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| 諏訪時継 | 諏訪頼嗣 |
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諏訪大社の大祝であったが、建武2年(1335年)7月に父の頼重が北条時行を擁し、中先代の乱を起こした際に、子の頼継に大祝職を譲っている。だが、足利尊氏の追討軍に敗れ、8月19日に父とともに勝長寿院で自刃した。 |
建武2年(1335年)、中先代の乱で祖父・頼重や父・時継が反乱を起こしたため、当時7歳であった頼継は、諏訪大社の神領かつ御射山御狩神事が行われる場所であった神野(現・諏訪郡原山)に身を潜め続けなければならなかった。そのため、足利尊氏を恨んでいたという。また、逃亡生活を送る中で、幾つもの神験があったとされる。 |
| 高遠頼継 | 諏訪直頼 |
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高遠継宗の子とも孫(父は高遠満継)ともいわれる。諏方頼満が諏方氏を統一するとその傘下となった。のちに頼満の娘を妻に迎えている。 |
この頃の諏訪氏は、頼重・時継父子が建武2年(1335年)7月の中先代の乱で北条時行を擁して敗死し没落しており、大祝職と惣領は時継の遺児・頼継が継いだとされる。この頼継は、頼嗣,直頼と同一人物ではないか、とする見解がある。 |
| 諏訪頼満(伊予守) | 諏訪頼満(安芸守) |
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室町時代に諏訪氏は惣領職と大祝職が分離し、大祝を務めた後に惣領職を継承する慣行が確立していた。ところが、頼満の父・有継は応永4年(1397年)10月に大祝職になった4年後に下位すると、惣領職と大祝職は完全に分離した。文安6年(1449年)に諏訪大社下社の大祝職を務める金刺氏が諏訪氏と敵対し、金刺氏は信濃守護・府中小笠原氏の小笠原政康を味方につけた。これに対して諏訪氏は府中小笠原氏と敵対する松尾小笠原氏と結び、金刺氏と抗争を繰り広げた。 |
文明15年(1483年)1月8日、一族の諏訪継満(諏訪大社大祝家)・金刺興春(諏訪下社金刺氏)・高遠継宗の反乱(文明の内訌)によって父の政満と兄の宮若丸を殺されたため、10歳で家督を相続した。成長して永正15年(1518年)に金刺興春の子・昌春を萩倉要害に攻めて甲斐に追放し、高遠継宗の子・頼継を降伏させて諏訪地方一帯を統一し、さらに昌春を助ける甲斐の武田信虎とも戦う。享禄元年(1528年)には国境の神戸境川において信虎勢を撃破し、積極的に領国を拡大していった。このように諏訪氏の最盛期を築き上げた頼満は、「諏訪氏中興の祖」と言われた。 |
| 諏訪頼隆 | 諏訪頼重 |
| 父に譲られて諏訪大社大祝となったが、嫡男の頼重が誕生すると、永正17年(1520年)に大祝を頼重に譲っている。享禄元年(1528年)には諏訪郡と接する甲斐国守護の武田信虎が諏訪へ侵攻し、神戸・堺川合戦においてこれを撃退する。享禄3年(1530年)に死去した。諏訪大社の神事をめぐる神官同士の対立を仲裁した際に先例を曲げたため神罰が下ったといわれているが定かではない。 |
幼少時には大祝を務めた。のちに大祝職は弟の諏訪頼高に譲っている。 |
| 諏訪御料人 | 諏訪寅王 |
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生年は確実な史料からは判明しないが、『甲陽軍鑑』によれば、諏訪御料人が信玄に輿入れしたのは天文14年(1545年)に14歳の時とされており、これに従えば享録2年(1530年)生まれとなる。『甲陽軍鑑』では、諏訪御料人を「かくれなきびじん」と記しており容貌を讃えている。 |
頼重は天文11年(1542年)7月に甲府へ護送されて自害し、幼い寅王丸と生母の禰々は甲斐国へ帰国し、この際に名を千代宮丸と改名したという。同年9月、諏訪郡においては諏訪庶流で諏訪侵攻において共同し諏訪領を分割した高遠頼継が武田領に侵攻するが、晴信は幼い寅王を推戴して諏訪一族を統合し、9月に25日の諏訪宮川橋の戦いにおいて頼継勢を撃退する。その後は僧籍に入った。 |
| 諏訪満隣 | 諏訪満隆 |
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天文11年(1542年)7月2日に甲斐国の武田晴信が高遠頼継,禰宜太夫の矢島満清とともに諏訪氏当主・諏訪頼重の本拠である上原城を攻めると、満隣は頼重を助けた。頼重は桑原城へ敗走するが、7月4日に武田方へ降伏する。『高白斎記』『守矢頼真書留』によれば、頼重は武田氏の本拠である甲府へ護送されると、7月21日に東光寺で自害した。 |
諏訪頼重の叔父で、兄の満隣と共に頼重を支えたが、天文11年(1542年)、頼重が武田信玄によって攻められると抗戦むなしく敗れ、武田家に降伏した。諏訪での復権を目論んだ高遠頼継と矢島満清が反乱を起こすとそれの討伐に従軍する。天文15年(1546年)、信玄と諏訪御寮人との間に生まれた4男の四郎(後の諏訪勝頼)の諏訪家継承が決定すると、千代宮丸を擁立し、不満を抱いて反乱を起こしたが鎮圧され切腹を命じられた。 |
| 諏訪頼豊 | 諏訪頼忠 |
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天文11年(1542年)、従兄弟の諏訪頼重が武田信玄に敗れて、甲府で自害する。頼豊の父である満隣は頼重を助けるが、頼重没後に高遠頼継,矢島満清が諏訪郡と諏訪大社上社の大祝を求めて武田氏に対して反乱を起こすと、満隣は頼重の遺児・千代宮丸(寅王丸)を擁立して対抗し、9月には武田氏の助力を得てこれを撃破した。同年には上伊那郡福与城主・藤沢頼親攻めの案内役を務めている。満隣のこれ以降の動向は不明。 |
諏訪大社の大祝は頼重の弟・頼高が務めるが、頼高は天文11年(1542年)に殺害され、『当社神幸記』によれば、同年12月以前には頼忠が諏訪大社上社の大祝となり、12月7日には諏訪明神御渡の注進を行っている。永禄7年(1564年)7月19日には武田氏の飛騨侵攻に際して、信玄から祈祷を依頼されている。永禄8年(1565年)12月・永禄9年(1566年)には諏訪大社上社や末社の祭礼再興に尽力、天正6年(1578年)・天正7年(1579年)には武田勝頼により諏訪大社の造営が実施され、頼忠もこれに携わっている。 |
| 諏訪頼雄 | 諏訪盛政 |
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諏訪頼忠の4男として生まれる。幼少時は父が臣従した徳川家康の人質として、家康居所の駿府で過ごす。文禄元年(1592年)、上野国総社領主となった兄・頼水に仕えた。 |
慶長19年(1614年)、大坂の陣の際に、藩主・頼永が甲府城守備を命じられ、その供をした。元和6年(1620年)、頼永が幕府より大坂加番を命じられ、その供をした。 |