官位は正二位・権大納言で平大納言,平関白と称された。平家滅亡後も生き延びている。「平家にあらずんば人にあらず」とはこの時忠の発言である。 久安2年(1146年)3月、17歳で非蔵人、翌年正月に六位蔵人となる。久安4年(1148年)から翌年にかけて検非違使・左衛門少尉となる。 平治の乱が終わり清盛の発言力が著しく高まった永暦元年(1160年)4月、時忠は検非違使,右衛門権佐に抜擢された。翌年正月には清盛が検非違使別当に就任して京都の治安維持の責任者となり、時忠は清盛の下で現場の指揮に当たった。 この頃から時忠は清盛の思惑から外れ、独自の動きを見せるようになる。応保2年(1162年)6月、院近臣・源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛したとして解官されるが、時忠も陰謀に関わったとして23日に出雲国に配流された。この事件において清盛は二条天皇支持の立場をとり、時忠に手を差し伸べることはなかった。 永万元年(1165年)7月に二条天皇が崩御すると、非蔵人から蔵人頭にまでなるなど極めて異例の累進をして、仁安2年(1167年)2月11日には参議,右兵衛督となり、召還されてわずか2年余りで公卿への昇進を果たした。 仁安3年(1168年)2月に憲仁親王が践祚(高倉天皇)、3月には妹・滋子が皇太后となる。時忠も滋子の兄という立場から、後白河院の側近として活動することになる。 その後、平家の繁栄とともに昇進していくが、清盛がなくなり、後白河法皇の影響力が強まる中で、平家滅亡への道を転がり落ちていく。 寿永2年(1183年)正月、時忠は権大納言となるが政権の崩壊は間近に迫っていた。寿永2年(1183年)5月、平氏の北陸追討軍が木曾義仲に撃破され(倶利伽羅峠の戦い)、今まで維持されてきた軍事バランスは完全に崩壊した。平宗盛は、安徳天皇と二宮だけを連れて都を退去した。時忠は閑院内裏に向かい、内侍所(神鏡)を取り出してから都落ちに同行した。安徳天皇および平氏に付き従った貴族は、わずかに時忠,時実,信基,藤原尹明に過ぎなかった。 元暦元年(1184年)2月7日、平氏は一ノ谷の戦いで大敗。平氏はこの敗戦の打撃からついに立ち直れず、翌元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで壊滅した。 時忠は壇ノ浦で捕虜となり、4月26日に入洛した。時忠は神鏡を守った功績により減刑を願い、娘を源義経に嫁がせることで庇護を得ようとした。5月20日、捕虜となった人々の罪科が決定し、時忠,時実,信基,藤原尹明,良弘,全真,忠快,能円,行命の9名が流罪となったが、時忠,時実は義経の庇護を受け都に残留していたため頼朝により咎められ、9月23日、時忠は情勢の悪化を悟り、配流先の能登国に赴いた。親平氏貴族の働きかけにより、時忠は配地では丁寧に遇されていたようである。また、都に残された時忠の家族にも特に圧迫が加えられた様子はない。文治5年(1189年)2月24日、時忠は能登国の配地で生涯を終えた。
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父は鳥羽法皇の近臣であり、滋子も法皇の娘・上西門院(後白河上皇の同母姉)に女房として仕えた。その美貌と聡明さが後白河院の目に留まり、寵愛を受けるようになる。応保元年(1161年)4月、院御所・法住寺殿が完成すると滋子は、後白河院や皇后・忻子と共に入御して「東の御方」と呼ばれるようになる。 9月3日、滋子は後白河院の第七皇子(憲仁)を出産する。後白河院は35歳、滋子は20歳だった。仁安元年(1166年)、平清盛を自派に引き入れて、10月10日、憲仁親王の立太子を実現させた。滋子は生母として従三位に叙せられた。翌年正月には女御となり、家司と職事には教盛,宗盛,知盛,信範ら平氏一門が任じられた。 仁安3年(1168年)2月、憲仁親王の践祚(高倉天皇)により3月20日に皇太后に立った。 嘉応元年(1169年)4月12日、滋子は女院に立てられ建春門院の院号を宣下される。滋子は後白河院が不在の折には、除目や政事について奏聞を受けるなど家長の代行機能の役目も果たすことになる。安元2年(1176年)3月9日、後白河院と滋子は摂津国・有馬温泉に御幸する。帰ってまもない6月8日、滋子は突然の病に倒れる。病名は二禁(腫れ物)だった。後白河院は病床で看護や加持に力を尽くすが、病状は悪化する一方だった。7月8日、35歳の若さでこの世を去った。 滋子の死は政情に大きな波紋を呼び起こした。もともと後白河院と清盛は高倉天皇の擁立という点で利害が一致していただけで、平氏一門と院近臣の間には官位の昇進や知行国,荘園の獲得などを巡り、鋭い対立関係が存在した。高倉天皇即位によって成立した後白河院政は、武門平氏,堂上平氏,院近臣という互いに利害を異にする各勢力の連合政権といえる形態をとっていたが、滋子の死により、今まで隠されていた対立が一気に表面化することになった。滋子の死からわずか1年後に鹿ケ谷の陰謀が起こり、後白河院と清盛の提携は崩壊する。滋子の死は一つの時代の終わりであると同時に、平氏滅亡への序曲ともなった。
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