| F008:入江維清 | 藤原武智麻呂 ― 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 入江維清 ― 吉川経義 | F015:吉川経義 |


| リンク | F016 |
| 吉川友兼 | 吉川朝経 |
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文治5年(1189年)の源頼朝に従い奥州合戦に出陣。その武勇を認められ、翌建久元年(1190年)、頼朝の初入洛にも従った。建久4年(1193年)の富士の巻狩りの警護役を務め、曾我兄弟の仇討ちに伴う混乱への対応にも当たった。 |
正治2年(1200年)の梶原景時一族追討の際に父・吉川友兼を失うも、亡父の功と本人の功を讃えられて加増され、梶原氏の所領であった播磨国福井荘の地頭に任ぜられた。仁治元年(1240年)に死去。嫡男である経光とは生年が僅か10年しか変わらないため、兄弟もしくは親戚筋からの養子の可能性もある。 |
| 吉川経光 | 吉川経高 |
| 延応2年/仁治元年(1240年)に父の吉川朝経が死去。当時の経光の年齢は49歳であり、それ以前に家督を相続していたと思われる。事実、吉川経光は承久3年(1221年)の承久の乱でも鎌倉幕府側として参戦しており(この時30歳)、京都の宇治橋の戦いにて戦功を挙げ、本領の駿河国吉河荘,播磨国揖保郡福井荘に加えて、安芸国大朝荘の地頭職に任ぜられた。 |
文永4年(1267年)に、父・吉川経光から家督を相続。この頃の吉川氏は本領の駿河国入江荘吉河だけではなく、安芸国大朝荘や播磨国福井荘にも所領を抱えていた。しかし、その管理が不十分であり、所領を横領される等の事件が相次いだ。そのため正和2年(1313年)、吉川経高は鎌倉幕府に所領の返還を求めた。その訴えが認められると、80歳近い老躯をおして、総領の経高は本領の駿河を離れ、安芸国大朝荘に移住した。中央情勢に左右されやすく、また弱小の御家人では関東近隣での生き残りが難しいと考えたためと推測される。 |
| 吉川実経 | 吉川経見 |
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吉川経長の子として生まれる。この頃の吉川氏宗家の当主は吉川経盛・吉川経秋であったが、勢力は弱く分家の石見吉川氏が勢力を拡大していた。実経は吉川氏宗家の主力として戦った。 |
安芸吉川氏の分家である石見吉川氏の出身で、建徳2年/応安4年(1371年)、石見における所領を相続する。武将としての器量に優れ、安芸国内における吉川氏の内紛を鎮圧し、安芸における吉川氏の所領のほとんどを併合してしまった。その実力から、男子のいなかった本家当主・吉川経秋より家督を継承し、九州探題・今川了俊に従軍して九州を転戦した。 応永10年(1403年)には、毛利光房,宍戸家秀,小早川義春,平賀貞宗,阿曽沼光郷,香川遠景らと南朝方となった熊谷直明の討伐を行い、直明を降伏させた。 |
| 吉川之経 | 吉川経基 |
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康正2年(1456年)、父の死去により吉川氏の名跡を継ぐ。安芸分郡守護・武田信賢と所領をめぐって争うが、小早川氏の仲介を受けて和解している。翌長禄元年(1457年)、周防・長門守護の大内教弘が厳島神主家との関係で武田信繁(信賢の父)の佐東銀山城を攻めた際には、管領・細川勝元の命を受けて毛利煕元ら安芸国人と共に信繁を支援して大内軍を撃退した(山本合戦)。その後、子の経基に実権を譲渡している。 |
長禄4年(1460年)、畠山政長とその一族・畠山義就との間での勢力争いが発生。経基は将軍・足利義政の命を受け、畠山政長を助ける。翌寛正元年(1461年)には山名是豊に従って出陣。畠山義就勢を河内国で打ち破る戦功を挙げた。 |
| 吉川元経 | 吉川興経 |
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長禄3年(1459年)、安芸国の国人・吉川国経の長男として生まれる。永正8年(1511年)の船岡山合戦には父と共に参陣。永正14年(1517年)、安芸武田氏当主・武田元繁が吉川領の有田城を攻撃すると、曽祖父・吉川之経の弟にあたる宮庄経友を派遣し、毛利元就との共同作戦によって武田元繁や熊谷元直らを討ち取った(有田中井手の戦い)。 |
永正5年(1508年)、または永正15年(1518年)、吉川元経の子として生まれる。大永2年(1522年)3月6日に父・元経が死去すると、幼少ながら家督を相続し、祖父・国経の後見を受けた。享禄4年(1531年)4月18日に祖父・国経が死去すると、興経自らが政務を担い始める。 |
| 吉川経世 | 市川経好 |
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安芸国の国人領主の一門であったが、後に毛利氏の家臣となる。兄の吉川元経、父の吉川国経が没した後、大永2年(1522年)に家督を継いで吉川氏当主となった甥の吉川興経を一門の重鎮として補佐することとなる。しかし、外様である大塩右衛門尉が興経に取り入って権力を濫用するようになり、当主の興経も尼子氏と大内氏の間で離反を繰り返し、吉川家中にも動揺と不満が広がっていくこととなる。 |
初めは吉川経好、平城経好と名乗り、後に市川経好と名字を改める。永正17年(1520年)、吉川経世の嫡男として生まれる。天文16年(1547年)、父・経世と共に従兄の吉川興経を廃して毛利元就の次男・元春を養嗣子に迎えるために尽力した。同年閏7月22日、父・経世,弟・今田経高と共にが連署の血判起請文によって、毛利元就,隆元,元春への忠誠を誓い、閏7月25日に元就,隆元,元春は返答の連署起請文を送っている。 |
| 市川元好 | 吉川経茂 |
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毛利氏家臣で山口奉行を務めた市川経好の次男として生まれる。天正6年(1578年)、兄の元教が大友宗麟と内通して反乱を企てていることが露見し、父・経好の命を受けた内藤元輔や雑賀隆利らによって討ち取られた。元教の追討に伴い、以後は元好が嫡男となった。 |
妻に石見国の国人領主の娘を迎え、妻の所領である石見国永安別符に入って、家中を取り仕切っていたと推測される。この頃の吉川氏は安芸国大朝荘に所領を得ていたため、経茂は正和2年(1313年)に、兄の吉川経高が安芸国に下向するより前に、安芸国の所領を管理していたものと推測される。 |
| 吉川経兼 | |
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時の安芸吉川氏当主・吉川経盛の従兄弟にあたる。南北朝の騒乱において、母方の実家である三隅氏との関係から経兼は宗家の経盛には従わず、子の経見と共に南朝方に味方した。正平4年/貞和5年(1349年)、母の良海尼と兄・経任が対立すると、母に味方して経任を追い落とし、家督を相続した。 |