<皇孫系氏族>天武天皇後裔

K310:高市皇子  天武天皇 ― 高市皇子 ― 高階峰緒 TS01:高階峰緒

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高階峰緒 高階令範

 承和11年(844年)高階真人姓を与えられ臣籍降下する。承和13年(846年)従五位下・下野介に叙任される。その後も伊予守,肥後守,近江介と仁明朝末から文徳朝にかけて地方官を歴任し、この間、嘉祥2年(849年)従五位上、斉衡2年(855年)正五位下と順調に昇進している。
 文徳朝末の斉衡4年(857年)左中弁に転じると、大蔵権大輔,大蔵大輔と清和朝初頭にかけて京官を務め、貞観2年(860年)には従四位下に昇叙される。貞観3年(861年)丹波守に転任すると、伊勢権守,山城守と再び地方官を歴任し、貞観10年(868年)正月に従四位上に叙せられている。同年2月神祇伯。

 文章生・式部大丞を経て、貞観11年(869年)従五位下・弾正少弼に叙任される。翌貞観12年(870年)兵部少輔に転じ、のち次侍従・下野権守を兼ねる。貞観14年(872年)来日していた渤海大使・楊成規の許に、橘広相と共に派遣されて小宴を催し、詩賦に興じたという。

 

高階師尚 高階良臣

 『伊勢物語』の解釈を典拠として、在原業平と斎宮・恬子内親王の密通によって生まれ、その事実を隠蔽するため、伊勢権守兼神祇伯であった高階峯緒が師尚を引き取り、その息子・茂範の養子としたとの風説が古くからあり、後世の各種系図上にも実父は在原業平である旨の記載がある。しかしながら、あくまでも伝承の域を出ず、詳細は不明である。

 

 文の道に達した才人であったという。承平8年(938年)武蔵介・源経基が平将門の謀反を朝廷へ誣告すると、翌天慶2年(939年)朝廷は当時左衛門少尉だった良臣と、左衛門権佐・源俊,勘解由主典・阿蘇広遠らを問東国密告使に任じて、その事実確認を命じた。しかし3名は障りがあると称して東国へと下向せず、その内に東国は承平天慶の乱で大いに乱れたため、翌天慶3年(940年)、3名は怠慢をもって揃って解官となった。天慶4年(941年)末の大赦で恩赦となり、天慶5年(942年)には民部少丞に任じられた。その後、左近衛中将や左京大夫を歴任したともいい、円融天皇の代に従四位下宮内卿まで昇る。
 良臣は仏法に深く帰依し、晩年は日夜法華経を唱えて往生極楽を祈念したという。天元3年(980年)の年頭より病がちになり、夏にやや回復したのを機に出家した。すると病状が持ち直したため、家人たちに遺言をよく伝えた。7月5日になって死去したが、臨終の際には芳ばしい香りが満ちて美しい音楽が流れ、また酷暑であったにもかかわらず遺体が腐乱することがなかったため、人々は不思議がったという。

高階成忠 高階信順

 文章生から、大内記,大学頭,弁官といった文官や、能登権守,大和守などの地方官を歴任。永観2年(984年)花山天皇が即位すると、成忠は春宮・懐仁親王の東宮学士を務める。寛和2年(986年)懐仁親王の即位(一条天皇)に伴い、東宮学士の労により従四位上から従三位に叙せられ、高階氏として初めて公卿に列した。
 正暦元年(990年)、娘の貴子と摂政・藤原道隆との間の娘である藤原定子が一条天皇の中宮に冊立されたことから、翌正暦2年(991年)7月に従二位に叙せられ、正暦3年(992年)9月には真人から朝臣へ改姓した。同年10月に出家し法名を道観と称す。最終官位は従二位行讃岐権守。
 長徳元年(995年)4月に娘婿であった道隆が没し、その後継を巡って外孫の内大臣・藤原伊周と権大納言・藤原道長が争い、道長が内覧・右大臣として執政の座に就く。この状況の中、8月に成忠は陰陽師をして道長を呪詛させている。翌長徳2年(996年)に発生した長徳の変を通じて藤原伊周やその弟の権中納言・藤原隆家が流罪となるが、成忠は出家していたため連座を逃れた。長徳4年(998年)7月7日薨去。享年76。
 非常に学才が高かったが、性格が普通でなく気味が悪く恐ろしげで、人々から厭わしがられていたという。娘・貴子のところに通っていた道隆を垣間見て、必ず出世する器と予見したという逸話がある。

 円融朝にて文章得業生を経て、貞元3年(978年)大和掾に任ぜられる。
 一条朝の正暦元年(990年)、妹・貴子の夫である藤原道隆が関白に就任するのと前後して右少弁に任ぜられると、五位蔵人や右衛門権佐のほか、春宮・居貞親王(のち三条天皇)の東宮学士を兼ねた。
 正暦6年(995年)正月に従四位下に叙せられるが、同年4月に道隆が没する。翌長徳2年(996年)4月に長徳の変が発生すると、信順も連座して伊豆権守に左遷される。同じく大宰権帥への左遷となった藤原伊周が配所の大宰府に下らず妹の中宮・藤原定子がいる中宮御所に逃げ込み、検非違使らの捜索を受けた際、同じく身を隠していた信順らも追捕された。その後、信順は病気を理由に配所への移送を拒むが、結局同年冬に伊豆国に移された。
 その後、伊周・隆家兄弟と同様に信順も短期間で赦されたらしく、長徳4年(998年)には権左中弁から左中弁に昇任している。長保3年(1001年)6月28日に出家し、翌29日に卒去。
 長徳元年(995年)3月9日、一条天皇は藤原伊周に関白代行を命じた。しかしこれは当時の関白・藤原道隆の病の間に限っての話だったが、恒久的なものに改められそうになった。この改竄を命じたのは中原致時,小槻奉親であり、この中原らに圧力をかけて勅命を改竄させようとした人物は、伊周の外伯叔父である高階信順,高階助順,高階明順,高階道順らである。

高階明順 高階道順

 永祚2年(990年)、藤原定子が中宮に冊立されると、明順は中宮大進に任ぜられる。義兄弟の藤原道隆執政下で中宮大進・但馬守を務め、正暦3年(992年)従四位下に叙せられている。
 道隆の薨去を経て、長徳2年(996年)長徳の変が発生し兄弟の高階信順や道順が罰せられるが、明順は連座を逃れる。さらに、変により大宰権帥に左遷された藤原伊周が重病と称して出立を拒んで行方を眩ませた際、伊周の場所の取り調べのために、高階信順,源明理,源方理らとともに明順は検非違使に拘禁されるが、まもなく伊周が現れたため、拘禁を解かれた。同年6月に二条宮で火災が発生した際、明順邸は中宮・藤原定子の避難先となった。
 藤原道長執政下でも、中宮大進/亮を務めて引き続き藤原定子に仕えたほか、伊予守・播磨介と受領も歴任した。
 寛弘6年(1009年)、中宮・藤原彰子と敦成親王に対する呪詛事件が発生する。左大臣・藤原道長はこの事件に関わっているとして明順を呼びつけ叱責するが、明順は恐縮して弁明することもできずに退出し、そのまま体調を崩して5-6日ほどして没したという。なお、この事件では高階光子,源方理,方理室源氏,源為文が処罰されたが、明順は処罰者に含まれていない。 

 一条朝初頭に六位蔵人を務めるが、この間の寛和2年(986年)に群盗に襲われ衣服を剥ぎ取られる被害に遭う。のち、丹波守を経て、右兵衛佐兼木工権頭を務めた。
 長徳2年(996年)長徳の変が発生し、甥にあたる藤原伊周・隆家兄弟が左遷されると、道順も連座して右兵衛佐木工権頭を解かれて淡路権守に落とされる。ここで、伊周は左遷命令に対して重病と称して出立を拒み行方を眩ますが、この時に道順は伊周とともに愛宕山に逃れていた。
 その後、道順は赦されて長保元年(999年)頃には但馬守に任ぜられている。寛弘2年(1005年)以降諸記録に表れなくなることから、この頃没したと思われる。堀河あたりに邸宅があり、没後に藤原為任の手に渡ったという。 

高階積善 高階貴子

 一家は漢学の家系で、父・成忠のほか、姉妹・貴子(高内侍)や貴子所生の藤原伊周も文才を以て聞こえた。紀伝道を学び、伊予掾,宮内少丞,弾正少弼,左少弁,民部大輔などの官を歴任し、三条朝の寛弘9年(1012年)正五位下に叙せられ、長和3年(1014年)従四位下に至る。中関白家の外戚であったことから、長徳2年(996年)の長徳の変による伊周・隆家兄弟の失脚後は官途に恵まれず、不遇のうちに没した。長和4年(1015年)の敦良親王読書始に名がみえないことから、この頃没したと思われる。
 式部卿宮・敦康親王の大叔父でもあり、親王邸で開かれた詩宴の作に「外家夙夜の遺老」と自称して、卑官でありながら外戚を気取っているのを世人が嘲笑したという。
 寛弘7年(1010年)頃に自身の作を含む当代のすぐれた漢詩を集めた『本朝麗藻』を編纂。一条朝の代表的な詩人の一人で、内裏(一条天皇)や左府(藤原道長)主催の作文会にしばしば招かれ、『本朝文粋』『類聚句題抄』などに併せて十数首の漢詩を残している。 

 和歌を能くし、女ながらに詩文に長けた由、『大鏡』など諸書に見える。円融朝に内侍として宮中に出仕し、漢才を愛でられ殿上の詩宴に招かれるほどであった。おなじ頃、中関白・藤原道隆の妻となり、内大臣・伊周,中納言・隆家,僧都隆円の兄弟及び長女・定子を含む3男4女を生んだ。
 夫・道隆は永祚2年(990年)5月に関白、次いで摂政となり、10月に定子が一条天皇の中宮に立てられ、貴子は末流貴族の出身ながら関白の嫡妻、かつ中宮の生母として栄達し、父・高階成忠は従二位と朝臣の姓を賜った。
 ところが、長徳元年(995年)4月10日に夫・道隆が病死すると、息子の伊周と隆家は叔父・道長との政争に敗れ、権勢は道長側に移った。翌年になって、伊周と隆家は、花山院に矢を射掛けた罪(長徳の変)によって大宰権帥・出雲権守にそれぞれ左降・配流。貴子は出立の車に取り付いて同行を願ったが、許されなかった。その後まもなく病を得て、息子の身の上を念じながら、同年10月末に薨去した。四十代であったと推定される。今でも作品の数々が人々の恋心に共感を呼び高く評価されている。
 『古今著聞集』によれば、道隆との関係にはじめ成忠は乗り気ではなかったが、ある後朝の朝、帰って行く道隆の後ろ姿を見て、「必ず大臣に至る人なり」といって二人の仲を許したという。