三男であった信定の家督継承を望む声があったといわれているが、三男ゆえに叔父・松平親房の養子に出されたため宗家跡目の候補から外され、叔父の所領・三河国碧海郡桜井に桜井城を築き、居城とした。信定は宗家に対して従順といえる姿勢ではなかった。 清康の指揮のもと、享禄2年(1529年)尾州・品野城攻めに従軍し、のち品野城を与えられる。しかしこの後、信定は織田氏と結び不穏の動きを示すことになる。 享禄3年(1530年)の宇利城攻撃に参陣する。『三河物語』の記述によれば、宇利城大手口の寄せ手として、次兄の福釜松平左京亮親盛とともに戦うが、劣勢となった親盛に助勢を送らなかったため、結果として親盛の父子を死なせてしまった。これが本陣で目撃していた清康の逆鱗に触れ、合戦後に衆目の前で面責を受け赤面した。一説にこれを深く恨んだとも云う。 天文4年(1535年)には、松平宗家の清康による尾張国への出陣には不参(既に織田氏に通じていたとの見方もある)。すると、その遠征先の尾張国守山において清康が25歳の若さで陣没してしまう(守山崩)。 この松平宗家の混乱に乗じて、信定はまたもその家督を巡って清康の遺児・松平広忠と対立。広忠を追放して、その居城岡崎城を占領した。 しかし、翌年には広忠の近臣・阿部定吉の働や事態を知った大久保忠俊らの広忠派の譜代家臣が、広忠の岡崎復帰を画策。天文6年(1537年)6月には、岡崎城留守居であった信定の同調者・松平信孝も広忠派に転身し広忠を岡崎城に迎え入れてその威に服した。 結局、信定は情勢の不利を悟って、広忠に帰順。ただし、その後も恭順とは程遠い不遜な態度をとり続けた。このため、弟松平義春等とも対立したが、間もなく天文7年11月27日に死去。
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天文14年(1545年)、広畔畷の戦いで、家次は父の清定,酒井忠尚,榊原長政らとともに広忠と戦うが敗れる。翌年には忠尚は許され、家次の居城・尾張品野城は忠尚の居城となり、品野城を明け渡す。天文22年(1553年)三河・下和田の領地を巡り、主君・今川義元に訴え、東条松平家の松平忠茂と争うが、弘治2年(1556年)家次の敗訴に終わる。松平元康の命で品野城に攻めてきた織田軍を撃退し功績をあげた。三河一向一揆が起きると一向衆側に味方した。 |
父・忠正が年少の時に死去し、後を継いだ叔父松平忠吉もほどなく死去したために5歳で家督を継いだ。天正12年(1584年)に小牧の戦いで酒井忠次の軍勢に加わり、功績を挙げる。天正18年(1590年)、徳川家康の関東入封に伴って武蔵国松山城と1万石(後に2万5,000石)が与えられ、松山藩初代藩主となった。25歳で死去。死因は病死と言われているが、家老の堀勘兵衛を殺害したことで徳川家康の勘気を受けて自害したとも伝えられる。 家督は松平忠頼が相続した。
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1577年に家督を継いでいた兄・忠正が亡くなり、忠正の嫡子・家広はまだ生まれたばかりであったため、兄の正室であった多劫姫(徳川家康の異父妹)を妻に迎えて家督を継ぐ。1581年の高天神城攻めや諏訪原の出城を守るなどして軍功を挙げるが、24歳で夭折。その跡は甥の家広が継いだ。 なお、長男の松平信吉は、後に藤井松平家の婿養子となって同家の家督を相続し、後に上野高崎藩主、次いで丹波篠山藩主に封じられた。また、次男の松平忠頼は忠正の嫡子・家広の死後に武蔵松山藩主を継いだ。
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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して三河岡崎城の守備を務め、戦後は尾張犬山城と美濃金山城の守備を務めた。同年、叔父・松平家広の後を継いで武蔵松山藩の第2代藩主となるが、この功績により、美濃金山藩1万5000石を加増されて2万5000石の大名となる。 慶長6年(1601年)2月、さらに2万5000石を加増され、5万石で遠江浜松藩に移封された。慶長12年(1607年)12月には、徳川家康の隠居城であった駿府城が火災にあった後の普請に参加している。 慶長14年(1609年)9月29日、従弟の水野忠胤の江戸屋敷に招かれて茶会に参加していた際、同席していた久米左平次と服部半八郎の両名が囲碁の勝敗をめぐって口論、刃傷に及んだ。この争いを観た忠頼は仲裁に入ったが、逆上した左平次によって刺殺されてしまった。享年28。なお、この事件の責任をとる形で茶会を催した水野忠胤、喧嘩の一方の当事者である服部半八郎は切腹を命じられている。 長男の忠重は幼少であったため、また殺害された経緯から末期養子による家督相続は認められず、松平家は改易された。
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