<皇孫系氏族>天武天皇後裔

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堀尾泰晴 堀尾吉晴

 泰晴は織田信長の一族である織田弾正忠家の主筋清洲織田氏(織田大和守家)の嫡流である尾張半国守護代・岩倉織田氏(織田伊勢守家)当主織田信安に仕え、山内盛豊らとともに重臣の地位にあった。
 永禄2年(1559年)、岩倉城の戦いで主家が滅亡した後の動向は定かではない。嫡男の吉晴が豊臣秀吉に仕えた後に引き取られたと思われる。慶長4年(1599年)、孫の忠氏の家督相続と同年に没している。 

 天文12年(1543年)、尾張国丹羽郡御供所村の土豪である堀尾泰晴(吉久,泰時)の長男として生まれた。
 当時、父の仕える岩倉織田氏は傍流である織田弾正忠家の織田信長に圧迫されており、吉晴は永禄2年(1559年)、初陣である岩倉城の戦いで一番首を取る功名を立てたものの、岩倉織田氏が滅亡したため父と共に浪人となった。その後、尾張を統一した信長に仕え、間もなくその家臣の木下秀吉に付属された。
 以降は秀吉に従って各地を転戦し、特に永禄10年(1567年)の稲葉山城攻めでは、稲葉山城に通じる裏道の道案内役を務めて織田軍を勝利に導いたといわれている。天正元年(1573年)には、近江国長浜の内に100石を与えられた。その後も武功を挙げ、播磨国姫路において1,500石、後に丹波国黒江において3,500石に加増された。
 天正10年(1582年)の備中高松城攻めでは、敵将・清水宗治の検死役を務める。山崎の戦いでは秀吉の命令で堀秀政や中村一氏とともに先手の鉄砲頭として参加。天王山争奪の際に敵将を討ち取るという功績を挙げ、丹波国氷上郡内(黒井城)で6,284石となる。
 天正11年(1583年)4月20日、秀吉が出陣後も吉晴は大垣城に残り氏家直通を説得して、一緒に秀吉のあとを追い賤ヶ岳に出陣した。秀吉本陣の背後の安全を請け負った吉晴の役割は重大であり、直通を賤ヶ岳出陣に踏み切らせた功績は甚大であった。
 天正11年(1583年)、若狭国高浜において1万7,000石に加増、天正12年(1584年)には2万石に加増された。天正13年(1585年)、佐々成政征伐に従軍。田中吉政,中村一氏,山内一豊,一柳直末らとともに豊臣秀次付の宿老に任命される。
 天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍。秀次の下で山中城攻めに参加。この役の途中でともに出陣した嫡子・金助が戦傷死している。小田原開城後は、これらの戦功を賞され、関東に移封された徳川家康の旧領である遠江国浜松城主12万石に封じられた。この頃、秀次から独立した立場になったためか、後の秀次事件には連座していない。
 秀吉の晩年、中村一氏や生駒親正らとともにいわゆる「三中老」に任命されたというが、現代の研究水準では、三中老は後世に作られた実在しない制度とされている。
 慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に接近し、石田三成や前田利家ら反家康派との調整・周旋を務めた。そして老齢を理由に慶長4年(1599年)10月1日、家督を次男の忠氏に譲って隠居した。その際、家康から越前府中に5万石を隠居料として与えられている。これは家康から知行を与えられた最初の例である。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。家康が会津征伐に赴く際に浜松において忠氏と共に歓待し、家康に従軍を求めた。しかし従軍は忠氏のみでよいとして、吉晴は越前への帰国を命じられた。
 その帰国途上の7月、三河国池鯉鮒での宴会中の口論の末に、美濃加賀野井城主・加賀井重望が、三河刈谷城主・水野忠重を殺害。さらに吉晴も襲いかかられたが、17か所の槍傷を負いながらも、これを返り討ちにした。事件の際は殺害現場を見た忠重の家臣に、殺害の主犯と勘違いされたという逸話も伝わる。また、吉晴の菩提寺である京都市春光院に残る吉晴木像には、左頬に深い傷跡が彫りこまれているが、それはこの際の傷ではないかと推測されている。
 前述の事件のため、9月の本戦には参加できず、越前に帰国。代わって出陣した忠氏が戦功を賞され、出雲国富田24万石に加増移封された。吉晴は密かに近江・北国の情勢を家康に報せていたとも言われる。
 慶長9年(1604年)、忠氏が早世する。家督は孫の忠晴が継ぐが、幼年のためその後見役を務めた。また同年、隣国伯耆国米子の中村家における御家騒動(横田騒動、または米子騒動)においては、中村一忠の応援要請を受け、応援出兵して騒動を鎮圧している。
 慶長16年(1611年)、松江城を建造し本拠を移したが、間もなく6月17日に死去した。享年69。 

堀尾金助 堀尾忠氏

 堀尾吉晴の子、もしくは堀尾方泰の子とされるが続柄には異説がある。『堀尾氏系図』『寛政重修諸家譜』によると吉晴の長男とされ、病死としている。『古城跡由来記』によれば、叔父・方泰の実子、つまり吉晴の従兄弟で戦死であるとする。従って金助の母は方泰室である。また、方泰実子の後に吉晴の養子となったとする説、吉晴の弟説(『武功夜話』)、さらには堀尾権助の子弟ではないかとの推論も独自展開されている。
 天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐に吉晴と共に参戦したが、6月12日に陣中で死去した。享年18。死因については病死説と戦死説があり、前者が有力とされるが、信頼に足る記録はなく未詳。弟の忠氏が吉晴の継嗣となった。
 吉晴が菩提を弔うため妙心寺塔頭に俊巖院を建立した。寺名は金助の戒名「逸岩世俊禅定門」による。
 金助については、熱田の裁断橋を架け替えた際に付けられた金助実母の文である擬宝珠銘文にその名が見える。第二次世界大戦後には「日本女性三名文」とされるこの裁断橋の擬宝珠銘文を基にした物語が多く創作された。

 

 天正6年(1578年)、堀尾吉晴の次男(異説として長男とも)として生まれる。兄・金助が天正18年(1590年)に小田原征伐の陣中で亡くなったことから、吉晴の世子となる。
 元服に際しては徳川秀忠から偏諱を受けて忠氏と名乗った。慶長4年(1599年)、父の隠居に伴い、遠江浜松12万石を相続する。ただし、中老職を継承したかどうかは不明である。父は隠居料5万石を徳川家康から与えられており、またこの時点ですでに三中老制は有名無実化されていたことから、恐らくは相続していなかったものと思われる。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康方の東軍に与して山内一豊と城提供の策を謀議し、また戦前に加賀井重望による殺傷事件に遭遇して負傷した父に代わって、東軍側として関ヶ原前哨戦に武功を立てる。本戦にも参加したが、こちらでは長宗我部盛親の出撃を牽制したのみで武功を挙げていない。戦後、前哨戦における武功を徳川家康から賞されて、出雲松江24万石に加増転封された。
 慶長5年(1600年)11月に堀尾家は出雲に入国し藩政を行う。忠氏は月山富田城を居城としたが、この城が山に囲まれて地理的に偏った場所にあり、水上交通には不便であることや城下町を広く建設できないことなどから、慶長8年(1603年)に江戸幕府から新城建設の許可を得て、城地の選定に乗り出した。この城地選定に関して吉晴と忠氏の意見は異なっており、吉晴が荒隈山を、忠氏が亀田山(末次城跡)を述べるなど意見の対立があったようである。忠氏は吉晴が推す場所は余りに広大すぎて維持費がかかり過ぎ、24万石の身代では困難であるとして反対した。この選定で父子の意見は一致しないままだったという。
 また、忠氏は慶長6年(1601年)に家臣の知行割や寺社への寄進を行ない、慶長7年(1602年)からは藩内の検地に着手した。この検地は寛永6年(1629年)まで段階的に行なわれたが、前領主の毛利家が1反を360歩にしていたのに対して忠氏は1反を300歩に改めるなど、この検地はかなり厳しかったと伝わっている。
 慶長9年(1604年)、忠氏は城地選定のため、島根郡や意宇郡の調査をしていた。7月下旬、意宇郡の大庭大宮(神魂神社)に参拝したが、この時に神主を呼び出して「当社には小成池があると聞いた。見物したい」と伝えたが、神主は禁足地であるとして断った。しかし忠氏は国主として見なければならないと主張し、神主は案内人を連れて忠氏を池の近くまで行き、そこからは忠氏が1人で行った。戻って来た忠氏は顔色が紫色になっており、富田城に帰ってから自らの行為に後悔し、程なく病床について、8月4日に吉晴に先立って病死した。享年27。跡を子の忠晴が継いだが、幼少のため吉晴が実際の藩主として統治に当たった。病弱でもなく急死する理由は見当たらず、本当に病死かどうかは謎である。一説にはニホンマムシにかまれたためともいう。藩主としては松江城の城地を選定するという治績を残している。
 なお、藩主の順番に関して松江藩初代藩主は吉晴か忠氏のどちらであるかでは様々な意見がある。これは関ヶ原当時、覇権を握った家康はまだ形式的には豊臣家の大老だったため、主君が家臣に知行を与える知行宛行状を出していないためである。また吉晴・忠氏は父子で共同統治しているため、それも順番を迷わせる一因となっている。
 新井白石『藩翰譜』によると、小山評定に先立ち、忠氏が親しい関係にあった山内一豊に家康の歓心を買うために居城を献上する案を話していたが、当の評定の場でその案を一豊に先んじて提案された。忠氏は「日ごろの篤実なあなたにも似ない行為だ」と笑ったという。 

堀尾忠晴 堀尾泰長

 慶長9年(1604年)、父の忠氏が早世したため、幼くして跡を継いだ。しかし政治を取り仕切れるような年齢ではなかったため、祖父の吉晴が忠晴に代わって執政を行なった。このとき伯母と一族で筆頭家老の堀尾河内守(吉晴の娘の子)親子による家督横領の陰謀が発覚し、河内守と掃部の父子は流罪のうえ切腹を申し付けられている。後の仙石騒動にも似た事件であり、有力外様大名家の内紛とあって改易されてもおかしくなかったが、吉晴が健在であったためか難を逃れている。
 江戸初期の『寧固斎談叢』では前田利常との恋愛関係が取り沙汰されている。
 慶長16年(1611年)、祖父が死去すると親政を開始し、忠晴と名乗った。藩主としてこれといった治績は伝わっていない。1614年の大坂の陣では鴫野の戦いなどに出陣して武功を立てたほか、軍令違反を咎めた徳川家の軍奉行を器量で圧倒して黙らせている。元和5年(1619年)、福島正則が幕命によって信州川中島に減転封された際には、広島城の城受け取りを務めた。
 寛永9年(1632年)、幕府により、丹波亀山城の天守を破却するように命じられるが、間違って伊勢亀山城の天守を解体してしまう。
 寛永10年(1633年)、死去した。
 忠晴は亡くなる前、祖父・堀尾吉晴の孫で父方の従兄弟であり、なおかつ娘婿でもある石川廉勝(宗十郎)に男子が生まれたなら、実孫であるその子を堀尾家の後継にしたいと考えた。忠晴はすでに母方の従兄弟である堀尾泰長(三条西公紀)を養子にしていたが、宗十郎の末期養子(中継養子)を幕府に申し立てた。しかしその嘆願は認められず、無嗣断絶、改易となり、大名家としての堀尾家は消滅した。『系図纂要』においては子として堀尾萬五郎が記される。
 一族のうち、吉晴の従兄弟の堀尾但馬や吉晴の弟・氏光の子・氏晴などが松江松平家に仕えた。肥後細川家にも堀尾茂助(4代目)が仕えている。

 慶長15年(1610年)、三条西実条の5男として三条西殿において誕生。 2歳のとき、母方の従兄である堀尾忠晴の養子となり、出雲国へ行く。 5歳のとき、叔母の長松院とともに証人(人質)となるため江戸へ下向。堀尾山城守江戸屋敷に住居する。忠晴の死後、24歳のとき帰京。西村と号する。42歳のとき、再び江戸に下向。52歳のとき江戸の旅宿にて卒去。堀尾右京泰長改め堀尾右京公紀(藤原公紀)として京都の盧山寺に葬られた。なぜ松江藩は無嗣断絶となったのか?幼い子供達を京の都に残しての二度目の江戸への下向は何をするためだったのか?など、非常に謎の多い人物である。
 2歳で父と別離した泰長の息子・押小路公音は父親の容貌を覚えていないことを終生悲嘆している。