<神皇系氏族>天孫系

OE09:長井時広  土師身臣 ― 大枝諸上 ― 大江千古 ― 大江匡房 ― 大江広元 ― 長井時広 ― 福原広世 OE10:福原広世

リンク {OE14}{F016}{F671}{G207}
福原広世 福原朝広

 毛利元春の5男として生まれた。広世は備後の国人で、同じく大江広元を家祖とする長井氏の当主・長井貞広の養子となっていたが、養父の貞広は九州探題・今川了俊に従って九州を転戦中の天授元年/永和元年(1375年)に筑後で討死。そのため広世が長井氏の家督を相続して、当主となった。
 父・元春は弘和元年/永徳元年(1381年)に所領を兄の毛利広房に譲り、隠居したと推測される。長井氏当主となっていた長井広世にも安芸福原村等を与えられた。この後、広世は拠点を福原に移し、鈴尾城を構えて居城とした。
 応永6年(1399年)の大内義弘の反乱(応永の乱)で、義弘が堺で討死の後、周防・長門両国を守っていた大内盛見を討伐させるべく、3代将軍・足利義満は西国の国人に支援を要請した。この時、足利義満は広世を毛利氏の総領家として認めて、大内攻撃に従事させた。また、今川了俊の覚えもめでたかったため、安芸三入庄も与えられるに至った。しかし広世は、甥の毛利光房が成長すると総領家を返上して、その補佐に務めた。応永21年(1414年)、嫡男・朝広に所領を譲った。応永25年(1418年)、毛利光房の子・小法師丸を援助し誓文を受けた。 

 応永21年(1414年)、父・広世から家督を継ぐ。応永26年(1419年)、毛利宗家と一族の庶家が対立した際に、朝広は父の広世とともに毛利光房が留守中の吉田郡山城に籠る小法師丸を保護し、庶家一族の攻撃を防いだ。その後も朝広は他の庶家と毛利宗家との対立の中で、終始毛利宗家に協力し、絶対の信頼関係を築くことに成功した。
福原広俊(8代) 福原広俊(10代)

 安芸毛利氏の一族である安芸福原氏8代当主。福原朝広の子として誕生。毛利興元と毛利元就の外祖父にあたる。
 広俊は毛利光房の孫である毛利豊元に兄と呼ばれるほど信任を受け重用され、同じく毛利氏庶流の坂氏と協力し麻原氏らの勢力を弱めることに成功した。豊元が夭折した後は毛利弘元の外戚となり、毛利家における福原氏の地位を不動のものにした。弘元に嫁いだ娘は興元と元就を生んでいる。
 応仁の乱では西軍の山名氏に協力し、小国郷の地頭職を与えられた。長享元年(1487年)に跡目を子の貞俊に譲っている。死亡時期は永享3年(1431年)5月6日とするものがあるが、以上の経歴と矛盾することから、干支が同じ辛亥である延徳3年(1491年)に比定されている。

 安芸福原氏の第10代当主。 毛利興元・元就兄弟の従兄弟にあたる。
 毛利家の筆頭家老をつとめ、毛利元就の家督相続において、他の14人の宿老(署名順に中村元明,坂広秀,渡辺勝,粟屋元秀,赤川元助(元保),井上就在,井上元盛,赤川就秀,飯田元親,井上元兼・元貞兄弟,井上元吉,桂元澄,志道広良)と共に起請文に署名した際に、筆頭として署名している。また、娘を各地の有力者に次々と嫁がせ、毛利家における福原氏の立場をさらに強化した。天文9年(1540年)、出雲国の尼子氏が安芸国に侵攻してきた際には、子の福原貞俊を郡山城に派遣し、自身は居城である鈴尾城に篭城し奮戦した。弘治3年(1557年)、死去。
 なお、広俊の次男の元正は、元就の次男・元春が吉川氏へ養子に入った際、家臣団の筆頭として同行し、吉川氏一族の宮庄氏を相続している。

福原貞俊 福原元俊(12代)

 安芸福原氏11代当主。福原貞俊(9代当主)の孫にあたり、それに肖って貞俊と名乗る。生年は永正16年(1519年)説もある。
 曽祖父・広俊の娘が毛利弘元の正室となっており、毛利興元や毛利元就を産んでいる。父の広俊も元就に家督相続を打診するなど、毛利家中での発言力は大きかった。貞俊も早くから毛利元就に仕えて各地を転戦し、天文19年(1550年)、それまでの功績や誠実な性格を元就に信頼されて毛利氏における筆頭重臣にまで取り立てられた。
 弘治元年(1555年)の厳島の戦いの後に、毛利氏が大内領への侵攻作戦である防長経略でも、長門且山城を囲んで内藤隆世と大内義長を自害に追い込んでいる。その後も小早川隆景らと共に瀬戸内海を中心に軍事行動を展開し、永禄10年(1567年)からの毛利氏の伊予出兵や、永禄12年(1569年)の大内輝弘の乱でも主力を率いて活動している。
 元就の死後は毛利輝元を補佐し、吉川元春,小早川隆景,口羽通良と共に四人衆(御四人)と称された。主な任務としては、隆景を補佐し共に山陽・瀬戸内方面の政治や軍事を担当した。天正12年(1584年)、高齢を理由として嫡男の元俊に家督を譲って隠居し、文禄2年(1593年)8月10日に死去。享年82または75。子孫は江戸時代の長州藩においても、一門家老として重用されている。  

 安芸福原氏の12代当主。元服時に当時の主君(毛利氏当主)であった毛利隆元より偏諱を受けて元俊と名乗る。永禄6年(1563年)に隆元が急死してからもその子・毛利輝元およびその後見役にあった隆元の父・毛利元就に仕えた。
 天正16年(1588年)7月、豊臣秀吉より豊臣姓を賜る。また、翌年には嫡子の広俊も豊臣姓を賜る。しかし、天正19年(1591年)10月に病没する。没年齢については『萩藩閥閲録』では51歳、『福原家系譜』では44歳とある。

福原広俊(13代) 福原元俊(14代)

 毛利輝元に仕え、天正19年(1591年)に家督を継承する。吉川広家と共に家中で重きをなし、朝鮮出兵に力を発揮した。関ヶ原の戦いにおいては西軍に味方した毛利氏の断絶を防ぐため、広家・宍戸元続・益田元祥・熊谷元直と談合の上で徳川家康に内通、領国安堵の約束を取り付けたが、戦後約束は反故にされ、輝元が減封されると広俊も本領を維持できず、以後は長門吉敷の地を領した。輝元は隠居したため、嫡男で幼少の秀就を広家・益田元祥・毛利秀元と共に支えた。
 江戸において江戸幕府との折衝にあたり、毛利氏の居城の場所選定を本多正信・正純父子と話し合い(結果は萩城に決定)、慶長11年(1606年)の江戸城普請を担当するなど幕府との関係維持に腐心、長州藩内部の問題解決にも尽力、萩城築城中に起きた熊谷元直粛清事件(五郎太石事件)で藩内の動揺を鎮め、藩の政策決定にも関わっている。また、大坂の陣に際して佐野道可事件が発覚すると処理に奔走、元和2年(1616年)に国許へ戻り、元和8年(1622年)に嫡男の元俊に家督を譲り隠居した。 翌9年(1623年)に死去。子孫は代々長州藩の家老を務めた。 

 初めの主君・毛利輝元より偏諱を受け、初め元光、後にそれまでの福原氏の通字により元俊と改名。元和8年(1622年)、父・広俊の隠居により家督相続。藩主・毛利秀就に家老として仕えた。元和9年(1623年)、藩主秀就から国政改革についての命を受ける。寛永2年(1625年)、家臣の知行再編により、当時執政だった毛利秀元が自身と親しい一門を街道の要地に再配置したため、吉敷郡吉敷から、厚狭郡宇部村に知行替えとなる。旧領吉敷には秀元の妹の子・毛利元包が入った。以降、福原家は代々長州藩永代家老・宇部領主を務め明治を迎える。承応2年(1653年)8月9日死去。  
福原房純 福原元僴

 明和9年(1772年)、徳山藩第7代藩主・毛利就馴の庶長子・馴倫として生まれる。正室に弟・徳太郎(毛利広鎮)が生まれると、妾腹のため次男とされる。寛政3年(1791年)、宗家家老・福原就清の養子となり、家督を相続、名も福原俊朋に改める。後に藩主・毛利斉房からの偏諱を賜り、房俊,房純に改名。
 寛政9年(1797年)、領内真締川の河川改修工事を行う。寛政12年(1780年)、御国加判役(家老)を仰せつかる。享和2年(1802年)、第8代藩主・毛利重就の孫・房昌を養子に迎える。文化11年(1814年)、房昌が藩主・毛利斉熙の養子となり藩主家に戻ったため、実子の繁次郎(熙賢)を嫡子と定める。文政元年(1818年)6月、当職(国家老・執政)となる。文政7年(1824年)、当職辞任。天保7年(1836年)1月2日没。享年65。その直後の10日に嫡男の熙賢も没したため、家督は嫡孫の勝三郎(親俊)が相続した。  

 毛利広鎮の6男のため家督を継ぐことはできず、12歳の頃に長州藩寄組・佐世親長(益田就恭の実弟)の養子となる。「元」の字はこの頃の藩主・毛利斉元から偏諱を受けたものと推測される。
 嘉永4年(1851年)、家老に昇進するが、大名の子の養子先としては家格が低すぎることから、安政5年(1858年)に藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄の福原親俊の家督を継承した。
 万延元年(1860年)に国家老として藩主・毛利慶親(後の敬親)を補佐し、尊王攘夷運動を推進する。文久3年(1863年)に廃止された最後の当職(財務を統括する家老職)を務めており、当職廃止後も加判役として藩政の中枢に残った。航海遠略策の進言・藩是転換(奉勅攘夷・破約攘夷の提案・実行)などの政策で責任者のひとりであった可能性が高い。
 同年、8月18日の政変で長州藩が京都から追放されると、元治元年(1864年)に来島又兵衛や久坂玄瑞らと協力して挙兵し、上京して禁門の変を引き起こした。元僴は伏見長州藩邸に布陣した長州藩主力軍の総大将として伏見街道を進むが、途中で交戦した大垣藩勢の銃撃で負傷、敗退して帰国した。
 その後、幕府による第1次長州征伐が起こると、藩内では保守派である俗論党が主導権を掌握してしまう。元僴は禁門の変で敗れて逃げ戻ったという経緯があったため、保守派の意向に逆らうことができず、西郷隆盛の要求により国司親相・益田親施と共に禁門の変、並びに長州征伐の責任を取る形で、同年11月12日に岩国の龍護寺で自害した(享年50)。首級は他の家老らの首級と共に幕府側に送られた。
 慶応2年(1866年)8月に罪状焼棄の命が下り、藩主に背いた不忠不義との汚名は破棄され、11月に完成した維新招魂社(現・宇部護国神社)の主神として遷座された。寡黙で果断、温厚でもあり、幕末初期の長州藩政を見事に運営した名臣として、高く評価されている。

福原良通 福原元勝

 長州藩の上級藩士・粟屋親睦の次男として生まれるが、子のなかった宇部領主・福原元僴の養嗣子となった。翌元治元年11月12日(1864年12月10日)に養父の元僴が禁門の変の責任を取り自害すると、家名は断絶となった。福原姓を憚り、福原氏発祥の城である鈴尾城から名字を取り、鈴尾五郎と名乗った。後に藩主毛利敬親より一字を与えられ鈴尾親徳と称する。慶応元年(1865年)、干城隊を組織してその総督となった。慶応3年(1867年)、藩命により大英帝国リンカーン法曹院へ留学、日本人として初めて法廷弁護士の資格を得て、明治元年には復姓した。明治7年に帰国して、明治4年より元山口藩石炭局主任の福井忠次郎が設立した炭鉱会社により独占されていた厚狭郡内の採鉱権を、私財を投げ打って買い戻した。
 明治9年(1876年)司法小丞、明治11年(1878年)には大坂裁判所判事。明治14年(1881年)、大審院詰となる。しかし、翌15年(1882年)に36歳で死去した。墓所は東京都台東区谷中霊園にあったが、平成14年(2002年)改葬され、山口県宇部市小串の宗隣寺に移設された。

 享禄5年(1532年)7月13日に毛利氏の家臣団32名が、互いの利害調整を毛利元就に要請した連署起請文において、元勝は4番目に「福原中務少輔元勝」と署名している。
 天文13年(1544年)7月、尼子晴久は尼子国久とその子である誠久,敬久を総大将として備後国に侵攻し三吉広高を攻撃した。元就は元勝の甥にあたる福原貞俊と児玉就忠を大将とし、元勝,粟屋元堅,粟屋元良,井上光利,長屋吉親ら1000余を援軍として派遣。備後国の国人である上山広信もこれに加わった。しかし、同年7月28日、備後国双三郡布野において牛尾幸清や平野又右衛門らが率いる尼子軍と合戦するも大敗(布野崩れ)。この敗戦で福原貞俊と児玉就忠は重傷を負い、粟屋元堅,粟屋元良,井上光利,長屋吉親,荘俊正,上山広信らが戦死した。そして、元勝もこの戦いで壮烈な戦死を遂げている。 

福原就理

 初めは毛利元就に小姓として仕えたが、就理がまだ才鶴丸と名乗っていた頃から毛利氏当主である毛利隆元の嫡男・幸鶴丸(後の毛利輝元)の近習として仕えた。就理が生まれた福原氏は毛利氏本宗家をほぼ一貫して支えてきた有力庶家であり、将来の輝元権力を支える重要な勢力として福原氏の若者を輝元の側に配することが必要と考えた元就や隆元が、年齢や才能を考慮して、就理を輝元の近習に選んだと推測されている。
 弘治2年(1556年)8月29日には毛利隆元から安芸国西条熊野15石の地を知行地として与えられた。この時点で幼名の才鶴丸ではなく弥七郎と呼ばれていることから、弘治2年(1556年)以前に元服しており、元服の際には元就から「就」の偏諱を与えられて「就理」の諱と名乗ったとされる。
 永禄4年(1561年)10月11日に父・就俊が死去し、その後を継いだ。輝元が成長してからも就理は側近として仕え、毛利家中の知行割や書状の取次等を行っている。
 元亀2年(1571年)5月11日、毛利輝元から周防国熊毛郡嶋田庄において27石の地の内の7石を社役として除いた20石を給地として与えられ、元亀4年(1573年)1月1日に毛利輝元から「孫兵衛尉】の官途名を与えられた。天正15年(1587年)から実施された毛利領国内の惣国検地において、就理は検地奉行を務めた。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が長門国と周防国に減封されると、就理は度々江戸にも出仕しつつ、引き続き輝元に側近として仕えた。慶長15年(1610年)11月13日に70歳余で死去。子の福原元置が後を継いだ。