<皇孫系氏族>神武天皇後裔

KJ01:金刺倉足  金刺倉足 ー 手塚光清 KJ03:手塚光清

リンク KJ04
金刺盛澄

 当初は治承・寿永の乱での源義仲の挙兵に従ったが、御射山神事のため弟の光盛を留め置いて帰国した。平家の家人でもあったことから、義仲の討伐後、源頼朝によって捕縛され、梶原景時に預けられた。頼朝は盛澄を処刑しようとしていたが、盛澄が藤原秀郷流弓術を継承する名手であったことから、景時は盛澄の命を奪うのを惜しみ、頼朝に説得を重ねた末、せめて盛澄の弓の技量を見てから死罪にして欲しい、と請願する。
 盛澄は頼朝の基に参上し、鶴岡八幡宮放生会で流鏑馬を披露した。この時頼朝は盛澄が騎乗する馬としてわざと暴れ馬を与えた上、盛澄が指定された八つの的を射抜くと、射抜いた的の破片、さらに的を立てかけた串を射抜くよう難題を押し付けてきたが、盛澄は見事に全て射抜いたため、赦免された。この時、景時が同じく捕縛された義仲の郎党達にも寛恕を施して欲しい、と頼朝に願い出て、その郎党達もまた助命されたという(「吾妻鏡」文治3年8月15日条)。
 これらの顛末は『諏訪大明神絵詞』でも描写されている。
その後は御家人となり、流鏑馬や的始の儀式で活躍した。史料では建仁3年(1203年)までの活動が見られる。下諏訪町には盛澄が恩人の景時を偲び建立した梶原塚がある。