<神皇系氏族>地祇系

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諏訪盛重 諏訪頼重

 承久3年(1221年)に勃発した承久の乱の際、大祝として北条義時の戦勝を祈願すると共に、長男の諏訪信重を上洛させており、戦後間もなくして被官として北条泰時に出仕した。泰時の側近として活躍し、『吾妻鏡』にも頻繁にその名が見られる。嘉禎2年(1236年)に泰時の邸宅が新造されると、盛重は尾藤景綱と共に御内人としてその敷地内に屋敷を構えており、泰時の信頼の篤さを伺わせる。
 得宗被官のまとめ役としての立場にあったらしく、北条時頼の使者として朝廷との折衝にあたることも多く、宝治元年(1247年)、宝治合戦直前には、”すわ合戦”かと全国より輻輳する武士達を時頼の代理人として鎮定し退散させている。北条一門や安達氏といった外戚など、得宗に親しい一部の首脳陣(のちの寄合衆)のみの協議である「深秘の御沙汰」にもしばしば参加した。
 盛重の幕府に対する貢献は高かった。寛喜2年(1230年)、鎌倉中で騒動が起こった際には尾藤景綱と共にこれを鎮定し、同年の和賀江島が完成した際にも景綱と共に巡検を担当。文暦2年/嘉禎元年(1235年)、源頼朝の霊廟がある法華堂近くの湯屋からの火災の際には、湯屋と法華堂の間にある家屋を迅速に取り壊して消火活動を行い、法華堂への類焼を食い止めた。寛元4年(1246年)閏4月の宮騒動では北条光時らの謀議を事前に阻止したことにも寄与し、宝治合戦でも得宗被官の統率役として抜群の勲功を挙げ、時頼から「無双の勲功」と称えられたという。建長3年(1251年)、幕府への謀叛を画策した了行法師,長久連,矢作左衛門尉らの尋問を担当し、文応2年/弘長元年(1261年)には宝治合戦で滅んだ三浦氏の残党である三浦義村の子・良賢(僧籍)を捕縛した。
 宝治2年(1248年)、北条時輔が誕生すると、その乳母夫となったが、6月10日に指名されたあとも辞退を続け、7月9日に至り初めてその役割を務めている。
 上記以外の事績としては、建長3年(1251年)に風伯祭の奉行を勤めたこと、同5年(1253年)に泰時追福を祈願して山内に堂を建立したことなどが『吾妻鏡』に記載されている。 

 諏訪大社の大祝とされるが不詳。父親については諸説ある。鎌倉時代において、諏訪氏は代々信濃守護の北条氏の御内人であった。東勝寺においては諏訪一門の諏訪時光(円光入道)が自刃している。
 鎌倉幕府滅亡後、建武政権によって新たに信濃守護に任じられた小笠原貞宗と諏訪氏とは対立関係になり、小笠原氏の支配に対する不満もあって、やがて頼重・時継父子は得宗北条高時の遺児・時行を奉じ、中先代の乱を起こした。頼重は三浦氏などの援助により、渋川義季,岩松経家,今川範満,小山秀朝などを敗死させ、ついには足利直義を逃走させ、鎌倉を一時占領するが、京より派遣された木曾(沼田)家村率いる追討軍に大敗し、頼重は子の時継ら43人と勝長寿院で自刃した。
 『諏訪史料叢書』巻27に記載されている系図によると、北条時行を鎌倉から脱出させ信濃に連れ出した「諏訪盛高」は頼重と同一人物であるとされる。
 諏訪家の家督(大祝職)は孫の頼継(時継の子)が継承した。 

小坂円忠

 諏訪大社上社の支族で、埴科郡船山郷の地頭・小坂氏を継いだので小坂円忠とも称する。諏訪氏は北条氏の得宗被官で、叔父の諏訪時光も鎌倉幕府の奉行人であった関係から、その養子となり鎌倉で元服した。
 北条氏が滅亡すると上洛し、夢窓疎石の仲介により足利尊氏に仕官し、室町幕府の評定衆から守護奉行を経て、天竜寺の造営奉行を務めた。さらに禅律方奉行人となり、主に禅宗寺院関連の案件を担当した。中先代の乱以後に衰亡した諏訪宗家の再興にも助力し、諏訪上社の花会が信濃一円の武士の御頭奉仕で行われるようになった。
 延文元年(1356年)、尊氏の奥書を持つ『諏方大明神画詞』を完成させ、当時の公家社会をはじめとする各方面に諏訪信仰を普及させたほか、尊氏が発願した一国一寺の安国寺利生塔創建にあたり、信濃安国寺を諏訪上社の近くに建て、夢窓疎石を開山者とした。
 また円忠は諏訪神党祢津氏が相伝した鷹匠の秘術の故実を受け継ぎ、子孫の京都諏訪氏の惣領に代々伝授され、文明5年(1473年)には飛鳥井氏と諏訪忠郷が鷹に関する和歌に註釈をつけて将軍・足利義政の上覧に応えている。忠郷の子・諏訪貞道も『鷹聞書少々』という鷹狩の故実書を編纂している。
 円忠は和歌や連歌の道にも優れ、『新千載和歌集』,『新後拾遺和歌集』,『菟玖波集』に歌や句が選ばれた。