清和源氏

G525:赤井為家  源 経基 ― 源 頼信 ― 井上頼季 ― 赤井為家 ― 山口直之 G526:山口直之

リンク
山口直治 山口直安

 甲府藩家老山口家。山口直友の2男、直友72歳のときの子である。
 寛永5年(1628年)に召されて蔵米を賜り御小姓組に列し、その後、御小姓に移る。寛永8年(1631年)に蔵米三百俵、翌年に二百俵を加えられ、蔵米を知行地に改められ、七百石を知行した。寛永15年(1638年)に御書院番となり、寛永20年(1643年)より進物役を勤めた。承応2年(1653年)には御小姓組の組頭にすすんでいる。
 寛文元年(1661年)、47歳のとき徳川綱重の家老となって三千石を賜り、旧知七百石及び蔵米三百俵は長男の直矩に与えられた。その後、直矩を跡継ぎにするため、先の旧知を2男・直重に与え、寛文10年(1671年)に辞職し、翌年死去した。享年58。

 旗本・山口勝次郎家初代となる。
 甲府藩主・徳川綱豊に仕え、父の跡を継いで奥寄合に列した。宝永元年(1704年)に綱豊が西ノ丸に入るとそれに従い、寄合に列した。宝永2年(1705年)、三河国内に知行地を与えられ、土呂村(現・岡崎市内)に陣屋を構えた。享保9年(1724年)に御小姓組の番士となった。

山口直郷 山口直衛

 享保9年(1733年)に25歳で家督を相続し、延享2年(1745年)に御使番になり、翌年、下総国佐倉城を堀田正亮が賜るとき、現地に赴き、城引渡しの役を努めた。また、寛延3年(1750年)に下野国宇都宮城を松平(深溝)忠祇が賜るとき、現地に赴き、城引渡しの役を務めている。
 宝暦元年(1751年)に日光東照宮修理の仮目付を努め、翌年、御目付になり、宝暦4年(1754年)にはに美濃・伊勢・尾張の河川普請を監察している。
 宝暦5年(1755年)に小普請組の支配に移り、翌年には甲府勤番支配となった。ただ、同年、故あって一時出仕を止められている。
 安永5年(1776年)、68歳の時、一橋家の家老となった。享年70。

 旗本・佐野茂好の子。山口直信の養子となり、万延元年(1860年)に御小納戸となる。
 文久2年(1862年)に家督相続し、同年、翌年の将軍上洛の御供を仰せつかる。文久2年(1863年)の上洛中に叔父で元宇和島藩主・伊達宗城と面会した。
 その後、御目付を努め、慶応2年(1866年)に京都詰めを命ぜられ、役料千俵を与えられ、翌年には江戸に戻り、慶応4年(1868年)に御使番となった。