桜井松平家

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松平忠重 松平忠告 松平忠栄

 慶長6年(1601年)、遠江浜松藩主・松平忠頼の長男として生まれる。慶長14年(1609年)9月29日、従弟の水野忠胤の江戸藩邸での久米左平次と服部半八郎の刃傷騒ぎに仲裁に入った忠頼が刺殺されてしまった。この経緯により、忠重は幼少のためもあって末期養子による家督相続は許されず、改易となった。
 慶長15年(1610年)7月、武蔵深谷で8000石を与えられ、江戸幕府の旗本となる。元和8年(1622年)10月、上総佐貫藩1万5000石の所領を与えられて大名として返り咲いた。寛永10年(1633年)、1万石加増の2万5000石で駿河田中藩に加増移封され、寛永11年(1634年)には5000石を加増されて3万石の藩主となる。
 寛永12年(1635年)8月4日、1万石加増の4万石で遠江掛川藩主となる。寛永15年(1638年)6月9日、駿府城普請を務め、11月18日には奏者番に任じられたが、寛永16年(1639年)2月12日に39歳で死去。

 寛保2年(1742年)、第2代藩主・松平忠名の三男として生まれる。長兄は早世し、次兄の加藤明堯は庶兄だったために他家に養子に出されたため世子に指名され、明和3年(1766年)12月の父の死去により、明和4年(1767年)2月20日に家督を継いで第3代藩主となる。
 明和6年(1769年)、幕命により領地替えが行なわれたが、このときに藩財政の大きな利権となっていた地域を江戸幕府によって奪われ、代わって利権の少ない地域を与えられたために藩財政の悪化が始まった。また、江戸城桜田門番に任じられたことも少なからず負担となった。このため、忠告は俳諧の道に進み、談林派七世谷素外に師事して俳名を亀文、または一桜井と号した。寛政11年(1799年)には大坂天満宮に談林派の祖西山宗因の句碑を建設している。また、「一桜井発句集」という句集を残している。
 文化2年(1805年)12月10日に死去。享年64。後を次男の忠宝が継いだ。

 文化元年(1804年)12月、第3代藩主・松平忠告の九男として生まれる。文政12年(1829年)に甥で第5代藩主の松平忠誨が死去したため、その養子となって家督を継いで第6代藩主となる。天保8年(1837年)に大塩平八郎の乱が起こると、土井利位に従って鎮圧に貢献した。天保13年(1842年)には大砲7門を鋳造している。
 嘉永6年(1853年)のペリー来航では、江戸幕府に対して鎖国をあくまで堅持するよう提言している。翌年にロシア船が大坂に現れると、大坂の警備を務めた。なお、このような出費続きで藩財政が逼迫したため、鶏卵を専売している。文久元年(1861年)8月6日、病気を理由に家督を七男の忠興に譲って隠居する。明治2年(1869年)9月7日、尼崎で死去。享年66。著書に「胎蕨編」がある。

桜井忠興

 文久元年(1861年)8月6日、父・忠栄の隠居により、家督を譲られて第7代藩主となる。慶応4年(1868年)1月の戊辰戦争では朝廷に恭順し、所領を安堵された。2月に徳川氏との訣別の証として姓を桜井と改称する。
 明治2年(1869年)の版籍奉還で尼崎藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で知藩事を免職された。明治6年(1873年)1月、東京へ移住し明治10年(1877年)、博愛社(後の日本赤十字社)の設立者のうちの1人となった。尼崎城址の一角に建立された桜井神社には、博愛社の記念碑がある。明治17年(1884年)に子爵に叙せられた。
 明治28年(1895年)4月29日に死去。享年48。