<藤原氏>南家

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吉川友兼 吉川朝経

 文治5年(1189年)の源頼朝に従い奥州合戦に出陣。その武勇を認められ、翌建久元年(1190年)、頼朝の初入洛にも従った。建久4年(1193年)の富士の巻狩りの警護役を務め、曾我兄弟の仇討ちに伴う混乱への対応にも当たった。
 正治2年(1200年)の梶原景時一族追討の際に所領のある駿河国で、梶原景時一行の不審な動きを捕捉し、他の在地武士と共に襲撃して、景時の3男で豪勇で知られる梶原景茂を討ち取るも、友兼も深手を負っており、そのまま死去した。友兼は死亡したが、子の朝経が加増され、梶原氏の所領であった播磨国揖保郡福井荘の地頭に任ぜられた。 

 正治2年(1200年)の梶原景時一族追討の際に父・吉川友兼を失うも、亡父の功と本人の功を讃えられて加増され、梶原氏の所領であった播磨国福井荘の地頭に任ぜられた。仁治元年(1240年)に死去。嫡男である経光とは生年が僅か10年しか変わらないため、兄弟もしくは親戚筋からの養子の可能性もある。 
吉川経光 吉川経高
 延応2年/仁治元年(1240年)に父の吉川朝経が死去。当時の経光の年齢は49歳であり、それ以前に家督を相続していたと思われる。事実、吉川経光は承久3年(1221年)の承久の乱でも鎌倉幕府側として参戦しており(この時30歳)、京都の宇治橋の戦いにて戦功を挙げ、本領の駿河国吉河荘,播磨国揖保郡福井荘に加えて、安芸国大朝荘の地頭職に任ぜられた。 

 文永4年(1267年)に、父・吉川経光から家督を相続。この頃の吉川氏は本領の駿河国入江荘吉河だけではなく、安芸国大朝荘や播磨国福井荘にも所領を抱えていた。しかし、その管理が不十分であり、所領を横領される等の事件が相次いだ。そのため正和2年(1313年)、吉川経高は鎌倉幕府に所領の返還を求めた。その訴えが認められると、80歳近い老躯をおして、総領の経高は本領の駿河を離れ、安芸国大朝荘に移住した。中央情勢に左右されやすく、また弱小の御家人では関東近隣での生き残りが難しいと考えたためと推測される。
 ただ、駿河には末弟の吉川経時を置き、その他の所領も、播磨国福井荘を弟の吉川経盛(播磨吉川氏)に与え、石見国津淵荘の地頭職を弟の吉川経茂(後の石見吉川氏)に、弟の吉川経信には大朝まで同行させ、大朝の一部を与えて自身の補佐とした。大朝に入ると駿河丸城を築城し、居城とした。文保3年/元応元年(1319年)に家督を嫡男の経盛に譲り、同年86歳の高齢で没する。
 吉川氏を安芸国に移住させることによって、後の吉川氏の発展と、その名と血脈を現代まで残すことに成功した功労者と言える。 

吉川実経 吉川経見

 吉川経長の子として生まれる。この頃の吉川氏宗家の当主は吉川経盛・吉川経秋であったが、勢力は弱く分家の石見吉川氏が勢力を拡大していた。実経は吉川氏宗家の主力として戦った。
 元徳3年(1331年)、父の吉川経長より所領を一部譲られた。南北朝の騒乱では、足利尊氏に従う武田氏信に協力し、建武2年(1335年)12月に挙兵。熊谷蓮覚とその子・直村と甥の直統らが籠る矢野城を攻撃し、落城させた。この戦いで一門である吉川師平が討死した。
 建武3年(1336年)に足利尊氏が新田義貞に敗れて九州に下向すると、新田義貞の御教書を奉じて南朝方に味方した。その後、北朝に帰参し、興国4年/康永2年(1343年)、上野頼兼や益田兼見,武田氏信とともに、高津孫三郎や波多野彦五郎,河越安芸守らの籠る大多和城を攻撃。猛攻の末、降伏させた。
 正平5年/観応元年(1350年)7月には石見国御坂峠で高津長幸らの攻撃に遭い敗北している。同年、武田氏信らと寺原時親の籠る寺原城を降伏させた。それに続いて山県為継,壬生道忠らの籠る猿喰城も攻略した。毛利親衡が籠城する坂城の攻略には失敗し、翌年、今川頼貞らの援軍を得た南朝方によって撃退された。
正平7年/観応3年(1352年)5月には、足利直冬方となった琴崎城の毛利元春と戦い、琴崎城を落城させた。毛利元春は吉田郡山城に逃亡したが、翌月には降伏した。
正平18年/貞治2年(1363年)には所領を子の虎熊丸に譲ったが夭折。最終的には吉川経兼の子経見を養子とした。

 安芸吉川氏の分家である石見吉川氏の出身で、建徳2年/応安4年(1371年)、石見における所領を相続する。武将としての器量に優れ、安芸国内における吉川氏の内紛を鎮圧し、安芸における吉川氏の所領のほとんどを併合してしまった。その実力から、男子のいなかった本家当主・吉川経秋より家督を継承し、九州探題・今川了俊に従軍して九州を転戦した。 応永10年(1403年)には、毛利光房,宍戸家秀,小早川義春,平賀貞宗,阿曽沼光郷,香川遠景らと南朝方となった熊谷直明の討伐を行い、直明を降伏させた。
 応永13年(1406年)には安芸守護・武田氏から正式に吉川氏の本家当主として認められ、以後は経見の系統が吉川氏の本家を継ぐこととなったのである。また、居城を駿河丸城から小倉山城に移している。応永23年(1416年)、嫡男の経信に家督を譲って隠居し、永享7年(1435年)10月19日に死去した。 

吉川之経 吉川経基

 康正2年(1456年)、父の死去により吉川氏の名跡を継ぐ。安芸分郡守護・武田信賢と所領をめぐって争うが、小早川氏の仲介を受けて和解している。翌長禄元年(1457年)、周防・長門守護の大内教弘が厳島神主家との関係で武田信繁(信賢の父)の佐東銀山城を攻めた際には、管領・細川勝元の命を受けて毛利煕元ら安芸国人と共に信繁を支援して大内軍を撃退した(山本合戦)。その後、子の経基に実権を譲渡している。
 応仁元年(1467年)の応仁の乱に際しては、東軍の細川方に加わって京都へと出兵し、相国寺周辺での戦闘にも参加した。この京都周辺での戦闘において経基は勇戦奮闘し、その武勇を天下に轟かせた。文明9年(1477年)正月7日に死去。享年63。 

 長禄4年(1460年)、畠山政長とその一族・畠山義就との間での勢力争いが発生。経基は将軍・足利義政の命を受け、畠山政長を助ける。翌寛正元年(1461年)には山名是豊に従って出陣。畠山義就勢を河内国で打ち破る戦功を挙げた。
 応仁元年(1467年)、応仁の乱が発生すると、細川勝元率いる東軍に属し、西軍の山名宗全の軍と洛中において壮絶な死闘を展開し、その勇名を全国に轟かせた。同年9月に一条高倉、10月に武者小路今出川、北小路高倉、鹿苑院口の各合戦などに参加している。翌応仁2年(1468年)には細川勝元に播磨国福井庄を恩賞として還付された。同年8月にも細川勝元に従い、畠山義就と京都相国寺付近で死闘を繰り広げた。戦いは畠山勢が優勢であり、細川勢からは逃亡者が続出。経基は不利な状況にもかかわらず、配下を叱咤激励して陣地を死守し、畠山勢に徹底的な反撃を加えた。この結果、細川勢は勢いを取り戻し、畠山義就を撃退することに成功した。その戦の強さに対して、「鬼吉川」「俎板吉川」の異名を取り、その勇名は全国に響き渡った。この乱のなか共に戦った尼子経久の才を見込んで娘を正室として嫁がせ、嫡男・政久らが生まれている。
 備後国内では和智氏・宮氏・山内氏らの国人勢力が、東軍の山名是豊を攻撃。将軍・足利義政の命により、経基は山名是豊を救援して、備後国人衆を撃退した。この功に対し足利義政は、石見国佐磨,安芸国の寺原・有馬・北方・河合などの地を経基に与えた。吉川氏の所領は山県郡の東北、可愛川流域の大半にまで及ぶことになり、このようにして経基は「吉川氏中興の英君」と呼ばれることとなる。
 文明9年(1477年)、父・吉川之経の死去に伴い当主となる。その後も文明14年(1482年)には幕府の命により河内に出陣、文明19年/長享元年(1487年)にも播磨国の赤松政則の要請により、播磨に遠征して奮戦した。
 永正6年(1509年)、82歳となった経基はようやく家督を息子の国経に譲って隠退。永正17年(1520年)、93歳の天寿を全うした。経基は勇猛かつ豪胆な武将であると共に、文学や書道にも堪能であった。吉川氏には経基自筆の『古今和歌集』『年中日発句』『拾遺和歌集』などの諸書が現在まで伝えられている。経基はまた禅にも通じており、東福寺の僧虎関の編による『元亨釈書』を愛読し、僧たちとその内容に対して議論を交えたこともあった。この文武を重んずる吉川氏の家風は、経基嫡流よりも、傍流で毛利氏一門の吉川元春(陣中において『太平記』を写本)とその子孫に色濃く受け継がれることとなる。 

吉川元経 吉川興経

 長禄3年(1459年)、安芸国の国人・吉川国経の長男として生まれる。永正8年(1511年)の船岡山合戦には父と共に参陣。永正14年(1517年)、安芸武田氏当主・武田元繁が吉川領の有田城を攻撃すると、曽祖父・吉川之経の弟にあたる宮庄経友を派遣し、毛利元就との共同作戦によって武田元繁や熊谷元直らを討ち取った(有田中井手の戦い)。
 その後、方針を転換し、山陰の雄・尼子経久の傘下に入る。元経の妻は毛利弘元の娘であり、妹は毛利元就の妻であった。そのため吉川氏が尼子氏傘下になると、毛利氏に対しても尼子氏に従属するように勧誘した。家督を継いで間もない大永2年(1522年)3月6日、父・国経に先立って死去。子の興経が跡を継いだ。 

 永正5年(1508年)、または永正15年(1518年)、吉川元経の子として生まれる。大永2年(1522年)3月6日に父・元経が死去すると、幼少ながら家督を相続し、祖父・国経の後見を受けた。享禄4年(1531年)4月18日に祖父・国経が死去すると、興経自らが政務を担い始める。
 興経の家督相続当時は、安芸北部から石見南部にかけて勢力を張る有力な国人領主だった。しかし、興経は武勇に優れた武将ではあったものの、戦略眼や政治力に乏しく、当主としての器量には欠けていたとされる。当時の安芸では、近隣の大勢力である大内氏と尼子氏が在地勢力を巻き込んで抗争を続けていたが、興経はその時々の形勢によって大内・尼子両陣営の間で鞍替えを繰り返した。特に天文11年(1542年)の月山富田城の戦いでは重要な局面で大内氏を裏切り、その結果、大内方は大敗して大内晴持,小早川正平,毛利家臣・渡辺通などを失った。このような行動に対し、他の国人衆だけではなく叔父の吉川経世や家臣団の間でも興経に対する不信感が高まった。
 天文16年(1547年)、吉川氏の家臣団は興経の叔母・妙玖が毛利元就の妻であるという縁故から、従弟で元就の次男・元春を養子に迎えて吉川氏の家督を継がせた。天文19年(1550年)、興経は強制的に隠居させられ、妻子と共に安芸深川に幽閉された。幽閉後も行状は収まらなかったとされ、不穏な噂が毛利領内に流れる。興経は元就に弁解の書状を出すが、元就は興経粛清の決意を固め、同年9月、隠居館を熊谷信直・天野隆重らに急襲させた。元就は予め内応者を用意し、興経の刀の刃を潰し、その弓の弦も切らせていた。そのため興経はたいした抵抗もできず、嫡子の千法師もろとも殺害された。この結果、藤姓吉川氏嫡流は断絶した。墓所は興経が最期を迎えた隠居館の一角に現存している。

吉川経世 市川経好

 安芸国の国人領主の一門であったが、後に毛利氏の家臣となる。兄の吉川元経、父の吉川国経が没した後、大永2年(1522年)に家督を継いで吉川氏当主となった甥の吉川興経を一門の重鎮として補佐することとなる。しかし、外様である大塩右衛門尉が興経に取り入って権力を濫用するようになり、当主の興経も尼子氏と大内氏の間で離反を繰り返し、吉川家中にも動揺と不満が広がっていくこととなる。
 天文16年(1547年)、ついに吉川経世は吉川氏重鎮としての責任感から大塩を暗殺、老臣の森脇祐有、および姻戚の毛利氏当主・毛利元就と共謀して興経を隠居させ、吉川氏の血を引く毛利元就の次男の元春を当主に迎えた。これにより吉川氏は毛利氏の家臣団に組み込まれ、吉川元春を当主としてその勢威を中国地方に拡大させることとなった。 

 初めは吉川経好、平城経好と名乗り、後に市川経好と名字を改める。永正17年(1520年)、吉川経世の嫡男として生まれる。天文16年(1547年)、父・経世と共に従兄の吉川興経を廃して毛利元就の次男・元春を養嗣子に迎えるために尽力した。同年閏7月22日、父・経世,弟・今田経高と共にが連署の血判起請文によって、毛利元就,隆元,元春への忠誠を誓い、閏7月25日に元就,隆元,元春は返答の連署起請文を送っている。
 天文18年(1549年)12月7日、毛利氏家臣の粟屋元宗に対して吉川元春を奉戴することを毛利氏に対して誓う血判起請文を提出し、12月18日には井上元有,児玉元良,粟屋元宗に対して起請文の披露を依頼する書状を送った。なお、この時の経好は「平城式部少輔経好」と名乗っている。天文19年(1550年)1月12日、経好が提出した血判起請文に対して毛利元就と吉川元春が連署の起請文を送り、元春に対して別心を抱くものがあれば親兄弟であっても同心しない旨を誓った経好を事の大小によらず頼みとする旨を誓約している。
 同年9月27日、毛利元就の命を受けた熊谷信直や天野隆重らが、安芸国布川の居館で隠居していた吉川興経を襲撃し、興経は子の千法師と共に殺害された。この事件について経好は思うところがあったためか加増された安芸国市川邑に一時は蟄居したものの、元就から数度の招聘を受けて出仕したとされる。それ以後、在名から名字を「吉川(平城)」から「市川」へと改めている。
 弘治3年(1557年)にはその行政手腕が認められて山口奉行に就任し、防長経略後に毛利氏の支配下に入った周防国山口を治めて、高嶺城に入った。永禄10年(1567年)7月19日、毛利輝元から「伊豆守」の受領名を与えられた。永禄12年(1569年)に大友宗麟の支援を受けた大内輝弘が豊後国より出陣し、周防に上陸。高嶺城を包囲する。この時、経好は北九州において立花山城をめぐって大友氏と対陣中であり、城には妻の市川局と僅かな家臣、守備兵しかいなかった。しかし、市川局は城兵を指揮して大内軍を撃退し、見事に城を防衛した(大内輝弘の乱)。この功績により、天正5年(1577年)閏7月6日に市川局は毛利輝元より感状を受けている。
 天正6年(1578年)3月6日、長男の元教が大友氏と内通して反乱を企てていることを知った経好は、内藤元輔や雑賀隆利らを遣わして元教を討ち取り、毛利氏への忠誠を示した。以後は次男の元好を嫡男となった。天正12年(1584年)10月29日に死去。享年65。次男の元好が後を継いだ。 

市川元好 吉川経茂

 毛利氏家臣で山口奉行を務めた市川経好の次男として生まれる。天正6年(1578年)、兄の元教が大友宗麟と内通して反乱を企てていることが露見し、父・経好の命を受けた内藤元輔や雑賀隆利らによって討ち取られた。元教の追討に伴い、以後は元好が嫡男となった。
 天正12年(1584年)10月29日に父・経好が死去したため家督と山口奉行職を引き継ぎ、天正14年(1586年)から始まる豊臣秀吉の九州平定では、毛利輝元の命を受けて出陣している。しかし、山口奉行の機構は周防国と長門国の支配に関しての権限が大きく、毛利家の中央行政機構の意に従わないこともしばしばあったため、輝元にとって廃止すべき中間機構となった。また、この頃の山口奉行には国司元信や黒川兵部丞も参画していたが、それぞれの父である国司就信や黒川著保もかつて山口奉行に参画していたことから、奉行職が世襲化する傾向を示していた。そこで、輝元は惣国検地の実施に伴い、天正16年(1588年)に元好の出雲国への給地替えを行い、奉行職の世襲化を断ち切ろうとしている。
 天正20年(1592年)10月5日に死去。嫡男の元直が後を継いだが、元直は文禄の役に従軍して同年12月27日に朝鮮で戦傷死したため、元直の嫡男である元栄が幼少ながら後を継いだ。 

 妻に石見国の国人領主の娘を迎え、妻の所領である石見国永安別符に入って、家中を取り仕切っていたと推測される。この頃の吉川氏は安芸国大朝荘に所領を得ていたため、経茂は正和2年(1313年)に、兄の吉川経高が安芸国に下向するより前に、安芸国の所領を管理していたものと推測される。
 兄により石見国津淵荘の地頭職を与えられ、石見吉川氏の初代となる。娘を甥であり安芸吉川氏当主の吉川経盛に嫁がせている。このことからも安芸吉川氏を補佐する役割として宗家からも重要視されていたことが伺える。
妻の孫夜叉は石見国の国人領主・永安氏の女で、経茂死後出家して良海と称する。経茂の死後、家督は長男の経貞に継がせるも、正平4年/貞和5年(1349年)に勘当。3男の経兼にその所領を継承させた。 

吉川経兼

 時の安芸吉川氏当主・吉川経盛の従兄弟にあたる。南北朝の騒乱において、母方の実家である三隅氏との関係から経兼は宗家の経盛には従わず、子の経見と共に南朝方に味方した。正平4年/貞和5年(1349年)、母の良海尼と兄・経任が対立すると、母に味方して経任を追い落とし、家督を相続した。
 正平5年/観応元年(1350年)から始まる観応の擾乱でも足利直義方に味方し、足利尊氏方に従う宗家の経盛とは袂を分かった。足利直冬の部将・今川頼貞の命令を受けた経兼・経見父子は、安芸国や長門国で勇名を馳せ、正平13年/延文3年(1358年)に南朝の後村上天皇から駿河権守に任じられている。
 正平23年/応安元年(1368年)には足利直冬から大朝新荘の地頭職を得ている。後に嫡子の経見が安芸吉川宗家の家督を相続したため、石見吉川氏の所領は兄・経任の子・経世に与えて、石見吉川氏を相続させた。