<神皇系氏族>地祇系

SY04:諏訪敦光  諏訪有員 ― 諏訪有信 ― 諏訪敦光 ― 諏訪時継 SY06:諏訪時継


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諏訪時継 諏訪頼嗣

 諏訪大社の大祝であったが、建武2年(1335年)7月に父の頼重が北条時行を擁し、中先代の乱を起こした際に、子の頼継に大祝職を譲っている。だが、足利尊氏の追討軍に敗れ、8月19日に父とともに勝長寿院で自刃した。
 諏訪氏は存続を許されたものの(同族で室町幕府に降っていた諏訪円忠の嘆願があったと考えられている)、大祝職を継承した子の頼継は、南北朝の争乱が勃発すると、足利氏への対抗上、南朝に与するが敗れて没落し、諏訪氏の大祝職と惣領は頼継の弟の信継の系統が引き継いだ。
 信継の子である直頼もまた、南朝方および観応の擾乱時に南朝に降った足利直義派の武将として尊氏派と抗争したが、やがて信濃国内における南朝勢力の衰退を悟り、同じく諏訪円忠の勧告もあって北朝・室町幕府方へ降った。直頼の嫡子・信有の家系は、戦国時代の頼満,頼重に至る。また、時継の子の継宗(異説では頼継)は、諏訪氏の有力支族である高遠氏の祖とされる。 

 建武2年(1335年)、中先代の乱で祖父・頼重や父・時継が反乱を起こしたため、当時7歳であった頼継は、諏訪大社の神領かつ御射山御狩神事が行われる場所であった神野(現・諏訪郡原山)に身を潜め続けなければならなかった。そのため、足利尊氏を恨んでいたという。また、逃亡生活を送る中で、幾つもの神験があったとされる。
 『守矢文書』には、興国元年/暦応3年(1340年)6月24日、当時数え12歳であった大祝頼継は北条時行と共に伊那郡の大徳王寺城において挙兵し、北朝方で信濃国守護の小笠原貞宗と戦闘を繰り広げたと記されている。頼継は祖父・頼重や父・時継の北条氏に対する忠節が忘れ難かったために挙兵したという。同月26日、挙兵した貞宗は数日で城を包囲し、同月7月1日から攻城を開始した。頼継や時行は何度かの防衛戦には勝利したものの、なすすべもなく兵を失っていったため、4か月後の10月23日夜に大徳王寺城は落城し、頼継は諏訪に戻ったとされている。
 正平6年/観応2年(1351年)12月15日、「信濃守頼嗣」の名で諏訪大社の神長官・守矢氏に祈願を依頼している。
 また、頼継は、同じ南北朝時代の武将であり、諏訪大社大祝・信濃守・信濃国守護であった「諏訪直頼」と同一人物であったのではないかとする説もある。

高遠頼継 諏訪直頼

 高遠継宗の子とも孫(父は高遠満継)ともいわれる。諏方頼満が諏方氏を統一するとその傘下となった。のちに頼満の娘を妻に迎えている。
 戦国期に甲斐国守護武田氏と信濃諏訪郡の諏方氏は同盟関係を結んでいたが、天文10年(1542年)6月に武田氏では武田晴信が当主になると、晴信は信濃侵攻を本格化させ、諏方氏との同盟を破棄して諏訪郡へ侵攻する。翌天文11年7月2日、頼継は武田氏の諏訪侵攻に与し、諏方頼重の本拠上原城へ侵攻する。頼重は武田方に降伏すると、同年7月に甲府へ護送され自刃する。諏訪領は宮川を境に武田氏と分割され、頼継は西半分を支配していたが、諏方氏惣領を志向する頼継は伊那郡福与城の藤沢頼親らと武田領へ侵攻する。しかし、同年9月25日には宮川の戦いにおいて武田方に敗退し諏訪から退去した。
 武田方はさらに伊那の藤沢頼親や小県郡長窪城の大井貞隆らを攻め、天文14年(1545年)4月17日には高遠城も落城し、頼継も武田方に降伏し、甲府へ出仕する。高遠城はその後、武田氏により改修され、信濃支配における拠点となる。天文17年(1548年)2月14日、武田方は小県郡の村上義清との上田原の戦いにおいて敗退すると、同年7月に諏方西方衆が謀反を起こすなど武田の支配領域では動揺が起こるが、頼継は同年4月3日に甲府から高遠城へ帰城している。
 その後、再び武田氏に出仕しているが、天文21年(1552年)の下伊那攻めの際に自害させられた。代わって高遠氏重臣の保科正俊が武田氏に重用されるようになった。

 この頃の諏訪氏は、頼重・時継父子が建武2年(1335年)7月の中先代の乱で北条時行を擁して敗死し没落しており、大祝職と惣領は時継の遺児・頼継が継いだとされる。この頼継は、頼嗣,直頼と同一人物ではないか、とする見解がある。
 正平4年/貞和5年(1349年)から翌年にかけて、善知鳥峠にて信濃守護の小笠原政長と戦った。同じ頃、足利一族の内部で尊氏派と直義派が分裂・対立して観応の擾乱が起こり、やがて足利直義が南朝に降ると、南朝方であった頼嗣(直頼)もこれに味方し、「直」の偏諱を賜って改名したと考えられる。その後も信濃国における直義党の武将として、北朝方(尊氏派)であった近隣の小笠原政長と戦い続けた。
 正平6年/観応2年(1351年)1月、関東管領・高師冬が直義と対立して関東を追われ甲斐・須沢城に逃げると、これを包囲して自害に追い込んだ。また、同年には直頼に属した市河親宗(かつて高師泰に属していた)らと共に、守護・小笠原政長を攻め舟山郷にあった守護館を放火し、さらに守護代の小笠原兼経らの守る筑摩郡放光寺を攻めたとの史実も伝わっている。なお、この時、政長は尊氏の命で上洛しており、留守であった。
 その後まもなく、師冬の養父の高師直など、直義派の政敵であった高氏一族がほぼ殺害されたことで尊氏・直義両派に平穏が戻ったかのようにみえたが、信濃国内では南北朝の対立が続いた。直義が守護の任免権も掌握すると、直頼が信濃守護に補任され、直義が北陸に逃亡するまでその地位にあった。
 一方、京都では、尊氏・義詮父子が南朝に降り、正平一統が成立して新たに南朝から直義追討令が出され、尊氏・直義両派は再び分裂、義詮の補佐として一旦政務に復帰していた直義は京都を脱出する。最終的には北陸を経由して鎌倉へ向かうことになるが、同年7月晦日の直義の北国落ちに際しては「諏訪信濃守」が付き従っており、『太平記』でも途中「無二の味方」として諏訪氏を頼り、信濃に立ち寄ったとしている。
 正平7年/文和元年2月26日(1352年3月12日)に直義は鎌倉にて急死するが、その後も旧直義派および南朝方の姿勢を変えず、信濃に拠っていた後醍醐天皇の皇子・信濃宮宗良親王に従って、笛吹峠・小手指原などで尊氏軍と戦う(武蔵野合戦)が、いずれの合戦でも敗北。更にその後の正平10年/文和4年(1355年)8月の桔梗ヶ原の戦いでも北朝・尊氏方の武田信春,小笠原政長・長基父子らに敗れ、信濃国内における南朝勢の衰退は決定的となっていた。同年12月、ついには宗良親王から離れ、正平11年/延文元年(1356年)には、既に足利尊氏に降り室町幕府の奉公衆となっていた一族の諏訪円忠から勧告を受けていたこともあり、尊氏死後の正平13年/延文3年(1358年)になってようやく、高梨氏らと共に第2代将軍となった足利義詮に降った。
 以後は義詮に臣従したとされ、早速正平14年/延文4年(1359年)12月の義詮による南朝への大攻勢には直頼自身も兵を率いて出陣したと伝わる。正平20年/貞治4年(1365年)、小笠原長基が塩尻郷の春近折中分を石清水八幡宮に寄進したことに反発した直頼は、再び金屋で長基と戦うなど、信濃周辺では近隣勢力との抗争が続いた。没年は不明であるが、諏訪氏の大祝職と惣領は諏訪信有の系統に継承された。

諏訪頼満(伊予守) 諏訪頼満(安芸守)

 室町時代に諏訪氏は惣領職と大祝職が分離し、大祝を務めた後に惣領職を継承する慣行が確立していた。ところが、頼満の父・有継は応永4年(1397年)10月に大祝職になった4年後に下位すると、惣領職と大祝職は完全に分離した。文安6年(1449年)に諏訪大社下社の大祝職を務める金刺氏が諏訪氏と敵対し、金刺氏は信濃守護・府中小笠原氏の小笠原政康を味方につけた。これに対して諏訪氏は府中小笠原氏と敵対する松尾小笠原氏と結び、金刺氏と抗争を繰り広げた。
 諏訪氏は金刺氏を圧倒するが、諏訪氏内部で惣領家と大祝家の対立が激化し、大祝家の頼満は惣領家の諏訪信満(安芸守)と対立し、「芸州・予州大乱」と呼ばれる抗争が発生する。この抗争は一時的に終息するが、諏訪信満は上原に居館を移転する事態に発展した。
 両者の対立は頼満の子・継満が大祝職を継承すると再び勃発し、継満は松尾小笠原氏や高遠継宗と結び、惣領家に対抗した。『守矢満実書留』によれば、文明15年(1483年)正月8日、継満は一族の高遠継宗や金刺興春と組んで、政満とその子息の若宮丸,政満の弟である埴原田小太郎らを饗宴の場において謀殺した。これに対して諏訪一族や社家衆は反発して惣領家に帰属し、継満を干沢城へ追い込むと諏訪郡高遠へ追放する。この時に、頼満は討ち取られている。
 その後、文明16年(1484年)には諏訪政満の次男・宮法師丸が惣領家を継承し、さらに宮法師丸は大祝職に就任することで、惣領家と大祝家の分離も解消された。 

 文明15年(1483年)1月8日、一族の諏訪継満(諏訪大社大祝家)・金刺興春(諏訪下社金刺氏)・高遠継宗の反乱(文明の内訌)によって父の政満と兄の宮若丸を殺されたため、10歳で家督を相続した。成長して永正15年(1518年)に金刺興春の子・昌春を萩倉要害に攻めて甲斐に追放し、高遠継宗の子・頼継を降伏させて諏訪地方一帯を統一し、さらに昌春を助ける甲斐の武田信虎とも戦う。享禄元年(1528年)には国境の神戸境川において信虎勢を撃破し、積極的に領国を拡大していった。このように諏訪氏の最盛期を築き上げた頼満は、「諏訪氏中興の祖」と言われた。
 享禄3年(1530年)4月18日、嫡男の頼隆が頼満に先立って31歳で急死し、天文3年(1534年)には嫡孫の頼重に家督を譲って出家して碧雲斎と名乗る。享禄4年(1531年)には甲斐の国人領主らを後援した河原辺合戦で敗退しており、天文4年(1535年)には信虎と和睦する。信虎の娘を頼重に娶わせ、ともに小笠原長棟を攻めた。
 天文8年(1539年)11月、背中に生じた腫瘍の悪化によって67歳で病死した。諏訪氏が武田晴信によって滅ぼされる2年半ほど前のことであった。 

諏訪頼隆 諏訪頼重
 父に譲られて諏訪大社大祝となったが、嫡男の頼重が誕生すると、永正17年(1520年)に大祝を頼重に譲っている。享禄元年(1528年)には諏訪郡と接する甲斐国守護の武田信虎が諏訪へ侵攻し、神戸・堺川合戦においてこれを撃退する。享禄3年(1530年)に死去した。諏訪大社の神事をめぐる神官同士の対立を仲裁した際に先例を曲げたため神罰が下ったといわれているが定かではない。

 幼少時には大祝を務めた。のちに大祝職は弟の諏訪頼高に譲っている。
 父の頼隆は享禄3年4月18日(1530年5月15日)に死去したため、頼重は祖父の頼満から嫡孫として後継者に指名され、天文8年(1539年)12月9日に頼満が死去すると、諏訪家の家督を継ぐ。諏訪氏は頼満・頼隆の頃に甲斐の武田氏と抗争し、反武田氏の国人衆と結び甲斐国内へ侵攻していたが、天文4年(1535年)に信虎と頼満は和睦し、武田家と婚姻関係を結んでいた。天文11年(1542年)には嫡男・寅王が生まれている。天文10年(1541年)5月13日には信虎・村上義清らと連携して小県郡に侵攻し海野氏一族と戦い、5月23日には海野平の戦いで海野棟綱を破り上野国へ追放した。
 同年6月に甲斐では武田信虎が駿河へ追放され、嫡男の武田晴信(信玄)が国主となり、晴信は信濃侵攻を本格化させ諏訪郡への侵攻を開始する。晴信は6月、諏訪惣領を志向する伊那郡の高遠頼継ら反諏訪勢と手を結び諏訪郡への侵攻を行い、上原城を攻められた頼重は7月に桑原城で降伏した後、弟の頼高と共に武田氏の本拠である甲府に連行され、東光寺に幽閉された後に自刃する。頼高も自刃し諏訪惣領家は滅亡した。
 武田氏は信濃支配において一族に信濃諸族の名跡を継承させ懐柔を行う方策を取っており、諏訪氏においても信玄の4男で諏訪御料人との間に生まれた勝頼が諏訪姓を名乗り名跡を継いでいるが、これは名目的なものであると考えられており、系図類では歴代に数えられていない。 

諏訪御料人 諏訪寅王

 生年は確実な史料からは判明しないが、『甲陽軍鑑』によれば、諏訪御料人が信玄に輿入れしたのは天文14年(1545年)に14歳の時とされており、これに従えば享録2年(1530年)生まれとなる。『甲陽軍鑑』では、諏訪御料人を「かくれなきびじん」と記しており容貌を讃えている。
 武田信玄により諏訪地方が制圧されると、父の頼重は甲斐国甲府の東光寺において死去する。信玄は当初、諏訪家惣領に頼重と禰々御料人の子である千代宮丸を擁立したが、やがてこれを破棄し、自らが頼重の娘を側室に迎え、生まれた男子に諏訪惣領家を継承させる路線を選択したという。
 諏訪御料人が甲斐へ輿入れした時期は、天文12年(1543年)説と天文14年(1545年)説がある。天文14年説は『甲陽軍鑑』に拠るもので、諏訪御料人は天文14年・14歳のときに信玄の側室となり、甲府の躑躅ヶ崎館に迎えられたという。『甲陽軍鑑』『武田源氏一統系図』によれば、天文15年(1546年)には勝頼が産まれている。『甲陽軍鑑』によれば、頼重の娘である諏訪御料人を迎えることには武田家中に反対論があったと言われ、山本勘助が家中を説得したとする逸話を記している。
 諏訪御料人は弘治元年(1555年)11月6日に死去する。没年は天文23年(1554年)とも。墓所は長野県伊那市高遠町の建福寺。
 なお、晴信の側室になるにあたり敵将の娘では都合が悪いため、禰津元直の養女になったとの説があり、この場合、禰津御寮人と同一人物とされる。この説に従えば、勝頼だけでなく、信清も諏訪御料人の子ということになり、信清の生年とされる永禄3年(1560年)または永禄6年(1563年)まで生存していたことになる。 

 頼重は天文11年(1542年)7月に甲府へ護送されて自害し、幼い寅王丸と生母の禰々は甲斐国へ帰国し、この際に名を千代宮丸と改名したという。同年9月、諏訪郡においては諏訪庶流で諏訪侵攻において共同し諏訪領を分割した高遠頼継が武田領に侵攻するが、晴信は幼い寅王を推戴して諏訪一族を統合し、9月に25日の諏訪宮川橋の戦いにおいて頼継勢を撃退する。その後は僧籍に入った。
 武田氏は信濃支配において征服した信濃諸族に一族の子弟を養子として懐柔する方策を取っているが、諏訪氏においても天文15年(1546年)には寅王の姉にあたる諏訪御料人と晴信との間に生まれた四郎(諏訪勝頼・武田勝頼)が諏訪家を継承する。近世の諏訪系図においては、大叔父の諏訪満隆が反乱を起こし、それに前後して長岌も今川義元を頼って亡命しようと試みたが、露見したために捕えられて殺されたとする説を伝えている。
 あるいは、天文22年(1553年)に越後へ出奔し、上杉謙信にその美貌と胆力とを愛され、春日山城内に住むことを許されて優遇されたと伝えられる。
 一説には、東北に逃れたとの話もある。
 玉の湯温泉に伝わる伝承がある。諏訪頼重と禰々の子・諏訪頼貞(玉林坊)は、戦いの果て流浪し野上の里に辿り着き、氏神諏訪大明神を祭り土着。慶長元年(1596年)、豊臣秀吉の命により金山を探しに来た山伏・金場源五郎が玉林坊の草庵を訪れ、二人は野上川上流に温泉を発見したという。 

諏訪満隣 諏訪満隆

 天文11年(1542年)7月2日に甲斐国の武田晴信が高遠頼継,禰宜太夫の矢島満清とともに諏訪氏当主・諏訪頼重の本拠である上原城を攻めると、満隣は頼重を助けた。頼重は桑原城へ敗走するが、7月4日に武田方へ降伏する。『高白斎記』『守矢頼真書留』によれば、頼重は武田氏の本拠である甲府へ護送されると、7月21日に東光寺で自害した。
 頼重の没後、高遠頼継と矢島満清は諏訪郡と諏訪大社上社大祝の地位を望み、武田氏に対して反乱を起こした。満隣は頼重の遺児である千代宮丸(寅王丸)を擁立して対抗した。『高白斎記』『守矢頼真書留』によれば、9月25日に満隣は武田勢とともに宮川橋の戦いにおいて高遠頼継を撃破する。この頃、満隣は出家する。『高白斎記』によれば、9月26日に満隣は神長官の守矢頼真や弟の諏訪満隆とともに武田氏の案内役を務め、伊那郡福与城主の藤沢頼親を攻め、これを降伏させた。これ以降の動向は不明だが、諏訪氏の系譜に従うと、織田信長による武田征伐による武田家滅亡後の天正10年(1582年)10月に卒。
 満隣子息のうち、諏訪頼豊は有力社家衆として諏訪衆を統括し、諏訪頼辰も武田家に仕えている。頼豊,頼辰,頼清は天正10年(1582年)3月の信長による武田氏滅亡に際して戦死し、本能寺の変の信長没後の天正壬午の乱において諏訪頼忠が諏訪氏を再興して、近世には諏訪高島藩主となる。 

 諏訪頼重の叔父で、兄の満隣と共に頼重を支えたが、天文11年(1542年)、頼重が武田信玄によって攻められると抗戦むなしく敗れ、武田家に降伏した。諏訪での復権を目論んだ高遠頼継と矢島満清が反乱を起こすとそれの討伐に従軍する。天文15年(1546年)、信玄と諏訪御寮人との間に生まれた4男の四郎(後の諏訪勝頼)の諏訪家継承が決定すると、千代宮丸を擁立し、不満を抱いて反乱を起こしたが鎮圧され切腹を命じられた。
 満隆には息子がおり、永禄8年(1565年)までには仏門に入り仏法寺僧侶となって、沙門賢聖と称していた。しかし同年、信玄は「賢聖は逆徒・諏訪薩摩守の子であるから」という理由で、その所領を没収している。 

諏訪頼豊 諏訪頼忠

 天文11年(1542年)、従兄弟の諏訪頼重が武田信玄に敗れて、甲府で自害する。頼豊の父である満隣は頼重を助けるが、頼重没後に高遠頼継,矢島満清が諏訪郡と諏訪大社上社の大祝を求めて武田氏に対して反乱を起こすと、満隣は頼重の遺児・千代宮丸(寅王丸)を擁立して対抗し、9月には武田氏の助力を得てこれを撃破した。同年には上伊那郡福与城主・藤沢頼親攻めの案内役を務めている。満隣のこれ以降の動向は不明。
 諏訪衆の筆頭に名を連ね、使番十二衆として活躍し、今川氏侵攻戦でも戦功を挙げた。また、天正6年(1578年)の諏訪大社の再建には弟の大祝・頼忠とともに中心に立って再建事業にあたった。
 天正10年(1582年)3月、織田信長が武田領に攻め込む(甲州征伐)と、諏訪氏家臣団は頼豊に対して武田氏を離反して諏訪氏再興を図るべきと進言するが、それを拒んで出陣する。鳥居峠の戦いで敗れた後、織田軍に捕らえられて処刑されたという。これにより、家臣達は弟の頼忠を擁して諏訪氏再興を図る。 

 諏訪大社の大祝は頼重の弟・頼高が務めるが、頼高は天文11年(1542年)に殺害され、『当社神幸記』によれば、同年12月以前には頼忠が諏訪大社上社の大祝となり、12月7日には諏訪明神御渡の注進を行っている。永禄7年(1564年)7月19日には武田氏の飛騨侵攻に際して、信玄から祈祷を依頼されている。永禄8年(1565年)12月・永禄9年(1566年)には諏訪大社上社や末社の祭礼再興に尽力、天正6年(1578年)・天正7年(1579年)には武田勝頼により諏訪大社の造営が実施され、頼忠もこれに携わっている。
 天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡した際に兄が戦死し、同年6月に本能寺の変で信長が死去すると、諏訪家旧臣千野氏らに擁立されて河尻秀隆の郡代・弓削重蔵を駆逐し、信濃高島城(旧城)に入って諏訪氏の家督を継ぎ本領を回復した。
 信濃の混乱(天正壬午の乱)に乗じて侵攻した徳川家康に対抗して北条氏政に接近し、再起を図ろうとした。しかし同年12月、酒井忠次,小笠原信嶺ら家康の信濃平定軍に敗れて、和睦の形で臣従することとなる。翌天正11年(1583年)3月に諏訪郡を所領として安堵された。
 天正18年(1590年)、家康が関東に移ると頼忠もこれに従い諏訪を離れ、武蔵国比企郡奈良梨,児玉郡蛭川,埼玉郡羽生に計1万2,000石の所領を与えられた。文禄元年(1592年)には上野国総社に所領を移された。この頃に家督を嫡男の頼水に譲った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、頼水が諏訪勢を率いて出陣し、頼忠は江戸城の留守居役を務めた。この戦功により、慶長6年(1601年)10月に諏訪氏は旧領である信濃国諏訪高島2万7,000石へ移封となり、頼忠は再び諏訪の地を踏み、信濃諏訪藩の基礎を築く。
 没年は慶長11年(1606年)とされるが、慶長10年(1605年)とする説がある。 

諏訪頼雄 諏訪盛政

 諏訪頼忠の4男として生まれる。幼少時は父が臣従した徳川家康の人質として、家康居所の駿府で過ごす。文禄元年(1592年)、上野国総社領主となった兄・頼水に仕えた。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には、徳川秀忠付きとなった頼水の供をして、上野国高崎城を守備した。慶長6年(1601年)、頼水が功績により旧領信濃高島へ転封となるとそれに従う。頼水の意向に従って、領内原山の新田開発を指揮し、慶長15年(1610年)に完成させた。慶長16年(1611年)、江戸藩邸で火災が起こり、火元となった藩士・高山左太夫の処罰を巡って、厳罰を主張する頼水に諫言して対立し、他の重臣たちと共に藩を退去する。翌慶長17年(1612年)、屋代秀正,小笠原秀政の仲裁により頼水が折れて帰参する。慶長19年(1614年)・元和元年(1615年)、大坂夏冬両陣では甲府城守備を命じられた頼水に従う。
 齢松山福寿院を開基する(年代不明)。元和7年(1621年)、病により隠居して家督を嫡男の盛政に譲る。寛永8年(1631年)11月4日死去。
 代々高島城二の丸に居住し二の丸家と呼ばれ、8代・頼保は二の丸騒動で切腹を命じられる。図書家は家名断絶した。 

 慶長19年(1614年)、大坂の陣の際に、藩主・頼永が甲府城守備を命じられ、その供をした。元和6年(1620年)、頼永が幕府より大坂加番を命じられ、その供をした。
 元和7年(1621年)、父・頼雄の隠居により15歳で家督と知行1,000石を相続する。父より妖怪火車の爪と、藤嶋友重の刀(火車切)を譲られた。火車切は、母(松平一生の娘)が嫁ぐ際、松平家から贈られたもので、松平近正(一生の父)が火車退治に用いたものと伝わる。
 寛永3年(1626年)、松平忠輝が諏訪藩に預けられることとなり、その警護を任される。寛永10年(1633年)、家督を嫡男の盛住に譲り隠居する。貞享2年(1685年)3月21日、諏訪で死去。雅を好み、暇があれば書を揮毫し、贈られた人々はこれを珍重した。