新羅王朝

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智証王 法興王

 新羅には殉葬の風習が残っており、先代の王の炤知麻立干の死に当たっても男女5人が殉葬されていたが、502年3月に以後の殉葬を禁止することとした。503年10月には群臣の上奏を受けて、斯羅・斯盧・新羅などと称していた国号を新羅に、居西干・次次雄・尼師今・麻立干などと称した君主号を王にそれぞれ統一し、正式に新羅国王と号することとした。
 506年には国内の州郡県制を定めるとともに悉直州(現在の江原道三陟市)を置き、地方軍主の官を設けて異斯夫を登用した。後に異斯夫を何瑟羅(江原道江陵市)軍主に任じ、于山国(鬱陵島)を服属させた。
 509年には王都金城に東の市場を開かせ、前後して市場を管理する市典(東市典)の官を設けた。また、514年1月には阿尸村(慶尚南道咸安郡)に小京を置いて六部や南方からの入植を奨励し、小京の充実を図った。
 在位15年にして514年7月に死去し、智証と諡された。新羅の諡はこの智証麻立干(智証王)代に始まるとされる。

 数々の国家制度の整備に努めた。517年に「兵部」を設置し、520年には官位制度を整えるとともに、官職ごとに公服とその色彩の序列を定めるなど、律令による政治を敷こうとしたとされる。後に531年には17等の京位のさらに上に、すべての国政を司る「上大等」の官位を設けた。また、536年には新羅独自の年号をはじめて定めて建元と称するなど、前代よりもさらに王権の強化を果たしたことが伺える。
 対外的には521年に、百済に伴われて梁に対して朝貢を行い、百済との好関係(羅済同盟)を背景に伽耶方面への勢力拡張を図った。522年には伽耶国王が通婚を求めてきたことに対し、比助夫の妹を送ってこれに応えたが、532年には金官国を滅ぼした。投降してきた金官国王金仇亥の一族は王都に移住させたが、本国を食邑として安堵したとともに、こののち準王族的に優遇したという。なお、金仇亥の末子の金武力が新羅に仕えて昇進したように服属させた周辺小国の王を貴族階級に取り入れていくことは、新羅の対外伸張政策の特徴であった。ちなみに、金武力の孫に、三国統一の大功を挙げる金庾信が現れることとなる。
 528年には貴族層の反対を押し切って仏教の公認を行ない、さらに534年には興輪寺の建立を開始し、仏教を広めることにも努めた。殺生を禁じたこと、また王妃が王の死後に出家して法流と号し永興寺に住んだことなどが伝えられる。

真興王 文武王

 真興王の治績として特筆されるものは、積極的な対外戦争と領土拡張である。541年より百済との同盟関係を保ち、548年に高句麗が百済に攻め込んだときには百済を助けたが、550年の高句麗と百済との交戦の時には異斯夫を派遣し、両国間の係争地である道薩城及び金峴城を奪い取った。551年には居柒らを派遣して高句麗領に侵入し、竹嶺付近の10郡を奪った。553年には百済が高句麗から取り戻したばかりの漢山城を含む一帯を奪い、漢江流域に新州を設置した。このことにより百済との関係は悪化し、554年には百済は聖王が伽耶と連合して管山城に攻め入ったが、新羅は逆に聖王を戦死させ、百済と伽耶の連合軍2万9千600を殲滅した。562年には異斯夫と斯多含とを派遣して伽耶を滅ぼし、洛東江下流域を制圧した。この伽耶の滅亡によって、朝鮮半島南東部はすべて新羅の領域となり、文字通りの三国時代となった。
 このほか、仏教保護や国史編纂にも努めた。

 百済を平定した唐がその余勢をかって高句麗に進軍(唐の高句麗出兵)し始めた頃、661年6月に武烈王が死去し金法敏は即位した。唐からは直ちに高句麗討伐軍に呼応することを求められ、文武王は金庾信らに命じて唐軍のいる平壌へ食糧を補給し、全面的に支援をする構えを保った。このときの高句麗は唐の攻撃に耐え、唐軍は食糧を受け取ると戦いを収めて帰国していった。この間662年には唐から<開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王>に冊封された。
 663年5月からは百済の旧将の鬼室福信らが王族の扶余豊璋を迎えて百済復興の大規模な反乱を起こし、百済・倭国の連合と唐・新羅の連合との間に白村江の戦いが行なわれたが、この戦いにおいて倭国の水軍を壊滅させ、百済の再興の望みを断ち切ることになった。666年4月には唐に対して高句麗討伐の出兵を求め、唐は李勣を遼東道行軍大摠管に任命して高句麗への攻撃が開始された。668年になって新羅も唐軍に合流して平壌の長安城を攻め、同年9月21日に高句麗を滅ぼすことに成功した。
 百済・高句麗を滅ぼした後に直ちに半島統一ができたわけではなく、新羅の勢力だけでは唐への対抗が難しいことに気付いた文武王は、百済・高句麗両国の遺民を取り込んで新羅の身分制度を再編することにも努めた。高句麗移民に対しては安勝を保護して高句麗王、次いで報徳王として新羅の配下に冊封していたが、680年には文武王の妹を安勝に降嫁させて新羅・高句麗の王家の結合を図り、旧の三国が一体となるように努めた。
 在位21年にして681年7月1日に死去し、文武王と諡された。王自身のかねてからの遺詔によって、新羅では初めて火葬された王となり、骨壷は日本海の浜辺の大石の上に葬られた。

神文王 宣徳王

 即位直後に、唐からは父文武王の官爵である<開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王>を引き継ぐことを許された。一方国内では即位から一月と経たないうちに、王妃の父である金欽突や金興元らの王族や文武王時代の上大等であった軍官らが反乱を謀ったとして、これらを誅殺した。反乱鎮圧の2ヵ月後には王宮警護として将軍6人を配置しており、中央貴族勢力の抑圧と王権の強化を図っての粛清劇と考えられている。
 684年11月には報徳国の置かれた金馬渚で安勝の一族の将軍が反乱を起こしたため、神文王は報徳国を滅ぼし、名実ともに新羅による半島の統一支配が完成した。
 また、687年4月には父の文武王,祖父武烈王,曽祖父文興葛文王(金龍春),高祖父真平王,及び太祖大王(金氏王統の始祖である13代味鄒尼師今)の祖廟を祭る五廟の制度を整備し、儒教理念の明確化による内政の安定を図った。
 そのほか、中央官庁の整備、地方統治制度の確立を成し遂げ、692年7月2日に在位12年で死去した。

 恵恭王の10年774年9月に上大等に任命された。当時の新羅の貴族の間では、王の下で律令訂正を推進しようとする党派と、王権を抑えて中央貴族連合体制に復帰しようとする党派とで争いを繰り返しており、769年の貴族連合派の反乱、770年の律令派の反乱が平定されたところであった。良相が上大等に着任した後にも775年6月・8月に貴族連合派の反乱が起こっており、鎮圧されてもいる。王権が伸張したために抑えられがちにあったとはいえ、上大等の立場は貴族連合を代表するものであり、良相はこうした立場から777年4月には王に政治批判の上書を行なった。恵恭王は貴族連合派に配慮する形で、王族から金周元を侍中に任命して律令派と貴族派との提携を図ったが、780年2月に再び貴族の反乱が起こって王宮を包囲することになった。この反乱に対して良相は伊飡の金敬信(後の元聖王)とともに挙兵し、反乱を平定するとともに恵恭王までも殺害し、自ら王位に立つこととなった。
 即位して直ちに宣徳王は金敬信を上大等に任命し、782年閏正月には唐に対して朝貢を行なった。勢力を強めている渤海に備え、北方面の守備に努め、781年7月には浿江(大同江)以南の地に使者を送って安撫し、また782年2月には漢山州(京畿道広州市)の住民を浿江鎮(黄海北道平山郡または金川郡)へ移住させている。
 祭祀においては、王系の変革となったために自らの父を開聖大王として追封して五廟を保ち、また社稷の壇を築いたことが伝えられている。

元聖王

 宣徳王が子を儲けないままに死去し、群臣は初め武烈王五世孫の金周元を推戴しようとしたが、周元が大雨に遭って王城入りできない間に敬信が王城に王位を継いだ、と伝えられている。『三国史記』新羅本紀では、この大雨は周元の即位を天が望まないためと解し、改めて王の推戴を審議して敬信を選出することになり、敬信が即位すると雨が止んだ、即ち天意に適ったと伝える。
 即位後直ち(785年2月)に自身の祖先への追封を行ない、五廟を再整備した。788年には官吏登用の制度として、科挙に類似する「読書三品」を定めたように、儒教的・律令体制的な政策を打ち出した。また、度々の天災により民が餓えることがあったが、律令体制の下で貢納された租粟を振舞って民の救済を行なっている。恵恭王の末年以来の政治的混乱の収拾に努めたが、こうした天災が続いたこともあって、788年秋には国の西部で盗賊が現われ、791年には元の侍中の悌恭が反乱を起こして誅殺されるなど、決して安定した政治が行なわれたわけではなかった。
 唐に対しては786年に使者を派遣して貢納し、徳宗からは新羅の長年の忠勤を慰撫する詔書をいただいている。また、宣徳王に与えられた官爵〈検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王〉をそのまま引き継いだ。
 794年7月には奉恩寺を建て、王宮の西には望恩楼を築いた。在位14年目の貞元14年12月29日(799年2月8日)に死去し元聖王と諡された。遺詔により、奉徳寺の南で火葬されたという。