<皇孫系氏族>開化天皇後裔

KC01:日下部表米  日下部表米 ― 朝倉宗高 AK01:朝倉宗高

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朝倉高清 朝倉高景
 平家に与したことで鎌倉時代に領地を没収されたが、関東で誰も退治できなかった白猪を射て退治した功績により、源頼朝より領地の安堵と木瓜紋を賜ったとされる。その後、朝倉氏は朝倉城を築き、代々この城に拠った。通し字は「高」。

 正平21年/貞治5年(1366年)の貞治の変では、幕府軍の一員として主筋に当たる斯波高経に反旗を翻して杣山城を攻め、高景はその功から11月6日に第2代将軍・義詮より、越前宇坂荘,棗荘,東郷荘,坂南本郷,河南下郷,木部島,中野郷など7か所の地頭職を賜り、越前朝倉氏の基礎を築いた。
 正平22年/貞治6年(1367年)、新しい越前守護である畠山義深による仁和寺観喜寿院領である真柄荘の使節遵行を妨害するなど、幕府との関係を背景に独自の立場を築いた。

朝倉氏景

 貞治の変で主君・斯波高経が室町幕府から討伐の対象とされると、父・高景が幕府側に通じて所領を安堵され、一時期斯波氏を離れている。康暦年間に斯波氏が越前守護に復帰すると、斯波氏の家臣に復帰した。
 その後、摂津の合戦でも戦功を挙げ、足利義満から「大功」の法名を賜ったとされる。しかしその後、朝倉氏は幕府や主筋たる斯波氏から冷遇されるようになり、明徳年間の斯波氏重臣を記した「相国寺供養記」に氏景など朝倉氏の名前は記載されていない。
 応永8年(1401年)、弘祥寺に仏殿を建立し、一乗谷に熊野権現を勧請した。これが朝倉家の一乗谷と関係する最初の事例である。