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毛利元就の次男。母は吉川国経の娘・妙玖。天文9年(1540年)、出雲国の尼子晴久が侵攻した際に行なわれた吉田郡山城の戦いにおいて、元服前ながら父の反対を押し切って出陣し、見事に初陣を飾った。 天文11年(1542年)から天文12年(1543年)にかけて行われた大内義隆の出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)において吉川氏当主の吉川興経が大内氏から離反した。翌年、大内義隆は、吉川興経の離反を受け、毛利元就に対して吉川領を与える旨の宛行状を発給した。これにより毛利氏と吉川氏が争うように仕向ける狙いがあったと推測されている。 そのような状況の天文12年(1543年)8月30日、兄・毛利隆元の加冠状を受けて14歳で元服し、「元」の偏諱を与えられて毛利少輔次郎元春と名乗った。元就は吉川興経との融和方針を改め、吉川氏の先々代当主・吉川国経の外孫かつ吉川興経の従弟にあたる元春を吉川氏へ入嗣させることに決めた。 元春の吉川氏相続が決まった天文16年(1547年)に熊谷信直の娘である新庄局と婚姻し、翌年には嫡男の鶴寿丸(後の吉川元長)が生まれている。天文17年(1548年)時点、未だに元春の日山城への入城は実現していない。これは、吉川興経が自らの形勢不利を見て一度は元春への家督譲渡に同意したものの、日山城に居座ることで尼子氏の支援による形勢逆転、あるいは、興経と元春の両派並立を狙っていた可能性が指摘されている。 実父・元就は興経の存在自体を危険視し、元春の舅となった熊谷信直や天野隆重に興経の隠居所襲撃を命じ、天文19年(1550年)9月27日に興経は子の千法師らと共に殺害された。これにより本来の吉川氏の嫡流は断絶することとなった。 弘治元年(1555年)、厳島の戦いにおいては吉川軍を率いて小早川軍と協力し、陶晴賢率いる大内軍を撃滅した。以後も元就の防長経略に協力し、弘治3年(1557年)4月に防長経略を完了させた元就は、永禄2年(1559年)2月に同盟相手である備中国の三村家親を助けるために隆元,元春,隆景らと共に備中国に出陣し、尼子氏の後ろ盾を得て三村家親と対立した庄為資を降伏させ、備中国をほぼ平定した。 永禄5年(1562年)、元春は胸部や腹部の激痛を伴う積聚の病(いわゆる癪)にかかり、毛利元就は則阿や少林寺、楊井武盛といった専従医ではない、領内の医師を動員して元春の治療にあたらせ、さらに京都の医師・大和晴元を新荘火ノ山城へ往診に向かわせ元春の治療にあたらせた。 永禄8年(1565年)、第二次月山富田城の戦いでは主力として参戦して武功を挙げ、永禄9年(1566年)に尼子義久を降伏せしめている。 永禄10年(1567年)9月4日、同年2月に元服したばかりの毛利輝元が元春に起請文を提出し、毛利隆元の代と同様に無二の馳走を元春に求めると共に、輝元と元春を離間しようとする虚言があった時には直接内談することを決めている。なお、一概には言えないが、このような起請文のやり取りでは下位者が先に上位者に対して起請文を提出するものである点を考えると、輝元が自ら辞を低くして元春に接しているといえる。 永禄12年(1569年)からは尼子氏再興を願う尼子家旧臣の山中幸盛ら率いる尼子再興軍と戦うことになる。元亀2年(1571年)には謀略を用いて尼子勝久の籠る末石城を攻撃。山中幸盛を捕虜とし、勝久を敗走させた。 元亀2年(1571年)、父・元就が死去すると、その跡を継いだ甥・毛利輝元(隆元の嫡男)を弟の隆景と共に補佐する役目を担った。 元春に敗れた尼子勝久らは、中央で勢力を拡大していた織田信長を頼り、その援助を背景にして抵抗を続けるようになる。また、天正4年(1576年)に最後の室町幕府将軍である足利義昭が毛利氏を頼って備後国鞆に下向すると、織田氏との対立は決定的となる。天正5年(1577年)からは織田信長の命を受けた羽柴秀吉率いる中国遠征軍が播磨国に侵攻すると、元春はこれを迎撃。天正6年(1578年)には尼子勝久や山中幸盛が籠る上月城を攻撃し、尼子勝久らは降伏し自刃。宿敵・山中幸盛も処刑され、尼子再興軍の動きを止めた(上月城の戦い)。 天正7年(1579年)以降、備前国の宇喜多直家の離反、伯耆国の南条元続の離反、三木城落城(別所長治は自害)、さらには豊後国からは大友宗麟が織田信長と呼応して毛利領に侵攻。天正9年(1581年)には因幡鳥取城で吉川一族の吉川経家が自刃するなど、毛利家は次第に劣勢となる。天正10年(1582年)、清水宗治らが立て籠る備中高松城が羽柴秀吉に攻撃されたため、元春は輝元・隆景らと共に救援に赴いた(備中高松城の戦い)。しかし、秀吉の水攻めによって積極的な行動に出ることができず、また秀吉も元春らと戦うことで被害が拡大することを恐れて迎撃しなかったため、戦線は膠着状態となる。 そのような中、6月2日に織田信長が明智光秀の謀反(本能寺の変)で死亡した。羽柴秀吉は本能寺の変を毛利側に隠しつつ、「毛利家の武将のほとんどが調略を受けている」と毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に知らせる。これで毛利側は疑心暗鬼に陥り、和睦を受諾せざるを得なかった。結果、備中高松城は開城し、清水宗治らは切腹。織田軍は備中国から撤退した。なお本能寺の変を伝える報せが毛利方にもたらされたのは秀吉撤退の日の翌日で、紀伊の雑賀衆からの情報であったことが、吉川広家の覚書から確認できる。『川角太閤記』によれば、元春は追撃を主張したが、隆景に制止されたという。一方で、『吉川家文書』では、両名が追撃は無謀であり、失敗すれば毛利は次こそ滅ぼされると懸念し、光秀討伐に引き返してゆく秀吉を見逃したと記述されている。 天正10年(1582年)末、家督を嫡男の元長に譲って隠居した。これは、秀吉に仕えることを嫌ってのことであるとされている。ただし、毛利氏は秀吉の天下取りに協力することとなる。天正14年(1586年)7月、豊臣秀吉は九州への出兵を決定。8月6日には黒田孝高と宮木宗賦が安芸国吉田に到着して、輝元に秀吉の命を伝えて九州出兵を促したため、輝元は8月10日に毛利軍の先陣が出陣し、8月16日に輝元が出陣することを決定した。一方の元春は既に隠居していたため、8月29日に代わりに長男の元長を新庄から輝元のもとへ出陣させた。しかし、元春が出陣していないことを知った秀吉が、輝元を介して元春の出陣を要請したため、最終的には元春も出陣を了承して9月24日に下関に着陣。元春の下関着陣を受けて、輝元、隆景、黒田孝高は元春と共に九州出兵の作戦を協議した。当時、豊前香春岳城主の高橋元種が島津氏に属して毛利氏に抵抗しており、香春岳城の支城で、門司城の西南3里に位置する小倉城の城兵が毎日のように門司城を攻撃していたことから、小倉城を攻め落とせば北九州の平定は容易であり、秋月種実や龍造寺政家も毛利方に味方するだろうと元春は判断し、輝元もこれに同調した。 10月4日に揃って小倉城を攻囲して降伏させた。小倉城には輝元と黒田孝高が入り、元春・元長父子と隆景は小倉城の南方1里に位置する牛房原に在陣した。小倉城陥落により毛利軍へ抵抗できないと判断した高橋元種は降伏したが、10月中旬の島津軍の北上により、一度は毛利氏に降伏した高橋元種も再び島津方に転じた。 高橋元種の再度の離反を受けて毛利輝元は、小早川隆景,吉川元長,吉川経言(後の吉川広家),小早川元総(後の小早川秀包)らに黒田孝高を同行させて高橋元種攻撃に向かわせたが、この時、元春は癰瘡の病により出陣せず、輝元と共に小倉城に在陣することとなる。11月15日に元春の容態が急変し、同日に小倉城二の丸の陣中において病死した。享年57。吉川経言は元春の葬儀の準備を担当することとなり、周防国山口の瑠璃光寺から華翁圭岳を小倉に招いて、共に元春の遺体を吉川氏の本拠である新庄に護送し、海応寺の境内に埋葬した。 尼子氏討伐の陣中で元春は『太平記』40巻を書写し、これは現在に『吉川本』として伝わっている。吉川本太平記は元春自身が書写したもので、現在は財団法人吉川報效会の所有となっており、岩国市の吉川史料館が保管している。太平記本文はカタカナ交じりで、古い形式を良く伝えている。
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天文17年(1548年)、吉川元春の嫡男として生まれる。その2年後に父母と共に小倉山城に入り、同年中に日野山城へと移った。ここで幼年期を過ごす。永禄3年(1561年)に伯父・毛利隆元の加冠により元服し、元資と名乗った。永禄8年(1565年)から始まる月山富田城の戦いにおいて、従兄弟の毛利輝元と共に初陣を飾った。その後も父・元春に従い、山陰各地で尼子残党との戦いを繰り広げている。 天正元年(1573年)に元長と改名し、父と共に山陰に出兵する。天正元年(1574年)には所領に万徳院を建立した。同年、因幡国に進出した尼子残党の征伐を行ったが、尼子残党は執拗に再起を繰り返した。しかし天正6年(1578年)の上月城の戦いで、尼子勝久や山中幸盛らは自刃もしくを処刑し、禍根を断つことに成功している。天正9年(1581年)には、織田信長方の羽柴秀吉に攻囲された吉川経家が籠る鳥取城の救援に向かったが、兵力の差のために手出しができず、元春率いる本隊を待ちきれずに鳥取城が降伏し、吉川経家は自刃した。 天正10年(1582年)、本能寺の変を契機として羽柴秀吉と毛利氏が和睦すると、秀吉への姿勢において毛利輝元・小早川隆景と元春の間に差が生じたため、元春は12月に隠居した。以後家督を継ぎ、天正13年(1585年)の四国攻めなどに出陣した。 天正14年(1586年)、父と共に秀吉の九州平定戦に出陣した。同年冬に元春が病のために小倉城にて死去すると、その後を追うように、天正15年(1587年)5月、出陣先の日向で病に倒れ、6月15日に日向都於郡で病死した。享年40。跡を弟の広家が継いだ。
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