SRG1:新羅王朝1 | 新羅王朝1 ― 新羅王朝2 | SRG2:新羅王朝2 |
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智証王 | 法興王 |
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新羅には殉葬の風習が残っており、先代の王の炤知麻立干の死に当たっても男女5人が殉葬されていたが、502年3月に以後の殉葬を禁止することとした。503年10月には群臣の上奏を受けて、斯羅,斯盧,新羅などと称していた国号を新羅に、居西干,次次雄,尼師今,麻立干などと称した君主号を王にそれぞれ統一し、正式に新羅国王と号することとした。 |
数々の国家制度の整備に努めた。517年に「兵部」を設置し、520年には官位制度を整えるとともに、官職ごとに公服とその色彩の序列を定めるなど、律令による政治を敷こうとしたとされる。後に531年には17等の京位のさらに上に、すべての国政を司る「上大等」の官位を設けた。また、536年には新羅独自の年号をはじめて定めて建元と称するなど、前代よりもさらに王権の強化を果たしたことが伺える。 |
真興王 | 文武王 |
真興王の治績として特筆されるものは、積極的な対外戦争と領土拡張である。541年より百済との同盟関係を保ち、548年に高句麗が百済に攻め込んだときには百済を助けたが、550年の高句麗と百済との交戦の時には異斯夫を派遣し、両国間の係争地である道薩城及び金峴城を奪い取った。551年には居柒らを派遣して高句麗領に侵入し、竹嶺付近の10郡を奪った。553年には百済が高句麗から取り戻したばかりの漢山城を含む一帯を奪い、漢江流域に新州を設置した。このことにより百済との関係は悪化し、554年には百済は聖王が伽耶と連合して管山城に攻め入ったが、新羅は逆に聖王を戦死させ、百済と伽耶の連合軍2万9千600を殲滅した。562年には異斯夫と斯多含とを派遣して伽耶を滅ぼし、洛東江下流域を制圧した。この伽耶の滅亡によって、朝鮮半島南東部はすべて新羅の領域となり、文字通りの三国時代となった。 |
百済を平定した唐がその余勢をかって高句麗に進軍(唐の高句麗出兵)し始めた頃、661年6月に武烈王が死去し金法敏は即位した。唐からは直ちに高句麗討伐軍に呼応することを求められ、文武王は金庾信らに命じて唐軍のいる平壌へ食糧を補給し、全面的に支援をする構えを保った。このときの高句麗は唐の攻撃に耐え、唐軍は食糧を受け取ると戦いを収めて帰国していった。この間662年には唐から<開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王>に冊封された。 |
神文王 | 宣徳王 |
即位直後に、唐からは父文武王の官爵である<開府儀同三司・上柱・楽浪郡王・新羅王>を引き継ぐことを許された。一方国内では即位から一月と経たないうちに、王妃の父である金欽突や金興元らの王族や文武王時代の上大等であった軍官らが反乱を謀ったとして、これらを誅殺した。反乱鎮圧の2ヵ月後には王宮警護として将軍6人を配置しており、中央貴族勢力の抑圧と王権の強化を図っての粛清劇と考えられている。 |
恵恭王の10年774年9月に上大等に任命された。当時の新羅の貴族の間では、王の下で律令訂正を推進しようとする党派と、王権を抑えて中央貴族連合体制に復帰しようとする党派とで争いを繰り返しており、769年の貴族連合派の反乱、770年の律令派の反乱が平定されたところであった。良相が上大等に着任した後にも775年6月・8月に貴族連合派の反乱が起こっており、鎮圧されてもいる。王権が伸張したために抑えられがちにあったとはいえ、上大等の立場は貴族連合を代表するものであり、良相はこうした立場から777年4月には王に政治批判の上書を行なった。恵恭王は貴族連合派に配慮する形で、王族から金周元を侍中に任命して律令派と貴族派との提携を図ったが、780年2月に再び貴族の反乱が起こって王宮を包囲することになった。この反乱に対して良相は伊飡の金敬信(後の元聖王)とともに挙兵し、反乱を平定するとともに恵恭王までも殺害し、自ら王位に立つこととなった。 |
元聖王 |
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宣徳王が子を儲けないままに死去し、群臣は初め武烈王五世孫の金周元を推戴しようとしたが、周元が大雨に遭って王城入りできない間に敬信が王城に王位を継いだ、と伝えられている。『三国史記』新羅本紀では、この大雨は周元の即位を天が望まないためと解し、改めて王の推戴を審議して敬信を選出することになり、敬信が即位すると雨が止んだ、即ち天意に適ったと伝える。 |