<皇孫系氏族>天武天皇後裔

TS01:高階峰緒  高階峰緒 ― 高階業遠 TS02:高階業遠


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高階業遠 高階業敏

 一条朝の中期に越中守を務めたほか、春宮少進/大進/亮として春宮・居貞親王(のち三条天皇)にも仕えた。寛弘元年(1004年)、羅城門の移築の功により丹波守に重任され、翌寛弘2年(1005年)には豊楽院造営の宣旨を受けている。寛弘4年(1007年)、再び丹波守に重任されるが、寛弘7年(1010年)3月に病気のため丹波守を辞任し、同年4月10日に卒去。享年46。
 左大臣・藤原道長の家司として無双の者と評された。また、高倉に邸宅があったが、業遠の没後に道長や頼通が度々滞在している。 

 一条朝末に修理亮を務めていたが、寛弘8年(1011年)かつて父・高階業遠が春宮権亮として仕えていた居貞親王が即位すると(三条天皇)、業敏は六位蔵人に任ぜられ、のち式部丞を兼ねる。長和2年(1013年)巡爵により従五位下に叙せられた。
 長和5年(1016年)正月に後一条天皇の即位に前後して業敏は肥前守に任ぜられるが、4月に長門守・藤原有家が没すると、その後任に任ぜられる。この任官に対して、大納言・藤原実資は意に任せた人事だとして疑問を呈している。長門守在職中は摂政・藤原道長に対して毎年牛を献上していたが、寛仁2年(1018年)鋳銭司判官・土師為元から訴えられて解任されてしまった。
 また、業敏は何らかの理由で小一条院(敦明親王)の恨みを買っていたらしく、治安3年(1023年)、賀茂祭に派遣された祭使が平安京へ戻る還立の日に、小一条院家の執事・高階在平の従者から暴行を受けた上に、烏帽子を奪われて髻をかき乱される乱行を受けている。
 その後、越中守を経て、長暦4年(1040年)常陸介に任ぜられ、永承7年(1052年)頃に美濃守を務めるなど、後一条朝,後朱雀朝,後冷泉朝の三朝に亘って受領を歴任した。

高階経成 高階成章

 白河朝にて丹波守,丹後守,備後守を歴任し、のち、位階は正四位下に至る。
 康和5年(1103年)2月に高階能遠が常陸介に任ぜられるが、4月に辞退したため、後任として経成が83歳ながら任ぜられる。長治2年(1105年)、参議・藤原宗忠の邸宅に訪れた際、85歳にして起居が軽やかで素早く、目も耳もしっかりしているなど、老いても健康な様子は公卿・諸大夫に比する者がないとして、宗忠を驚かせている。常陸介を辞したのち出家し、天永2年(1111年)4月に卒去。享年91。
 勅撰歌人として、『金葉和歌集』に和歌作品1首が採録されている。 

 三条朝で主殿権助や春宮・敦成親王の蔵人を務める。長和5年(1016年)、敦成親王が即位(後一条天皇)すると、成章は六位蔵人に補せられて式部少丞を兼ね、翌長和6年(1017年)巡爵により従五位下・筑後権守に叙任された。
 寛仁3年(1019年)紀伊守に遷り、万寿3年(1026年)治国の功労により従五位上に叙せられる。この間の治安元年(1021年)には平安京の南の東寺近くで、敦明親王(小一条院)の従者から虐待を受けている。成章は従者に頭髪を掴まれて地面に這いつくばらせられ、四方八方からさんざんに蹴飛ばされる暴行を受けた。そのため成章の衣服はボロボロになってしまった。なお成章は敦明親王が紀伊国に所有する荘園に関連してかねてより院から恨みを買っていたという。万寿4年(1027年)、春宮・敦良親王の春宮大進に任ぜられる一方で、肥後守・太宰大弐と九州の地方官を兼ね、長元9年(1036年)敦良親王の即位(後朱雀天皇)に伴って正五位下に昇叙された。
 長暦元年(1037年)今度は春宮・親仁親王(のち後冷泉天皇)の春宮権大進に任ぜられ、このころ近江守を兼ねるが、長久3年(1042年)従四位下・主殿頭に叙任され、親仁親王の即位を見ないまま春宮権大進を去っている。その後は、長久5年(1044年)阿波守、永承4年(1049年)伊予守と四国地方の国司を歴任。また、妻の藤原賢子(のち大弐三位)がかつて親仁親王の乳母を務めていたこともあってか、後冷泉朝にて永承5年(1050年)従四位上、永承6年(1051年)正四位下と昇進を続けた。
 天喜2年(1054年)大宰大弐に任ぜられて再び九州に下向すると、翌天喜3年(1055年)赴任を賞して従三位に叙せられ、高階氏の氏人としては大伯父の高階成忠以来約70年ぶりに公卿に昇進した。天喜6年(1058年)正月に常寧殿造営の功労により正三位に至るが、同年2月6日薨去。享年69。
 地方官を歴任して蓄財し欲大弐と呼ばれた。勅撰歌人として『後拾遺和歌集』に1首の和歌作品が採録されている。 

高階為家 高階為章

 白河上皇の近臣としてだけでなく、関白藤原師実の家司としても仕えた。
 後冷泉朝にて従五位下・周防守に叙任される。
 白河朝初頭の延久4年(1072年)頃、美作守任ぜられたのち、播磨守,伊予守,近江守と富裕な大国・上国の国司を歴任する一方で、白河院の近臣や関白・藤原師実の家司も務め、承暦元年(1077年)には正四位下に叙せられている。しかし、寛治7年(1093年)春日神人を暴行したとして興福寺衆徒から訴えられ、為家は近江守を解かれて土佐国に配流となった。
 のち許されて、承徳3年(1099年)丹後守に任ぜられて官界へ復帰し、康和4年(1102年)越前守、長治元年(1104年)備中守と引き続き受領を歴任した。
 嘉承元年(1106年)11月14日に出家。同年11月17日卒去。享年69。

 蔵人所雑色を経て、承暦3年(1079年)六位蔵人兼右近衛将監に補せられる。承暦5年(1081年)巡爵により従五位下・越後守に叙任された。のち、左兵衛佐を経て、応徳3年(1086年)白河天皇が堀河天皇に譲位して院政を開始すると、為章は院近臣として院の身近に仕える一方で、但馬守を兼ね、寛治2年(1088年)正五位下次いで従四位下、寛治3年(1089年)従四位上、寛治4年(1090年)正四位下と白河院政期初頭に急速に昇進を果たした。
 為章は院の寵臣として因幡守・藤原隆時と並び称され、二条万里小路の為章の邸宅には、しばしば白河院の御幸が行われた。特に、寛治7年(1093年)春日神人を暴行したとして興福寺衆徒から訴えられ、父の為家が近江守を解かれて土佐国に配流となった際、為章は長男であったために縁坐となるべきところ、白河院の特別な恩寵によってこれを逃れ、4男の阿波守・為遠のみが官職を停められたことから、人々から専主の非常の断として驚嘆を受けたという。
 嘉保2年(1095年)木工頭を兼ねるが、寛治6年(1093年)加賀守、嘉保3年(1096年)丹波守と引き続き受領を務める。承徳元年(1097年)には、それまで20年間務めてきた内蔵寮領蟹谷庄の庄司職を継続することが許されている。丹波守在職中には、東寺領大山庄を寛徳年間(1044~46年)以後の新立荘園として収公するなど、任国の荘園に対し圧迫の姿勢で臨んだ。
 父に先立って、康和5年(1103年)12月20日に卒去。享年45。