新羅王朝1 | SRG1:新羅王朝1 |
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天日槍 | 田道間 守 |
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伝説上の人物。『三国史記』が伝える建国神話によれば、慶州盆地に箕子朝鮮からの移民が住む6つの村があり、その六村が卵から生まれた赫居世を王に推戴したのが新羅の始まりであるという。 |
昔氏初代は脱解(第4代脱解尼師今)である。『三国史記』によれば、倭国東北一千里のところにある多婆那国(現在の但馬・丹波地域に比定される)の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生んだが、多婆那王は不吉であるとして卵を捨てるように命じた。王妃は捨てるに忍びず、絹の布で卵を包み、宝物と共に箱に入れて海に流した。その後金官国に流れ着いたが、金官国の人々は警戒してこれをとりあげなかった。次いで辰韓の阿珍浦に流れ着き、そこに住んでいた老婆が箱を拾って開けると、中から一人の男の子が出てきたので、育てることにした。男の子は成長するに従い身長九尺にもなり神の如き風格を備えた。姓氏がわからなかったので、ある人が、箱が流れ着いたときに鵲がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」と名付けるのが良いとした。学問を身に着けた脱解は瓠公の邸宅を見て吉兆の地であると判断し、相手を騙して土地を取り上げた。これが後の新羅の拠点である月城になった。新羅の第2代王南解は脱解が賢者であるのを見て娘(阿孝夫人)を与え、第3代の儒理王は死に際して脱解に後事を託した。こうして脱解が王となった。 |
金 閼智 | 金 味鄒 |
脱解の治世に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞こえたので、夜明けになって瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。報告を受けた脱解が役人に小箱を回収させ開かせると、中から小さな男の子が現れた。容姿が優れていたので脱解は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。また、このことに合わせて始林の地を鶏林と改名した。後に金氏が新羅王となると、その始祖である閼智にちなんで国号も鶏林とした。 |
百済との戦いが記録に残るが、いずれも戦勝を収めている。266年8月に烽山城(慶尚北道栄州市)が攻められたが、城主の直宣がこれを敗走させた。この功績を称え、直宣を一吉飡(7等官)に引き立てるとともに、城の兵卒にも褒美を与えた。278年10月に、再び百済が侵入してきて槐谷城(忠清北道槐山郡)を包囲したが、波珍飡(4等官)の正源が撃退した。283年9月にも百済は新羅に攻め入り、10月には槐谷城を包囲したが、一吉飡の良質がよく防いだという。 |
朴 赫居世 | 昔 脱解 |
アメノヒボコ伝説は『日本書紀』『古事記』のうちで代表的な渡来伝承になるが、一般には1人の歴史上の人物の説話ではなく、渡来人集団をアメノヒボコという始祖神に象徴した説話ではないかという考えもある。 アメノヒボコ(天日槍/天之日矛)の名称自体も日本名(もしくは新羅名)であり、出石地域を中心とする渡来系一族(出石族)が奉斎した「日矛/日槍」を人格化したことに由来する意見もある。この氏族の渡来の時期は定かでなく、出石神社が弥生遺跡の中心地に位置することや蹴裂による開拓伝承の存在から農耕伝来の時期とする説がある一方、『日本書紀』の「陶人」という記述から須恵器生産の始まる5世紀以降と推測する説がある。 |
『日本書紀』垂仁天皇3年条では天日槍の玄孫で清彦の子とする。一方『古事記』応神天皇段では、天之日矛(天日槍)の玄孫は同じながら多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子とし清日子(清彦)の兄とする。 |