| SY06:諏訪時継 | 諏訪有員 ― 諏訪有信 ― 諏訪敦光 ― 諏訪時継 ― 諏訪頼水 | SY07:諏訪頼水 | ● |

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| 諏訪頼水 | 諏訪忠恒 |
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天正5年(1577年)、6歳で父・頼忠から諏訪大社大祝職を譲られる。天正18年(1590年)、父と共に小田原征伐に従軍する。その後、主家の徳川氏が関東に移封となったため、頼忠父子はこれに従って諏訪を離れて関東に移り、武蔵国奈良梨に所領を与えられた。その翌々年、上野国総社へ移封され、同年に父から家督を譲られている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従い、信濃国や上野国の守備を命じられた。その功績により、戦後の慶長6年(1601年)10月、信濃国高島2万7,000石へ復帰を許された。第二次上田合戦後には上田城の受取役を果たしている。 |
慶長12年(1607年)、第2代将軍・徳川秀忠に謁見して刀などを賜り、元服して忠頼と名乗った。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では信濃国高島城を守備し、翌年の大坂夏の陣では、甲府城守備を任じられた父に代わって大坂へ出陣し、榊原康勝軍に属して、若江の戦いや天王寺の戦いで奮戦し、戦後、筑摩郡に5000石を加増されている。 |
| 諏訪忠晴 | 諏訪忠厚 |
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明暦3年(1657年)、父の死去により跡を継ぐ。このとき、筑摩郡5000石のうち、弟の頼蔭(埴原知行所)と頼久(百瀬知行所)にそれぞれ1000石ずつ分知し旗本に列させたため、諏訪藩は3万2000石から3万石となった。百瀬知行所には陣屋を置いた。同年12月27日に叙任する。 |
宝暦13年(1763年)、父の隠居を受けて家督を継ぐ。この頃、諏訪藩では財政悪化から藩政改革を迫られていた中で跡を継いだ忠厚は、政務に関心を示さない暗愚無能の人物であった。このため、筆頭家老の千野貞亮が実権を掌握する。 |
| 諏訪忠粛 | 諏訪忠恕 |
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明和5年(1768年)4月4日、6代藩主・諏訪忠厚の長男として誕生した。父が暗愚だったために起こった家督騒動である二の丸騒動では、反忠粛の家臣らによって暗殺されかけたこともある。しかし、この騒動で父が幕府より強制隠居を命じられたため、天明元年12月11日(1782年)に跡を継ぐこととなった。 |
側室の子として諏訪にて産まれた。文化10年(1813年)12月、従五位下・伊勢守に叙任された。文化12年(1815年)12月に元老中首座の松平定信の娘を正室とし、翌文化13年(1816年)11月21日、父の隠居により跡を継いた。 |
| 諏訪忠誠 | |
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天保11年(1840年)、父の隠居に伴い家督を相続した。外祖父の松平定信は忠誠の人となりを見て、将来有望であると太鼓判を押した。その予想通り、万延元年(1860年)若年寄,文久2年(1862年)寺社奉行,元治元年(1864年)には老中に就任する。 |