<皇孫系氏族>桓武天皇後裔

YM01:良岑安世  良岑安世 ― 丹羽忠長 YM04:丹羽忠長


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丹羽長政 丹羽長秀

 丹羽氏の出自は三説ある。一つ目は藤原姓とするもので、関白・藤原道隆の子・伊周の次男・遠峰の末流とする武蔵国春日井郡児玉党の一族で、忠長が尾張国丹羽郡児玉村に移って丹羽氏を称して、守護の斯波氏に仕えたとする。二つ目は平姓とするもので、建仁元年(1201年)に梶原景高の子・豊丸(景親)が尾張丹羽郡羽黒村に逃れてきたときの7人の従者のうちのひとりの丹羽家兼の末裔とするものである。三つ目は桓武天皇の皇子・良岑安世の裔孫と称するもので、忠長を29代子孫とする良岑姓である(ここでは三つ目の説を示す)。『丹羽家譜』では、2回改姓したとあり、平姓から藤原姓にして、最後に良岑姓に戻したとある。
 長政は斯波義統に仕えて武功があったという。天文18年(1549年)に亡くなる。跡を継いだ長男の長忠も同じく義統の家臣で、天文23年(1554年)7月12日、守護代・織田信友が清洲城を奇襲した清洲合戦で戦死して、無嗣断絶となったため、織田信長家臣の次男の長秀が本流となった。

 天文4年(1535年)9月20日、丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉に生まれる。天文19年(1550年)より、長秀は織田信長に仕え、天文22年(1553年)、梅津表の合戦にて19歳で初陣を飾った。
 弘治2年(1556年)、稲生の戦いでは信長方に付いた。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは今川義元の攻撃部隊には入っていないものの、従軍はしている。
 『信長公記』などから斎藤龍興との美濃国における戦いで台頭したと考えられ、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて信長が上洛した際、南近江の六角氏征伐で箕作城を攻めるなど武功を挙げた(観音寺城の戦い)。姉川の戦いの直後から、信長は8ヶ月におよぶ近江佐和山城の包囲を続けていたが、元亀2年(1571年)2月24日に城将の磯野員昌が開城勧告を受けて退城すると、代わって長秀が佐和山城主となる。
 天正元年(1573年)8月、越前国や若狭国で勢力を振るっていた朝倉義景討伐に加わり、信長の命令で義景の母(高徳院)や妻(小少将)、子の愛王丸を処刑した。9月、長秀は若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となった。長秀は軍事の他に若狭の治安維持や流通統制などの一国単位の取りまとめについても担っていた。政治面において優れた手腕を発揮し、安土城普請の総奉行を務めるなど多大な功を挙げている。
 天正7年(1579年)、但馬の羽柴秀長とともに、丹波に攻め込み氷上城の波多野宗長に勝利している。天正9年(1581年)、越中木舟城主の石黒成綱を信長の命令で近江で誅殺した。越中願海寺城主・寺崎盛永父子も信長の命令で、長秀が城主をつとめる近江佐和山城で幽閉の後、切腹となった。同年の京都御馬揃えにおいても、一番に入場するという厚遇を与えられている。また、天正伊賀の乱にも従軍しており、比自山城の戦いなどで戦っている。
 家老の席順としては、筆頭格の佐久間信盛失脚後にこの位置に繰り上がった柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、両名は織田家の双璧といわれた。
 天正10年(1582年)6月、三好康長,蜂屋頼隆と共に織田信孝の四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将を命じられる。また、上洛中の徳川家康が大坂方面に向かうにあたり、案内役の長谷川秀一から引き継ぐ形で津田信澄と共に接待役を信長から命じられていた。しかし、出陣直前に本能寺の変が起こると、長秀は信孝を補佐し、逆臣・明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀者とみなして殺害。その後、信孝と共に羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで光秀を討った。変に際して大坂で四国出陣の準備中だった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にいたが、信孝と共に岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けており、住吉に駐軍していた四国派遣軍とは別行動をとっていた。このため、大将不在の時に本能寺の変の報せが届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、信孝・長秀の動員できる兵力が激減したため、大規模な軍事行動に移ることができなかった。止むを得ず守りを固めて羽柴軍の到着を待つが、もはやその後の局面は秀吉の主導にまかせるほか無かった。
 清洲会議でも長秀は池田恒興と共に秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫・三法師を支持。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後は若狭国と近江国志賀・高島二郡の代わりに、越前国(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)および加賀国能美・江沼二郡を与えられた。石高は約60万石と推定されている。
 天正13年(1585年)4月16日、長秀は積寸白(寄生虫病:蛔虫?)のために死去。享年51。長秀は割腹して取り出そうとしたが2日後に死亡、いわゆる切腹ではなかった。跡目は嫡男の長重が継いだ。

丹羽秀重 丹羽長重

 織田氏の家臣・丹羽長政の3男として尾張国に生まれる。17歳の時、兄・長秀の臣下となる。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い後の恩賞で兄・長秀が越前国のほとんどを加増されると、長秀から5千石の禄を与えられる。江口正吉,坂井直政,大谷元秀らと共に宿老の一人として主家を支えた。天正13年(1585年)に長秀が没すると、その子・長重に仕えた。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに伴う北陸の動乱では、丹羽氏の本拠である小松城の留守居や、前田利長との和睦交渉を担当した。戦後、丹羽氏が改易されてからも長重の許を離れず、謹慎する主君に大谷元秀,丹羽忠政(長重の従兄弟)らと共に付き従った。
 慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、秀重は70過ぎの老体ながら丹羽氏の武将として参陣し、鴫野の戦いでは手傷を負いつつも奮戦した。さらに翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、若江の戦いで木村重成隊の先鋒である木村宗明の備を突き崩すなどの活躍を見せたが、翌日の天王寺の戦いで戦死した。しかし、この戦功によって丹羽氏は江戸崎2万石に加増され、のちに二本松10万7百石へと累進するきっかけとなった。
 秀重の事績は歴代藩主の菩提寺である大隣寺に碑銘として刻まれ、二本松藩世臣伝では「当家絶類忠臣也〕と評されている。家系は藩の重臣として代々続き、幕末には丹羽一学を輩出した。

 元亀2年(1571年)、丹羽長秀の長男として誕生。母の桂峯院は織田信広の娘で、信長の姪(養女)である。
 主君・織田信長の死後は、父・長秀と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従った。天正10年(1582年)11月10日、長秀が秀吉と会談する。この際、信長の娘を娶っている。
 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに出陣した(病床にあった父の代理)。天正13年(1585年)には、秀吉から羽柴姓の名字を与えられる。同年に父が死去し、越前国・若狭国・加賀国2郡123万石を相続した。ところが、同年の対佐々成政の越中征伐に従軍した際、家臣に成政に内応した者がいたとの疑いをかけられ、羽柴秀吉によって越前国・加賀国を召し上げられ、若狭1国15万石となり、さらに主君・織田信長、父・長秀以来の重臣の戸田勝成,長束正家,溝口秀勝,村上頼勝,上田重安,太田牛一らその他多くのもの達も召し上げられた。さらに天正15年(1587年)の九州平定の際にも家臣の狼藉の疑いを理由に若狭国も取り上げられ、僅かに加賀松任4万石の小大名に成り下がった。これは、秀吉が丹羽氏の勢力を削ぐために行った処置であるといわれている。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。
 その後、秀吉による小田原征伐に従軍した功によって、加賀国小松12万石に加増移封され、このときに従三位,参議・加賀守に叙位・任官されたため、小松宰相と称された。慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康から前田利長監視の密命を受けている。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは丹羽軍3千西軍に与して前田軍2万5千余東軍の前田利長と戦った浅井畷の戦いにおいて丹羽長重が快勝した。時に江戸城に入居していた芳春院(前田利家の妻)前田家100万石を賭けた決死の嘆願により「前田家の芳春院殿は切腹を辞さなかった」、「徳川家康と徳川秀忠両君は真剣な面持ちで丹羽長重に蟄居を申し下した」付け加えて「丹羽家の戦支度は天晴也」、丹羽家は戦後に一旦改易となる。
 慶長8年(1603年)に常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰する。これは稀なことであり、父・長秀以来織田信長家系との血縁関係が在り、徳川秀忠や前田利長とは縁者関係に当ることや、特異な戦支度や父長秀譲りの築城技術を高く評価されたことに所以する。
 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では武功を挙げたため、1617年、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の御伽衆として、細川興元,佐久間安政,立花宗茂らと共に抜擢される(この3名は長重より年長で、武功の実績も多かった)。元和5年(1619年)に常陸国江戸崎2万石、元和8年(1622年)には陸奥国棚倉5万石にそれぞれ加増移封される。長重の出世を知り、各地へ離散していた旧丹羽家の家臣達が、長重の元へ戻ってきた。新たな棚倉城の築城を決めたが、寛永4年(1627年)に会津藩主・蒲生忠郷の無嗣改易により、長重は白河10万700石となった(棚倉城は内藤信照によって完成)。白河に入ってからも、各地へ離散していた丹羽家の旧臣達はますます集まり、加えて蒲生家の旧臣なども召し抱えたこと、白河小峰城を築城したことにより、丹羽家の財政は逼迫したという。
 寛永14年(1637年)閏3月4日、江戸桜田上屋敷で死去。享年67(満65歳没)。死去に際して子息,家臣に「将軍の恩を第一として、幕僚と円滑に付き合い、徳川幕府への忠勤に励め、しかし、機転を利かせすぎたり、媚び諂うのはよくない」と遺言を残している。この遺言にも長重の堅実で実直な人柄が現れている。
 また、先の浅井畷の戦いののち、講和のために前田氏から人質として前田利常が遣わされたが、利常が身分の低い側室の下に産まれた庶子であるにもかかわらず、長重が人質の利常に自ら梨を剥き与えたことがあり、利常は晩年まで梨を食べる度にこの思い出を話した、という逸話が残っている。

丹羽光重

 元和7年12月28日(1622年2月8日)、丹羽長重の3男として誕生。幼名は宮松丸。2人の異母兄が共に夭逝したため、寛永5年(1628年)に嫡子となる。寛永11年(1634年)12月19日、3代将軍・徳川家光より偏諱を賜って光重と名乗る。また、従五位下左京亮に叙任する。寛永14年(1637年)4月、父・長重の死去により白河藩主となる。寛永19年12月晦日、従四位下に昇進する。
 寛永20年(1643年)7月4日、陸奥安達郡・安積郡へ移封されて、二本松に居城を構え、二本松藩初代藩主となる。また、陸奥国田村郡の幕領1万5360石を預けられる。正保元年(1644年)4月10日、初めて二本松へお国入りする許可を得る。国替えに伴い藩の諸制度を定め、城郭や道路・城下町の大規模な整備事業を行った。光重は文化人としても知られ、茶道を石州流の片桐貞昌に学んで奥義を極めたり、絵画を狩野益信や狩野常信に学んで狩野派画風の作品を描いたり、また華道や書道にも造詣が深かった。他にも高野山や萬福寺の僧侶を招請し、後者に「烈祖図」や「十六羅漢図」を寄進する(共に現存)など、仏教や学問の普及に努めた。
 万治元年(1658年)閏12月27日、侍従に任官する。延宝6年(1678年)8月6日、預かっていた陸奥田村郡の幕領を返還する。延宝7年4月7日、嫡子・長次に家督を譲って隠居した。隠居後は玉峰と称した。元禄14年(1701年)4月11日に死去。享年80(満79歳没)。
 浅野長矩が松の廊下で高家旗本・吉良義央を切りつけた際、その報を聞いて「何故切りつけたのか?突きさえすれば殺せたものを!」(丹羽氏の刀術は突きが基本)と立腹し、煙管で煙草盆の灰入れを叩き、凹ませたという。この時叩いた灰入れは、丹羽氏18代当主・丹羽長聰が家財を二本松市に寄付する際に偶然発見された。なお、丹羽長重の娘が赤穂藩初代藩主・浅野長直の正室であり、丹羽光重は浅野長矩の大叔父に当たる。