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赤井時家 | 赤井家清 |
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大永7年(1527年)、細川高国に弟・香西元盛を誅殺された波多野元清・柳本賢治兄弟が反乱を起こすと、赤井五郎(忠家)は波多野氏に加勢し、柳本賢治が篭る神尾山城を包囲していた細川尹賢を急襲しこれを敗走させた。その後、阿波の三好政長軍と合流した赤井・波多野・柳本の丹波軍は高国方との戦いに勝利し、入洛を果たした(桂川原の戦い)。 |
大永5年(1525年)、丹波氷上郡後屋城主・赤井時家の嫡子として誕生。若くして数々の戦功を挙げたという。 |
赤井忠家 | 赤井忠泰 |
9歳の時に父・家清が戦の傷がもとで死去し、叔父赤井直正(荻野直正)の補佐を受ける。永禄13年(1570年)3月、木下秀吉の仲介で織田信長に所領安堵される。その後、離反し丹波国国人衆の旗頭波多野氏と共に織田氏に抵抗したが、織田家臣の明智光秀の丹波侵攻により、天正7年(1579年)8月9日、本拠の黒井城を落とされたため(黒井城の戦い)、忠家は遠江国二俣に逃れた。 |
慶長3年(1598年)に徳川家康の小姓となる。慶長5年(1600年)、会津征伐に従軍、関ヶ原の戦いでは父と共に東軍として参加。慶長7年大和国山辺郡で1000石を賜る。慶長10年(1605年)に父が没すると家督を継ぎ、自らの領地1000石は弟・公雄に賜った。元和2年(1616年)には、大和十市郡において2000石を領する。元和3年(1617年)、大坂の陣で荒廃した四天王寺の普請奉行に片桐貞隆と共に任ぜられ、元和4年(1618年)9月に竣工し、元和9年(1623年)9月に落慶した。寛永11年(1634年)7月の徳川家光の上洛に随行する。 |
赤井直正 | 赤井直義 |
赤井氏の同族で黒井城に拠る荻野氏の養子に入って荻野姓を称した。天文23年(1554年)、外叔父・荻野秋清を殺害して黒井城を奪っており、通称の「悪右衛門」はこの事件からついたともいわれているが諸説ある。また、その勇猛ぶりから「丹波の赤鬼」と恐れられた。 |
父の直正は直義が9歳の時に戦いの傷が元で死去し、叔父の赤井幸家が後見したが、明智光秀の度重なる猛攻に抗いきれずに落城し逃亡した。そして、のちに京都に隠棲した。この時、荻野金左衛門と改名している。慶長15年(1610年)、山口直友を介して藤堂高虎に仕え1000石を賜ると同時に旧姓に復す。大坂の陣では藤堂軍の足軽大将として活躍した。 |