TS03:高階泰仲 | 高階峰緒 ― 高階業遠 ― 高階泰仲 ― 堀尾忠泰 | TS05:堀尾忠泰 | ● |
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堀尾泰晴 | 堀尾吉晴 |
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泰晴は織田信長の一族である織田弾正忠家の主筋清洲織田氏(織田大和守家)の嫡流である尾張半国守護代・岩倉織田氏(織田伊勢守家)当主織田信安に仕え、山内盛豊らとともに重臣の地位にあった。 |
天文12年(1543年)、尾張国丹羽郡御供所村の土豪である堀尾泰晴(吉久,泰時)の長男として生まれた。 |
堀尾金助 | 堀尾忠氏 |
堀尾吉晴の子、もしくは堀尾方泰の子とされるが続柄には異説がある。『堀尾氏系図』『寛政重修諸家譜』によると吉晴の長男とされ、病死としている。『古城跡由来記』によれば、叔父・方泰の実子、つまり吉晴の従兄弟で戦死であるとする。従って金助の母は方泰室である。また、方泰実子の後に吉晴の養子となったとする説、吉晴の弟説(『武功夜話』)、さらには堀尾権助の子弟ではないかとの推論も独自展開されている。
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天正6年(1578年)、堀尾吉晴の次男(異説として長男とも)として生まれる。兄・金助が天正18年(1590年)に小田原征伐の陣中で亡くなったことから、吉晴の世子となる。 |
堀尾忠晴 | 堀尾泰長 |
慶長9年(1604年)、父の忠氏が早世したため、幼くして跡を継いだ。しかし政治を取り仕切れるような年齢ではなかったため、祖父の吉晴が忠晴に代わって執政を行なった。このとき伯母と一族で筆頭家老の堀尾河内守(吉晴の娘の子)親子による家督横領の陰謀が発覚し、河内守と掃部の父子は流罪のうえ切腹を申し付けられている。後の仙石騒動にも似た事件であり、有力外様大名家の内紛とあって改易されてもおかしくなかったが、吉晴が健在であったためか難を逃れている。 |
慶長15年(1610年)、三条西実条の5男として三条西殿において誕生。 2歳のとき、母方の従兄である堀尾忠晴の養子となり、出雲国へ行く。 5歳のとき、叔母の長松院とともに証人(人質)となるため江戸へ下向。堀尾山城守江戸屋敷に住居する。忠晴の死後、24歳のとき帰京。西村と号する。42歳のとき、再び江戸に下向。52歳のとき江戸の旅宿にて卒去。堀尾右京泰長改め堀尾右京公紀(藤原公紀)として京都の盧山寺に葬られた。なぜ松江藩は無嗣断絶となったのか?幼い子供達を京の都に残しての二度目の江戸への下向は何をするためだったのか?など、非常に謎の多い人物である。 |