<神皇系氏族>地祇系

SY06:諏訪時継  諏訪有員 ― 諏訪有信 ― 諏訪敦光 ― 諏訪時継 ― 諏訪頼水 SY07:諏訪頼水

リンク {G755}{F574
諏訪頼水 諏訪忠恒

 天正5年(1577年)、6歳で父・頼忠から諏訪大社大祝職を譲られる。天正18年(1590年)、父と共に小田原征伐に従軍する。その後、主家の徳川氏が関東に移封となったため、頼忠父子はこれに従って諏訪を離れて関東に移り、武蔵国奈良梨に所領を与えられた。その翌々年、上野国総社へ移封され、同年に父から家督を譲られている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従い、信濃国や上野国の守備を命じられた。その功績により、戦後の慶長6年(1601年)10月、信濃国高島2万7,000石へ復帰を許された。第二次上田合戦後には上田城の受取役を果たしている。
 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では甲府城の守備を命じられ、長男の忠頼が諏訪軍を率いて出兵した。頼水は冬の陣の際に自身が城の留守居などのような閑職に留められていることに奮起し、夏の陣では大坂へ従軍させてもらうように願ったが、かなえられず夏の陣でも甲府城の守備を命じられた。
 元和2年(1616年)、改易となった松平忠輝の身柄を預かり、その後、諏訪氏は忠輝の面倒を生涯見ている。寛永11年(1634年)、第3代将軍・徳川家光から杯と饗応を受けるという厚遇を受けるほどの信任を受けた。寛永17年(1640年)、忠頼(忠恒)に家督を譲って隠居し、翌年の寛永18年1月14日(1641年2月23日)に72歳で死去した。 

 慶長12年(1607年)、第2代将軍・徳川秀忠に謁見して刀などを賜り、元服して忠頼と名乗った。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では信濃国高島城を守備し、翌年の大坂夏の陣では、甲府城守備を任じられた父に代わって大坂へ出陣し、榊原康勝軍に属して、若江の戦いや天王寺の戦いで奮戦し、戦後、筑摩郡に5000石を加増されている。
 寛永17年(1640年)、父から家督を譲られた。そして藩政に力を注ぎ新田開発に努めた。慶安4年(1651年)、甲州街道,信濃国金沢宿の宿場町の建設に尽力した。
 明暦2年(1656年)に信濃国金沢村と隣の千野村との間に山論が起きた時、忠恒の裁定により、高道下境塚を起点とし、松倉峠(金沢峠)に至る一線を画し、境界が確定したことにより、争いは解決したかに見えたが、息子・忠晴の代になってから再び争いが再炎することとなる。明暦3年(1657年)9月28日に63歳で死去。 

諏訪忠晴 諏訪忠厚

 明暦3年(1657年)、父の死去により跡を継ぐ。このとき、筑摩郡5000石のうち、弟の頼蔭(埴原知行所)と頼久(百瀬知行所)にそれぞれ1000石ずつ分知し旗本に列させたため、諏訪藩は3万2000石から3万石となった。百瀬知行所には陣屋を置いた。同年12月27日に叙任する。
 延宝4年(1676年)、武家伝記である『本朝武林小伝』7巻とその続編である35巻を編纂する。また、狩野派の絵もよく描いていたなど、文化人としても優れていたことが伝えられている。
 延宝の飢饉で諏訪藩内でも死者が1200人も出るなど被害者が大きかった。忠晴は宗門改めや検地など、知行制度の整備など藩の支配機構を整え、藩体制の確立に努めた。その頃の藩主としての厳しい一面を伝える逸話がある。延宝6年(1678年)、父・忠恒の時代に解決したかに見えた金沢山の入会権をめぐる金沢村と隣の千野村との争いの再炎で、代表として紛争の解決にあたった金沢宿の問屋・小松三郎左衛門が村のため裁許状を覆そうと江戸へ直訴しようとし、忠晴の怒りにふれ処刑された。その後、財産没取、妻子は追放された。 小松三郎左衛門磔殺事件といわれる苛酷な出来事である。
 天和元年(1682年)には高田城在番と高田領内の検地を務めた功績により、天和3年(1683年)7月28日に幕府より恩賞を授かっている。その後も大坂城山里御門番,江戸火消役などを務めた。ただ、忠晴晩年頃から諏訪藩内での家老政治が始まり、後の二の丸騒動へと続いていく。
 元禄8年(1695年)3月2日に57歳で死去し、跡を3男の忠虎が継いだ。 

 宝暦13年(1763年)、父の隠居を受けて家督を継ぐ。この頃、諏訪藩では財政悪化から藩政改革を迫られていた中で跡を継いだ忠厚は、政務に関心を示さない暗愚無能の人物であった。このため、筆頭家老の千野貞亮が実権を掌握する。
 千野は藩財政再建のため、明和元年(1764年)に新役所を設置し、翌年には領民に対して重税を強いるなどの方針で領民を大いに苦しめたが、藩財政はいくらか再建された。千野は忠厚から賞賛されることとなったが、このことが騒動の火種となった。
 事件は、千野が藩財政をいくらか再建することで始まった。諏訪氏には当時、家臣に二つの派閥があった。ひとつは鎌倉時代から諏訪氏に仕えてきた累代の重臣・千野氏で、高島城三の丸に屋敷を構えていた。これに対抗するように初代藩主頼水の弟・頼雄を祖とする高遠藩の家老一族がいたが、これは二の丸に屋敷を構えていた。これらは知行は共に1200石で、交代で歴代の家老を輩出してきた家柄である。
 ところが千野が改革で功績を挙げたことで、もう一人の家老である諏訪頼保は、千野に藩の実権を完全に掌握されるのではないかと恐れ慄いた。そこで頼保は、千野の追い落としを計画する。忠厚には渡辺助左衛門という寵愛している江戸詰の側用人がいたが、頼保はこれに近づいて、共に千野の追い落としを図った。頼保は忠厚に対して「千野の改革は領民から税をむしり取るだけのものであり、領民は一揆を起こしかねないほど千野を恨んでいる」と讒言した。確かに千野の改革は税を搾取するのが主であったため、領民が苦しんでいたのは確かであったが、忠厚はこれに対して大した調べもせずに千野を家老から解任して知行を召し上げ、閉門処分にした。こうして頼保は首席家老となり、150石の恩賞までいただくという栄誉を受けた。しかし、このような頼保に清廉なところも政治手腕もなかった。頼保は賄賂を払う者を多く取り立て、女や酒を周りに集めては遊興や淫らな行為に奔るなど、千野以上の悪政を行ったのである。
 しかし、千野はこのまま黙っていなかった。安永8年(1779年)3月、勢いを盛り返して江戸にいる忠厚のもとに乗り込み、頼保の淫らな行状を訴えた。これを知った忠厚は激怒し頼保を家老から罷免し、知行を召し上げて閉門に処した。
 だが、頼保はすぐに巻き返しに出た。忠厚には正室との間に男児がおらず、側室との間に2人の息子がいた。ひとりはおとめ(木村氏)が産んだ軍次郎(後の忠粛)、もうひとりはおきそ(北川氏)が産んだ鶴蔵(後の頼庸)である。ところが忠厚はおきそを溺愛したため、家督を鶴蔵に譲ろうと考えていた。そこで、頼保は忠厚の寵臣である渡辺と手を結んで、軍次郎を廃嫡して鶴蔵を跡継ぎとしようと画策した。こうすれば、鶴蔵が藩主になったとき、頼保は藩主擁立の功績の第一人者となれるからである。 これを知った千野は、いくら何でも主家の家督にまで手を出すのには反対で、家督は長男が継ぐべきと考えていた。そこで二の丸派の動きを阻止しようとしたが、渡辺が忠厚に対してまたも讒言したため、千野は忠厚の命で家老罷免の上、押込めとなった。こうなると頼保は勢いづき、軍次郎を調伏し、さらに忠厚の正室が軍次郎を支持しているのを苦々しく思って、忠厚に対して正室との離別を提言した。忠厚もいつまでたっても子を産まない正室に苛立っていたため、正室は強制的に離別させられた。
 一方、押し込めとなっていた千野は、松本藩主・松平光和の命により差し向けられた忍者・芥川義矩によって救出された。このような家督騒動の事態になったことを憂慮し、自分の死を覚悟して、江戸の松平乗寛のもとへこの事態を訴え、助けを求めた。乗寛は忠厚の妹婿で、幕府の奏者番を務めていた。事態を知った乗寛は幕府がこれを知れば改易になりかねないことを憂慮して天明元年(1781年)10月、忠厚を説得して家督を長男の忠粛に譲らせることを実現した。さらにこの功績で、千野は再び家老に復帰した。
 そして頼庸を調伏して藩政を牛耳ろうと企んでいた二の丸派は天明3年(1783年)7月、頼保が切腹、渡辺ら4名は斬首という処分が下され、ようやく二の丸騒動は終焉した。全ては単純暗愚の藩主・忠厚から始まったと言っても過言ではない騒動であった。文化9年(1812年)、67歳で死去した。 

諏訪忠粛 諏訪忠恕

 明和5年(1768年)4月4日、6代藩主・諏訪忠厚の長男として誕生した。父が暗愚だったために起こった家督騒動である二の丸騒動では、反忠粛の家臣らによって暗殺されかけたこともある。しかし、この騒動で父が幕府より強制隠居を命じられたため、天明元年12月11日(1782年)に跡を継ぐこととなった。
 天明5年(1785年)からは坂本養川を登用して、検地や新田開発,税制改革,鋸製造業の奨励などを中心とした藩政改革を行い、ある程度の成果を収めた。享和3年(1803年)には藩校・長善館を創設して、藩士子弟の養育や藩医を長崎に留学させて蘭学を学ばせるなど、学問も積極的に奨励した。文化13年(1816年)11月21日、長男の忠恕に家督を譲って隠居し、文政5年(1822年)6月28日に死去した。享年55。 

 側室の子として諏訪にて産まれた。文化10年(1813年)12月、従五位下・伊勢守に叙任された。文化12年(1815年)12月に元老中首座の松平定信の娘を正室とし、翌文化13年(1816年)11月21日、父の隠居により跡を継いた。
 文化14年(1817年)12月16日に叙任。藩政においては藩財政再建を目指して検地や諏訪湖の治水工事を行った。また文政7年(1824年)には桑の苗を下賜し、養蚕業の奨励における産業発展などを行なった。これらの政策はいずれも成功したが、治世中における連年の凶作や江戸藩邸の焼失再建費用により藩財政は悪化し、文政7年(1824年)には高島藩で唯一の百姓一揆とも言える「山留強訴」が起こった。天保7年(1836年)4月28日、藩校長善館の教導で儒者であった勝田鹿谷の献策を採用し、藩内の余剰米を集めて、凶作時のために備蓄する仕組みを作った。同年8月、隣国甲斐国で起こった一揆・打ちこわしの天保騒動鎮圧のために、幕府甲府代官所の依頼を受けて、鎮圧のために甲斐国に出兵した。
 天保11年(1840年)5月4日に長男の忠誠に家督を譲り、6日に隠居し、天保14年(1843年)9月4日に「射山」と改名。嘉永4年(1851年)5月1日に江戸木挽町の藩邸にて死去した。享年52。 

諏訪忠誠

 天保11年(1840年)、父の隠居に伴い家督を相続した。外祖父の松平定信は忠誠の人となりを見て、将来有望であると太鼓判を押した。その予想通り、万延元年(1860年)若年寄,文久2年(1862年)寺社奉行,元治元年(1864年)には老中に就任する。
 同年、武田耕雲斎率いる水戸天狗党(総勢1000人の浪士)は京を目指し、10月20日には諏訪藩領内の和田峠を越えようとさしかかった。幕府は高島藩と隣の松本藩に出兵を命じ、諏訪・松本両藩2000人は和田峠で迎撃をしたが、藩兵は6名の犠牲者を出し突破されている。
 一方、幕府では若年寄,寺社奉行,老中と昇格したが、老中在任中の慶応元年(1865年)、将軍・徳川家茂が長州征討のため出陣するのに強く反対し、同じ立場だった長岡藩主の牧野忠恭とともに老中職を罷免された。
 慶応4年(1868年)5月24日に隠居し、養嗣子とした甥の忠礼に家督を譲った。明治4年(1871年)4月、東京に移住した。明治11年(1878年)10月、忠礼の死去により家督を再び相続した。明治17年(1884年)7月、子爵を授かる。明治31年(1898年)に死去した。家督は娘婿の忠元(溝口直溥の14男)が継いだ。その後、忠元の娘・千賀子の婿に仙石政固の5男(庶子)を迎えて諏訪忠久として襲爵し、娘・広子は商人の植村伝助(植村秀の父)の妻となった。