<藤原氏>式家

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藤原蔵下麻呂 藤原縄主 藤原貞本

 内舎人・出雲介を経て、天平宝字7年(763年)従五位下・少納言に叙任される。
  天平宝字8年(764年)9月に発生した藤原仲麻呂の乱において、近江国へ逃走した賊軍を官軍が追討した際に、蔵下麻呂は討賊将軍として将兵を率いて援軍として参じ、力戦して賊軍を破った。この功績により従五位下から一躍従三位に昇叙され、式家の兄弟の中でいち早く公卿に列す。同年10月には廃位された淳仁天皇(淡路廃帝)を配所へ護送している。
  天平神護元年(765年)前年の勲功に対して勲二等を叙勲され、近衛大将に任ぜられる。神護景雲元年(767年)伊予土左二国按察使となる。
  宝亀元年(770年)称徳天皇が崩御すると、左大臣・藤原永手らとともに白壁王を即位させる(光仁天皇)。同年兵部卿を兼ねる。宝亀2年(771年)皇太子となった他戸親王の春宮大夫も兼ねるが、翌宝亀3年(772年)他戸親王の母・井上皇后が天皇を呪詛したとの嫌疑を受け、他戸皇太子は廃されてしまった。
  宝亀5年(774年)4月兵部卿から大宰帥に転任し、5月には参議に任ぜられる。宝亀6年(775年)死去。最終官位は参議大宰帥従三位。享年42。

 延暦2年(783年)従五位下・中衛少将に叙任。のち右衛士佐・近衛少将や、少納言・式部少輔等、文武の諸官を歴任する。延暦10年(791年)従五位上・左中弁に叙任されると、延暦12年(793年)正五位下と桓武朝半ばから順調に昇進し、延暦17年(798年)参議に任ぜられ公卿に列す。桓武朝末にかけて議政官として式部大輔,左京大夫,近衛中将等を兼帯する。
 延暦18年(799年)からは皇太子・安殿親王(後の平城天皇)の春宮大夫も務めたが、これは縄主の室である藤原薬子と安殿親王の不倫関係を嫌った桓武天皇が薬子の夫を監視役に置いた人事ともいわれる。
 大同元年(806年)平城天皇が即位すると従三位・大宰帥に叙任され大宰府に赴任し、入れ代わるように尚侍として天皇に呼び戻された薬子は憚らずに天皇の寵愛を受けることとなった。大同2年(807年)観察使制度の設置により大宰帥のまま西海道観察使にも任ぜられる。この間の大同3年(808年)に観察使に対して封戸が支給されることになった際、既に大宰帥としての公廨を支給されており俸給が重複するため、封戸の支給を辞退するよう上表しているが、許されなかった。
 大同5年(810年)薬子の変が発生したが、大宰府に赴任していた縄主は乱に関与せず難を逃れる。弘仁3年(812年)中納言に至った。弘仁8年(817年)9月16日薨去。享年58。淳和朝の天長元年(824年)に従二位の位階を追贈されている。

 平城朝の大同3年(808年)正月に従五位下に叙爵後、左兵衛佐次いで左近衛少将と武官を歴任する。大同4年(809年)11月には右近衛中将・藤原真夏や左馬頭・藤原真雄らとともに摂津国豊島・為奈の野地と、平城旧京内に建造する平城上皇の宮殿の敷地の占定を行っている。
 嵯峨朝に入り、弘仁元年(810年)薬子の変が発生すると、母の薬子は自殺、叔父の仲成は射殺され、貞本も連座して飛騨権守に左遷された。
 仁明朝初頭の天長10年(833年)大赦が行われ、薬子の変で配流された者が近国へ移されるが、貞本は特別に帰京を許される。承和13年(846年)38年ぶりに昇叙され従五位上となり、翌承和14年(847年)大蔵大輔に任ぜられる。嘉祥3年(850年)仁明天皇の葬儀に際して装束司を務めた。
 文徳朝の仁寿3年(853年)正五位下に至る。

藤原興範 藤原仲文 藤原明衡

 貞観15年(873年)文章生に補され、大宰少監,大舎人大允,式部丞,民部丞を経て、仁和3年(883年)従五位下・掃部頭に叙任される。同年筑前守に転じると、宇多朝では豊前守,筑前守,大宰少弐と長く九州の地方官を務める。
 醍醐朝に入り、昌泰3年(900年)右中弁に任ぜられた後、大宰大弐,右京大夫,式部大輔を務める傍ら、昌泰4年(901年)正五位下、延喜2年(902年)従四位下、延喜10年(910年)従四位上と昇進している。またこの間、延喜7年(907年)完成の延喜格の編集に参加している。延喜11年(911年)正四位下・参議兼大宰大弐に叙任され公卿に列す。延喜16年(916年)大宰大弐から弾正大弼に転じ、翌延喜17年(917年)近江守も兼帯するが、同年11月1日卒去。享年74。

 平安時代中期の歌人。官位は正五位下・上野介。三十六歌仙の一人。
 当時東宮であった憲平親王(のちの冷泉天皇)の蔵人となり、加賀守,伊賀守,上野介などを歴任し、貞元2年(977年)正五位下に叙せられた。冷泉天皇に側近として仕える一方、藤原頼忠・道兼にも出仕、清原元輔・大中臣能宣らの歌人と交流があった。
『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に8首が入集し、家集に『仲文集』がある。

 平安時代中期の儒学者・文人。従四位下・右京大夫。字は耆莱・安蘭。
  元々儒家の出身でないことから対策(文章得業生となるための試験)に合格するのに歳月を要し、長元5年(1032年)にようやく合格し左衛門尉に任命された。対策制度の因習をにがにがしく思い、後輩に対策の答えをひそかに教え二度にわたり罰せられたこともある。その後、後冷泉天皇朝において式部少輔,文章博士,東宮学士,大学頭などを歴任し、従四位下に至った。
  詩文に秀で『本朝文粋』『本朝秀句』を編修し、『新猿楽記』『明衡往来』などを著している。

明暹
 興福寺の僧。笛の名手として知られる。三会已講師宮中における御斎会・興福寺維摩会・薬師寺最勝会の三つの法会の講師をつとめた僧の階位の碩才といわれたが、舞楽に通じており多くの楽人がその教えを請うたという。大神家の笛の系譜である「大家笛血脈」のその名を連ね、尾張国得業円憲から相承されたなどと伝えられている。