G312:新田義重 | 源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 新田義重 ― 得川義季 | G329:得川義季 |
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世田良頼氏 | 世田良満義 |
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父から上野国新田郡(新田荘)世良田郷を譲られて世良田弥四郎と称し、世良田氏の祖となった。義季・頼氏父子は世良田郷近辺の所領の開発を進め、富を蓄えて新田氏一族中の実力者となっていたらしい。 |
上野国新田荘世良田郷領主。新田義貞の鎌倉攻めに従い、稲村ヶ崎にて安東聖秀勢を破る。延元3年/建武5年(1338年)義貞が越前にて戦死すると世良田郷に戻る。 |
世田良政義 | 世田良親季 |
南朝方に属す。新田氏旗下。応永4年(1397年)桃井宗綱と諮り宗良親王の王子尹良親王を上野寺尾中城に迎える。応永31年(1424年)親王が信濃諏訪城に入ると政義は挙兵し信濃各地にて転戦するが、三河に向かう途上で信濃浪合にて戦死したと伝わる(浪合の合戦)。 | 新田義宗あるいは世良田政義の庶子とされる。鎌倉公方の足利満兼に上野国新田郡得川郷の領地を与えられた。天野源蔵『浪合記』によると、元中2年/至徳2年12月朔日(1385年1月)に、尹良親王が、三河国を目指すために信濃国浪合村で、足利将軍家方の一色氏と細川氏の軍勢と戦って、父の政義および叔父の義秋をはじめ、羽河景庸,熊谷直近とともに戦死したとされる(浪合の合戦)。松平清康とその孫の徳川家康は親季の子孫と称した。 |
世田良有親 | |
松平氏(徳川氏)の実質的な祖とされ、松平親氏の父とする。また孫の泰親を有親の子であるとする説もある。さらに『尾張諸家系図』によると、尾張平手氏祖の平手義英も有親の子とされる。しかし、これは後世の系譜の仮冒とされ、実際は久松氏と同族とされ、菅原氏から出たとの説もある。さらに尾張国の豪族・荒尾宗顕(在原姓荒尾氏)の系統、賀茂氏の流れなど諸説あって判然としない。 |