<神皇系氏族>地祇系

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片倉景長 片倉村休

 寛永7年(1630年)、仙台藩士・松前安広の子として誕生。母は片倉重長の長女・喜佐。外祖父の重長に男子がいなかったため養子となり、重長の死後に家督を継いで国家老となった。
 仙台藩のお家騒動である伊達騒動では、国元で幼主・亀千代(伊達綱村)を補佐した。ところが、江戸幕府大老・酒井忠清邸で仙台藩家老・原田宗輔が刃傷に及ぶとの報が入ると、景長は直ちに領内に厳戒体制を敷いて領内での混乱を食い止めた。この働きが評価されて、仙台藩は改易を免れることとなった。しかし、病弱であったため、事後処理を終えると間もなく国家老を辞した。延宝9年(1681年)、死去。 

 天和3年(1683年)、白石片倉家第4代当主・片倉村長の長男として生まれる。元禄4年(1691年)、村長の死去により、わずか8歳で家督相続し白石領主となる。幼年の当主ゆえに、藩より片倉家の家政監督のため、白石在所目付として3代・片倉景長の実弟である松前為広が派遣された。元禄5年(1692年)、藩主・伊達綱村が白石城を訪れた際に、拝謁し短刀を賜る。元禄16年(1703年)、祖父の景長二十三回忌の際に、藩主世子・伊達吉村より和歌を一軸賜る。同年、吉村の藩主襲封の御礼言上の際に、江戸城で将軍・徳川綱吉に拝謁する。正徳4年(1714年)、藩主吉村の偏諱を受け、村休と改名する。享保3年(1718年)、領内に刈田嶺神社(白鳥大明神)の社殿を造営する。享保5年(1720年)7月15日死去。享年37。墓所は宮城県白石市の片倉家廟所。
 継嗣を残さず没したため、藩主・吉村の命で伊達村興の子の村信が家督を相続したが、享保16年(1731年)に実家へ戻り、実父・村興の嗣子となったため、叔父(父・村長の弟)である村定が養子先の遠藤家から帰家して家督を相続した。 

片倉村定 片倉村廉
 延宝5年(1677年)11月28日、片倉景長の3男として生まれる。片倉家は兄の村長が継いだため、初め遠藤定富の養子となり定利を名乗る。享保16年(1731年)、甥・村休の死去に伴い片倉家を相続していた片倉村信が実家の宮床伊達家へ戻ったため、藩命で片倉家を相続して白石領主・第7代当主となる。翌享保17年(1732年)、藩主・伊達吉村の偏諱を受け村定と改める。元文2年(1737年)、藩主世子・伊達宗村を白石城に迎え、刀を賜る。元文5年(1740年)、養子・景寛(村廉)が藩主・吉村の娘郷姫と婚約する。寛保3年(1743年)、病により家督を養子の村廉に譲り隠居する。寛保4年(1744年)1月23日没。享年68。墓所は宮城県白石市の片倉家廟所。 

 白石片倉家8代当主。享保12年(1727年)、仙台藩家老・松前広高の次男として誕生。初名は景寛。縁戚の白石領主・片倉村定の養子となる。藩主世子・宗村の遊び相手を務めた。
 寛保3年(1743年)、養父の隠居により家督を相続して白石領主となり、藩主・宗村の偏諱を受け「村廉」と諱を改める。同年、宗村の藩主襲封の御礼言上の際に、江戸城で8代将軍・徳川吉宗に拝謁する。同年、宗村に牧場開設の命を受け、翌延享元年(1744年)、刈田郡七日原に開設する。寛延元年(1748年)、宗村の妹・郷姫と結婚する。郷姫との間に、一門伊達村倫室となる薫姫を儲けた。宝暦2年(1752年)に郷姫が死去。宝暦4年(1754年)、庶子・景義を嫡子と定めるも、宝暦10年(1760年)に没したため、その弟・繁五郎(村典)を嫡子とする。宝暦6年(1756年)、藩主・伊達重村の藩主襲封の御礼言上の際に、将軍・吉宗に拝謁する。同年、幕府監察使が、白石城を訪れ饗応にあたる。明和5年(1768年)6月23日没。享年42。家督は村典が相続した。墓所は宮城県白石市の片倉家廟所。

片倉村典 片倉宗景

 宝暦8年(1758年)、白石片倉家第8代当主・片倉村廉の3男として生まれる。宝暦10年(1760年)、兄景義の死去により、父の嗣子となる。明和5年(1768年)、村廉の死去により家督相続し、白石城主となる。寛政9年(1797年)、奉行職(家老)を拝命。19年間奉行職を務め、天明3年(1786年)の天明の大飢饉、文化5年(1808年)幕命による蝦夷地警護の派兵、文化6年(1809年)藩主伊達周宗の早世による藩主不在などの問題に対処した。文化12年(1815年)、病のため奉行職を辞職する。文化14年(1817年)、隠居して家督を嫡男の景貞に譲る。文政5年(1822年)3月12日没。享年65。墓所は宮城県白石市の片倉家廟所。文政10年(1827年)、登米伊達宗充に嫁いだ4女・常の子の伊達斉邦は、仙台藩第12代藩主となる。
 俳人の松窓乙二(岩間乙二)に師事し、俳号を鬼子と名乗った。また、横綱・谷風は片倉家のお抱え力士であった。

 寛政10年(1798年)、白石片倉家第10代当主・片倉景貞の子として生まれる。文政元年(1818年)、父・景貞が病で隠居したため、家督相続して白石城主となる。文政2年(1819年)、白石城が火災で全焼する。文政3年(1820年)、幕府の許可を取り白石城の再建を開始し、文政12年(1832年)に完成した。天保13年(1842年)、奉行(家老)となる。二宮尊徳の弟子・倉田耕之進を登用して、天保の大飢饉で疲弊した領内の復興を図る。安政6年(1859年)、先祖・片倉景綱以来200年偉業を墜さず白石城を保つ功績を賞され、一家上席に進む。文久3年(1863年)、藩主・伊達慶邦に従い上京し、孝明天皇が石清水八幡宮に攘夷祈願の行幸を行った際に先陣供奉を務める。元治元年(1864年)、隠居して家督を嫡男の邦憲に譲る。明治4年(1871年)死去。墓所は宮城県白石市の片倉家廟所。
片倉邦憲 片倉景光

 文政元年(1818年)、11代当主・片倉宗景の子として誕生。諱は初め景徳、のちに仙台藩主・伊達斉邦より偏諱を受けて邦憲とした。正室は伊達宗衡の娘・愛姫。元治元年(1864年)、父の隠居により家督相続し白石城主となる。
 明治元年(1868年)、戊辰戦争の敗戦により、知行1万8000石と代々の居城の白石城を没収され、僅か蔵米55石が支給されることとなる。邦憲は家臣と相談の上で、白石按察府に蝦夷地開拓嘆願書を提出する。明治2年(1869年)、新政府より幌別郡の支配を命じられる。明治19年(1886年)、旧領白石で病没。 

 安政6年(1859年)5月13日、陸奥国刈田郡白石城にて生まれる。1870年(明治3年)5月、胆振国幌別郡に移住する。1880年(明治13年)10月7日、片倉家の家督を相続する。同年10月27日、会津藩洋医師・赤城信一の長女で、聖公会の信徒であるタケ(竹子)と結婚する。1886年(明治19年)、押川方義から洗礼を受け、日本基督一致教会の信徒となる。
 1898年(明治31年)7月20日、旧家臣らの嘆願もあり、開拓の功績が認められたことから、華族に列せられ男爵を授けられる。1911年(明治44年)、幌別村より宮城県白石町に帰郷する。同年9月3日、死去。