<藤原氏>式家

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 皇太子・安殿親王の春宮少・大進、民部大丞を経て、延暦22年(803年)41歳でようやく従五位下に叙せられるが、叙爵以降は比較的順調に昇進していく。延暦25年(806年)桓武天皇の崩御後まもなく少納言に任ぜられ、同年5月安殿親王の即位(平城天皇)に伴い従五位上に昇叙される。平城朝では左衛門督・美濃守を歴任する。
  大同4年(809年)嵯峨天皇が即位すると侍従に任ぜられ、翌大同5年(810年)正五位下に昇叙。嵯峨朝では民部大輔,大舎人頭,右京大夫,兵部大輔,神祇伯を歴任し、弘仁5年(814年)には従四位下に叙せられている。
  弘仁14年(823年)淳和天皇の即位に伴い従四位上・左兵衛督に叙任され、翌天長元年(824年)蔵人頭、天長2年(825年)には参議に任官し公卿に列した。議政官として右京大夫・兵部卿を兼ね、天長5年(828年)正月正四位下に叙せられるが、同年5月には息子・吉野に参議の官職を譲り自らは致仕した。その後、山井里第に隠棲するが、吉野が淳和天皇の側近として昇進していく傍らで、綱継自身も天長7年(830年)従三位、天長8年(831年)正三位と累進した。
  仁明朝に入り、承和の変に伴う吉野の左遷(承和9年[842年])及びその死去(承和13年[846年])よりさらに長命を保ち、承和14年(847年)7月26日に没した。享年85。最終官位は致仕参議正三位。死後正二位の位階が贈られた。

 式家出身の母(藤原百川の娘・旅子)を持つ淳和天皇とは同年齢で親しく(天皇の乳母子とする説もある)、その生涯を天皇の為に捧げることになる。
  若くして大学で学び、主蔵正次いで春宮少進として、当時皇太子であった大伴親王(のち淳和天皇)に仕える。弘仁10年(819年)従五位下・駿河守に叙任、国司として治績をあげて頭角を現す。
  弘仁14年(823年)淳和天皇の即位後は都に呼び戻されて、天皇の側近として左少将・左少弁を歴任し、天長3年(826年)には蔵人頭となって天皇の政務を助けた。この間に急速に昇進を果たす。ついに天長5年(828年)には参議として公卿に列し、天長9年(832年)には従三位・権中納言に叙任し、右近衛大将・春宮大夫を兼任する。
  淳和天皇が仁明天皇に皇位を譲ったのに前後して、正三位・中納言に叙任されるが、専ら淳和上皇の傍につき従った。承和7年(840年)に淳和上皇が危篤となり、兄の嵯峨上皇や仁明天皇に遠慮して「自分の遺骨を散骨して、この世に野心を残していないことを示して欲しい」と遺言すると、吉野は必死に押し留めようとしたが、間もなく上皇が崩御すると、吉野は泣く泣くその指示を実行したという。
  だが、承和9年(842年)7月、突如恒貞親王や吉野らは謀反の疑いをかけられてしまう。親王は廃太子とされ、吉野は大宰員外帥に左遷させられてしまう(承和の変)。さらに承和12年(845年)には大宰員外帥を解任されて、山城国に移されるが幽閉されたまま入京は許されず、承和13年(846年)8月12日に失意の内に病死した。享年61。
  性格は寛大柔和で包容力があり、人々から慕われた。賢人を見て同じくあろうと思い、手から書物を手放すことがなく、目下の者からも進んで教えを受ける一方、師弟にも教え諭したという。他人の過失を見ても決して白眼視することなく、議論するに至っても法に違うことを主張することはなかった。両親に孝行してほんの僅かな間でも欠けることがなく、忠と孝の道をともによく励んだ。住まいには樹木を植える事を好み、その様子は竹を愛した東晋の文人・王徽之を彷彿させたという。

 天安2年(858年)刑部大丞のち式部少丞・六位蔵人を経て、貞観2年11月(861年1月)従五位下に叙爵される。翌貞観3年(861年)伊勢権守に任ぜられ任地に赴任しようとしていたところを、急遽詔により召し返され右少弁に任ぜられる。翌貞観4年(862年)母の死去により官職を辞するが、服喪期間が終了しないうちに本官に復される。その後は貞観5年(863年)左少弁、貞観12年(870年)右中弁、貞観16年(874年)左中弁と、貞観10年(868年)に数ヶ月ほど越前権守を務めた期間を除いて、一貫して清和天皇の側近として弁官を歴任した。弁官を務める傍ら、土佐権守,美濃権守も兼任している。貞観17年(875年)従四位下・神祇伯に叙任されるが、同年9月9日死去。享年53。最終官位は神祗伯従四位下兼行美濃権守。
  姿や態度に見るべきものがあり、清らかで美しいと評判であった。学はなかったが政治の理論に優れたことにより立身した。また、腕力が人並み外れて強く、ある時、酒に酔って牛車に乗った際、戯れて同乗の者に「私が牛を進めないようにしてみよう」と言って、手で車の床を押さえつけて力を入れて動かないようにしたところ、牛が四本の足を突っ張って進もうとしても前に進まなかったという。