SRG2:新羅王朝2 | 新羅王朝1 ― 新羅王朝2 ― 新羅王朝3 | SRG3:新羅王朝3 | ● |
リンク |
元聖王 | 哀荘王 |
---|---|
宣徳王が子を儲けないままに死去し、群臣は初め武烈王五世孫の金周元を推戴しようとしたが、周元が大雨に遭って王城入りできない間に敬信が王城に王位を継いだ、と伝えられている。『三国史記』新羅本紀では、この大雨は周元の即位を天が望まないためと解し、改めて王の推戴を審議して敬信を選出することになり、敬信が即位すると雨が止んだ、即ち天意に適ったと伝える。 |
803年には日本とも国交が再開されたが、両国の交渉について『三国史記』が哀荘王4年(803年)7月「国交を開き通好した」、5年(804年)5月「日本から黄金300両が進上された」、7年(806年)3月「日本国の使者が至ると、朝元殿で引見した」、9年(808年)2月「日本国の使者を厚くもてなした」という4例を伝えるのに対し、『日本後紀』は延暦23年(804年)9月己丑条で「大伴宿禰岑万里を新羅に遣わした」の1例を伝えるのみである。 |
景哀王 | 敬順王 |
924年に即位したが、既に新羅は末期状態であり、高麗・後百済の勢力に挟まれて領土は削られる一方であった。景哀王は、高麗と同盟を結び勢力回復を目指した。 |
最後の新羅王。姓は金、諱は傅。第46代文聖王の6世孫にあたる。927年、後百済王の甄萱により景哀王が殺害された後、敬順王は甄萱により王位に就けられたが、各地に群雄が割拠し、領土が日に日に少なくなると、高麗に国土を譲渡することを決定し、935年高麗に降伏し、妹を太祖の妃に差し出した。 |