滋子の兄という立場から、後白河院の側近として活動することになる。
 その後、平家の繁栄とともに昇進していくが、清盛がなくなり、後白河法皇の影響力が強まる中で、平家滅亡への道を転がり落ちていく。
 寿永2年(1183年)正月、時忠は権大納言となるが政権の崩壊は間近に迫っていた。寿永2年(1183年)5月、平氏の北陸追討軍が木曾義仲に撃破され(倶利伽羅峠の戦い)、今まで維持されてきた軍事バランスは完全に崩壊した。平宗盛は、安徳天皇と二宮だけを連れて都を退去した。時忠は閑院内裏に向かい、内侍所(神鏡)を取り出してから都落ちに同行した。安徳天皇および平氏に付き従った貴族は、わずかに時忠,時実,信基,藤原尹明に過ぎなかった。
  元暦元年(1184年)2月7日、平氏は一ノ谷の戦いで大敗。平氏はこの敗戦の打撃からついに立ち直れず、翌元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで壊滅した。
  時忠は壇ノ浦で捕虜となり、4月26日に入洛した。時忠は神鏡を守った功績により減刑を願い、娘を源義経に嫁がせることで庇護を得ようとした。5月20日、捕虜となった人々の罪科が決定し、時忠,時実,信基,藤原尹明,良弘,全真,忠快,能円,行命の9名が流罪となったが、時忠,時実は義経の庇護を受け都に残留していたため頼朝により咎められ、9月23日、時忠は情勢の悪化を悟り、配流先の能登国に赴いた。親平氏貴族の働きかけにより、時忠は配地では丁寧に遇されていたようである。また、都に残された時忠の家族にも特に圧迫が加えられた様子はない。 文治5年(1189年)2月24日、時忠は能登国の配地で生涯を終えた。

平 滋子 平 親宗 平 清子

 父は鳥羽法皇の近臣であり、滋子も法皇の娘・上西門院(後白河上皇の同母姉)に女房として仕えた。その美貌と聡明さが後白河院の目に留まり、寵愛を受けるようになる。応保元年(1161年)4月、院御所・法住寺殿が完成すると滋子は、後白河院や皇后・忻子と共に入御して「東の御方」と呼ばれるようになる。
  9月3日、滋子は後白河院の第七皇子(憲仁)を出産する。後白河院は35歳、滋子は20歳だった。仁安元年(1166年)、平清盛を自派に引き入れて、10月10日、憲仁親王の立太子を実現させた。滋子は生母として従三位に叙せられた。翌年正月には女御となり、家司と職事には教盛,宗盛,知盛,信範ら平氏一門が任じられた。
  仁安3年(1168年)2月、憲仁親王の践祚(高倉天皇)により3月20日に皇太后に立った。
嘉応元年(1169年)4月12日、滋子は女院に立てられ建春門院の院号を宣下される。滋子は後白河院が不在の折には、除目や政事について奏聞を受けるなど家長の代行機能の役目も果たすことになる。  安元2年(1176年)3月9日、後白河院と滋子は摂津国・有馬温泉に御幸する。帰ってまもない6月8日、滋子は突然の病に倒れる。病名は二禁(腫れ物)だった。後白河院は病床で看護や加持に力を尽くすが、病状は悪化する一方だった。7月8日、35歳の若さでこの世を去った。
  滋子の死は政情に大きな波紋を呼び起こした。もともと後白河院と清盛は高倉天皇の擁立という点で利害が一致していただけで、平氏一門と院近臣の間には官位の昇進や知行国・荘園の獲得などを巡り、鋭い対立関係が存在した。高倉天皇即位によって成立した後白河院政は、武門平氏,堂上平氏,院近臣という互いに利害を異にする各勢力の連合政権といえる形態をとっていたが、滋子の死により、今まで隠されていた対立が一気に表面化することになった。滋子の死からわずか1年後に鹿ケ谷の陰謀が起こり、後白河院と清盛の提携は崩壊する。滋子の死は一つの時代の終わりであると同時に、平氏滅亡への序曲ともなった。

 平清盛の縁戚につながる一人でありながら、異母兄の時忠と年齢が離れていたこともあり、平氏の勢力拡大時においても一貫して後白河法皇の側にあった。丹波局(江口の遊女)所生の第十皇子・承仁法親王(第63代天台座主)の養育にあたるなど絶大な信頼を得る。そのために治承三年の政変で、院の近臣の一人として右中弁の職を解かれている。
  こうした経緯により、寿永2年(1183年)に平氏一門が都落ちした際には随行せず都に止まったが、同年12月の木曾義仲によるクーデターで解官される。翌年には還任するが、文治元年(1185年)12月に源義経支持派としての行動を高階泰経,平知康らと並んで源頼朝に弾劾され、またも解官の憂き目に合っている。文治4年(1188年)6月、大納言・源定房が出家して源氏長者の象徴である淳和・奨学両院別当の職が空席となった。後任には権中納言・土御門通親が就任することが有力視されていたが、親宗は参議・左大弁でありながら「平氏も王孫であるから両院別当になる資格がある」と主張して通親を激怒させた。正治元年(1199年)に正二位・中納言となるが、これを極官として同年逝去。
  平氏一門の中では平重盛一家に近かったとされ、娘の一人は重盛の長男・維盛の側室になっている。また別の娘は西園寺公経との間に洞院実雄を産んでいる。

 異母姉である平時子の子で、甥にあたる平宗盛の正室となる。仁安元年(1166年)、憲仁親王(のちの高倉天皇)の乳母となった。仁安3年(1168年)、親王が即位した年に典侍となる。
 承安元年(1171年)に嫡男・清宗を出産。治承2年(1178年)に再び懐妊するが、同年7月16日に急逝。享年33。死因は腫物の悪化という。宗盛は深く悲しみ右大将を辞任した。

平 時実 平 時家

 仁安元年(1166年)に叙爵されると同時に越後守となり、讃岐守・左近衛少将を経て、寿永2年(1183年)には正四位下・左近衛中将に叙任される。
  平家の都落ちに従って解官。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦で捕らえられて京に戻り、まもなく周防国への流罪が決まったが、義兄弟となっていた源義経に接近して配所に赴こうとしなかった。11月、義経が源頼朝と対立して都を退去するとこれに同行するが、摂津国大物浦で船が転覆し、離散して京に戻る途上で村上経業の弟・禅師経伊に捕らえられた。その後、鎌倉に護送され、文治2年(1186年)正月に上総国に配流された。文治5年(1189年)に赦免されて帰京。建暦元年(1211年)には従三位に叙された。公家でありながら「心猛き人」と評された。

 平家一門でありながら源頼朝に味方してその側近として仕えた。
  仁安3年(1168年)に六位蔵人に任ぜられ、平家一門の栄華とともに出世を重ねる。ところが、治承3年(1179年)11月、突如上総国に流刑となる。実は時家の継母である時忠の後室藤原領子が時家と折合いが悪かったことからこの機に乗じて夫に讒言し、父時忠や清盛もこれを信じたものであった。
  上総に流された時家は地元の有力武士である上総広常に気に入られてその婿になった。後に源頼朝の挙兵によって上総は頼朝軍に占領され、広常もこれに従う。時家も広常の勧めに応じて寿永元年(1182年)に鎌倉に出仕して頼朝に仕えることになった。
  平家一門とはいえ頼朝から気に入られ、また時家自身も先の一件から一族に恨みを抱いていたため、頼朝に忠節を尽くすことになった。後に義父・上総広常は粛清されたが、頼朝からの信頼は変わらず、また頼朝の家臣団では最高位の位階を持つ人物として内外からの尊敬を集めた。鎌倉幕府初期の政治顧問の一人として活躍し、鎌倉で穏やかな晩年を過ごしたという。

 

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