治承4年(1180年)、源義仲が挙兵するとその麾下に参加し、寿永2年(1183年)、篠原の戦いに従軍。 平維盛の軍勢は倶利伽羅峠の合戦で義仲軍に大敗北し加賀国の篠原で立て直すも篠原の戦いでも敗れ総崩れとなる。斎藤実盛は老齢であることを隠す為に白髪を墨で黒く染め、平維盛に願い出て総大将が着る錦の直垂を着用し平家1騎のみで奮闘する。手塚光盛は実盛を討取るが、首を洗うとその人物は木曽義仲が産まれて2歳頃で命の恩人の斎藤実盛であった。『木曽義仲は人目もはばからず声を上げて泣いた。』義仲の家臣も光盛も経緯が分かり涙したと言う。 寿永3年1月、源範頼,義経の追討軍と戦い、義仲と共に戦死。最後まで義仲に従った四騎の内の一人であったという。 なお、「義仲のかくし城」によると手塚太郎光盛は生き延び、樋口兼光の遺児時兼と再会し観音堂を建立し義仲を弔った。光盛は今の木曽町福島で西光寺を建立し、村井城を築城し城主となるが、嫡子熊王丸に城主を譲り身を引く。その後、義仲の遺児で仁科の養子になっていた義重を補佐し白駒城を築城し熊王丸と樋口時兼で固めた。しかし、時兼は失脚してしまう。 手塚光盛の子孫は名を手塚から手束に変えて手塚光盛を供養している。
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彼は江戸の蘭方医であり、常陸府中藩医として江戸小石川三百坂に住んだ。 彼は大槻俊斎の才を認め、長崎留学させるなどの庇護を加え娘婿とした。蘭学修行のため息子・良庵を緒方洪庵の適塾に入門させている。 勤王画家として知られる菊池容斎が描き、明治期の歴史画に多大な影響を与えた『前賢故実』1巻から7巻までの校正者の中に良仙の名が見える。人物略伝部分の単なる文字校正を担当したと考えるのが自然だろうが、容斎の画稿の中には人体骨格や筋肉の変化を写生したものもあるらしいことから、容斎の人物画について蘭方医の解剖学的な立場から助言を与えていたとも考えられる。
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