F644:宇都宮宗円 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 九条師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 氏家公頼 | F661:氏家公頼 | ● |
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氏家公頼 | 氏家直元(卜全) |
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公頼の出自については諸説あり定かではない。宇都宮朝綱の子とし、氏家氏を創始したとする説は『下野国誌』を主として、これまで通説とされてきた説である。朝綱の何番目の子であるかについても系図や資料によって異なるが、この説においては、宇都宮氏の勢力基盤拡大のため、朝綱の子である公頼が氏家郷に根を下ろし、氏家氏を創始したとする。 |
はじめ美濃国守護の土岐頼芸の家臣として仕えたが、斎藤道三によって頼芸が追放されると、道三の家臣として仕えた。道三死後も斎藤義龍,斎藤龍興に仕えたが、龍興とは折り合いが悪かったとされており、稲葉良通や安藤守就と共に永禄10年(1567年)、織田信長の稲葉山城攻めにおいて内応し、以後は織田氏の家臣として仕えた。なお、この頃に卜全と号した。 |
氏家直昌 | 氏家行広 |
西美濃三人衆の一人・氏家直元(卜全)の長男として生まれる。はじめは美濃斎藤氏に仕えるが、織田信長に降る。元亀2年(1571年)の伊勢長島一向一揆攻めで父が戦死したため、家督を継いで信長に仕えて美濃大垣城主となった。信長に従って各地を転戦し、天正元年(1573年)の一乗谷城の戦いではかつての旧主・斎藤龍興を討ち取るという武功を挙げた。
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本能寺の変後、氏家家は織田信孝に属したが、信孝が羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立すると秀吉方へ味方し、以降は秀吉に仕える。 |
氏家行継 | 氏家吉継 |
西美濃三人衆の一人・氏家直元(卜全)の3男として誕生。天正10年(1582年)3月、織田氏の甲州征伐のために信濃国へ出陣しているのが資料上の初見と思われる。諱は複数伝わるが、文書で確認できるのは「定元」。同年6月の本能寺の変以降は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に属し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加。近江国,伊勢国などに1万5000石の所領を与えられた。天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では肥前国名護屋城に在陣、文禄3年(1594年)には伏見城の普請にも分担であるが参加している。 |
陸奥国岩出山城主。奥州氏家氏12代当主。父・氏家隆継の隠居で家督を継いだ。天正15年(1587年)末、同じ大崎氏の家臣である新井田隆景と対立して伊達政宗と内通した。これが端緒となって天正16年(1588年)に伊達政宗が大崎領に大軍を侵攻させたが、黒川晴氏の裏切りで敗北し、吉継も大崎氏と和睦して帰参することとなった(大崎合戦)。 天正18年(1590年)の小田原征伐の際、大崎氏は豊臣秀吉の下に参陣しなかったために改易され、同時に吉継も没落して伊達政宗の家臣となる。翌天正19年(1591年)5月21日に死去したとされるが、小田原征伐中に吉継の死を知った政宗が小成田重長を岩出山城の城代として派遣したとする記録もあるため、実際には天正18年5月に死去した可能性が高い。 江戸時代、吉継の代で断絶した氏家氏は再興された。吉継の娘は富田守実に嫁ぎ、守綱を生んだ。その守綱の娘が伊達忠宗の小姓として仕えた中里清勝に嫁ぎ、忠宗は清勝に氏家の名跡を継がせた(13代目)。清勝は氏家主水と改めて、万治3年(1660年)に1,850石の禄となり、その子・清継(14代目)以降、子孫は明治維新に至った。 |