新羅王朝

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元聖王 哀荘王

 宣徳王が子を儲けないままに死去し、群臣は初め武烈王五世孫の金周元を推戴しようとしたが、周元が大雨に遭って王城入りできない間に敬信が王城に王位を継いだ、と伝えられている。『三国史記』新羅本紀では、この大雨は周元の即位を天が望まないためと解し、改めて王の推戴を審議して敬信を選出することになり、敬信が即位すると雨が止んだ、即ち天意に適ったと伝える。
 即位後直ち(785年2月)に自身の祖先への追封を行ない、五廟を再整備した。788年には官吏登用の制度として、科挙に類似する「読書三品」を定めたように、儒教的・律令体制的な政策を打ち出した。また、度々の天災により民が餓えることがあったが、律令体制の下で貢納された租粟を振舞って民の救済を行なっている。恵恭王の末年以来の政治的混乱の収拾に努めたが、こうした天災が続いたこともあって、788年秋には国の西部で盗賊が現われ、791年には元の侍中の悌恭が反乱を起こして誅殺されるなど、決して安定した政治が行なわれたわけではなかった。
 唐に対しては786年に使者を派遣して貢納し、徳宗からは新羅の長年の忠勤を慰撫する詔書をいただいている。また、宣徳王に与えられた官爵〈検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王〉をそのまま引き継いだ。
 794年7月には奉恩寺を建て、王宮の西には望恩楼を築いた。在位14年目の貞元14年12月29日(799年2月8日)に死去し元聖王と諡された。遺詔により、奉徳寺の南で火葬されたという

 803年には日本とも国交が再開されたが、両国の交渉について『三国史記』が哀荘王4年(803年)7月「国交を開き通好した」、5年(804年)5月「日本から黄金300両が進上された」、7年(806年)3月「日本国の使者が至ると、朝元殿で引見した」、9年(808年)2月「日本国の使者を厚くもてなした」という4例を伝えるのに対し、『日本後紀』は延暦23年(804年)9月己丑条で「大伴宿禰岑万里を新羅に遣わした」の1例を伝えるのみである。
 文化面では、802年には順応・利貞らの高僧に命じて伽耶山に海印寺を創建させた。804年には、かつて文武王が王城に築いた雁鴨池の畔の臨海殿を修復し、さらに東宮に万寿房を創建した。しかし、806年には以後の仏寺の創建を禁止して、修繕のみを認めるという教書を出し、あわせて錦繍を仏事に用いたり金銀の器具を製作することを禁じる布告も行なっている。
 在位10年目の809年7月、摂政の金彦昇(後の憲徳王)が悌邕とともに反乱を起こし、哀荘王は王弟の体明侍衛とともに殺害された。

景哀王 敬順王

 924年に即位したが、既に新羅は末期状態であり、高麗・後百済の勢力に挟まれて領土は削られる一方であった。景哀王は、高麗と同盟を結び勢力回復を目指した。
 しかし、927年に鮑石亭で宴会をしている最中に、後百済の甄萱に首都の金城を奇襲され、甄萱の兵は宮城で略奪を行い、景哀王は拉致された上で自殺させられた。

 最後の新羅王。姓は金、諱は傅。第46代文聖王の6世孫にあたる。927年、後百済王の甄萱により景哀王が殺害された後、敬順王は甄萱により王位に就けられたが、各地に群雄が割拠し、領土が日に日に少なくなると、高麗に国土を譲渡することを決定し、935年高麗に降伏し、妹を太祖の妃に差し出した。
 しかし敬順王の太子は高麗への降伏に反対し、金剛山に入って一生を終えた。金剛山で太子は麻の衣を纏い、草食をして暮らしたとされ、麻衣太子と呼ばれている。
 高麗の太祖王建は、敬順王に長女の楽浪公主を嫁して正承公に封じ、地位は太子の上とした。また慶州を食邑として与え、そこの事審官に任命した。高麗第5代王景宗は、敬順王の娘を妃としている。