仁平元年(1151年)に近衛天皇の六位蔵人に補せられる。久寿2年(1155年)検非違使・左衛門少尉を兼ね、同年7月に後白河天皇が践祚すると引き続き六位蔵人に任ぜられ、以後、後白河帝の側近となった。同年10月の即位礼に伴って従五位下に叙爵する。 翌久寿3年(1156年)河内守任ぜられると、保元3年(1158年)出羽守、応保元年(1161年)摂津守と受領を歴任、この間の保元2年(1157年)造宮賞により従五位上に叙せられている。永万元年(1165年)、二条天皇が順仁親王(六条天皇)に譲位して崩御すると、翌永万2年(1166年)泰経は少納言として京官に復す。のち、仁安2年(1167年)正五位下、承安元年(1171年)従四位下、承安2年(1172年)従四位上、承安5年(1175年)正四位下と順調に昇進した。 その後も右京大夫,伊予守,大蔵卿を歴任する一方で、後白河院の近臣を務め、主に武家との折衝にあたる。法皇第一の近臣と評され、後白河院の寵愛ぶりとその権勢は丹後局(高階栄子)とも並び称された。しかし、治承・寿永の乱が起こる中で、政権の中枢にあったために失脚することも多く、治承3年(1179年)の平清盛による後白河院の鳥羽殿幽閉(治承三年の政変)で泰経は解官され、治承5年(1181年)復任する。寿永2年(1183年)2月に従三位に叙せられて公卿に昇るが、同年11月の木曾義仲による再度の後白河院幽閉(法住寺合戦)によって再び解官され、翌元暦元年(1184年)義仲が敗死すると泰経は復帰。さらに、文治元年(1185年)には源義経・行家の謀叛に際して、後白河院への取り次ぎを務めていたことから、源頼朝から謀叛への関与を疑われて子息の高階経仲とともに解官の憂き目に遭い、伊豆国への流罪となった。 文治5年(1189年)に再出仕が許され、建久2年(1191年)正三位に至る。建久8年(1197年)に出家し、建仁元年(1201年)11月23日に薨去。享年72。
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永万2年(1166年)大膳亮に任官。皇太后・平滋子の皇太后宮権少進や六位蔵人,右近衛将監を経て、仁安3年(1168年)従五位下に叙爵する。 その後、石見守,常陸介などの国司や、右衛門佐を務め、この間の承安2年(1172年)従五位上、治承3年(1179年)正五位下に昇叙された。また、父の高階泰経とともに後白河法皇に近臣として近侍する。治承2年(1178年)、平清盛の外孫・言仁親王が春宮に立てられると、経仲は春宮権大進となるが、治承3年(1179年)平清盛による後白河法皇の鳥羽殿幽閉(治承三年の政変)に伴って、経仲は泰経とともに解官された。 治承5年(1181年)泰経が復任していることから、このころに経仲も許されたらしく、寿永2年(1183年)従四位下、元暦元年(1184年)従四位上・右馬頭に叙任されている。文治元年(1185年)には源義経・行家の謀叛が発生すると、源頼朝から謀叛への関与を疑われて、再び泰経とともに解官の憂き目に遭った。 文治5年(1189年)泰経が復任していることから、このころに経仲も再び許されたらしく、翌文治6年(1190年)正四位下・播磨守に叙任され、建久2年(1191年)内蔵頭を兼ねる。建久3年(1192年)に後白河法皇が没すると、後鳥羽上皇の側近となって院別当を務め、常に院御所に祗候した。建久10年(1199年)従三位に叙せられて公卿に列し、建仁4年(1204年)正三位に至る。 建保4年(1216年)3月に出家し、嘉禄2年(1226年)2月薨去。享年70。
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