<神皇系氏族>天神系

NK22:中原兼遠  磯城黒速 ― 十市磐古 ― 中原以忠 ― 中原兼遠 ― 樋口兼光 NK23:樋口兼光

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樋口兼光 巴御前(鞆絵)

 正式な名のりは中原兼光。木曾義仲の乳母子にして股肱の臣。義仲四天王の一人。信濃国筑摩郡樋口谷に在して「樋口」を称した。
 乳母子として義仲と共に育ち、弟の兼平と共に忠臣として仕えた。『平家物語』によれば、武蔵国の児玉党の婿であったとされる。治承・寿永の乱における治承年(1180年)の義仲挙兵に従って各地を転戦した。寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いなどで重要な役割を果たし、平家を都から追い落として7月に義仲と共に入京した。9月に後白河法皇の命により、義仲は水島の戦いで西国へ下るが、京の留守を兼光に命じ、法皇の監視に当たらせている。法皇と義仲が対立した法住寺合戦で法皇を拘束するなど義仲軍の中心人物として活躍した。
 元暦元年(1184年)正月、義仲に離反した源行家,源義資を討伐するため、河内国石川へ500騎で出陣するが、その間に鎌倉軍が到着し、敗れた義仲は粟津の戦いで討ち死にした。翌日、義仲の死を知った兼光は京へ戻る道中で武装解除し、源義経の軍勢に生け捕られた。『吾妻鏡』によれば、兼光は武蔵国児玉党の人々と親しい間であったため、彼らは自分達の勲功の賞として兼光の助命を訴え、義経が朝廷に奏聞したが、兼光の罪科は軽くないとして許されなかったという。
 26日、義仲らの首と共に検非違使に身柄を引き渡され、2月2日、渋谷高重によって斬首された。兼光の嘆願で義仲の隣に首を置くことになる。義仲という主君を失いながらも義仲へのいたわりや忠実な気持ちを持ち得た人物とされる。

中原兼遠の娘とする【NK22】を参照

 

樋口兼豊 樋口秀兼

 はじめ、上田長尾家当主・長尾政景に仕えた(おそらく家老かそれに順ずる格)。政景の死後は、その子で越後国の大名・上杉謙信の養子となる長尾顕景(後の上杉景勝)に仕える。謙信死後に起きた上杉氏の家督争いである御館の乱では景勝方として武功をあげ、天正9年(1581年)に荒戸城将となり、100石を加増されて天正年間に直峰城主に任じられた。
 その後、主家の会津転封に従い、子の直江兼続が城主となった米沢城に入るが、城主の兼続が主君・上杉景勝の首席家老(執政)として、常に主君と共に会津若松城か京都・大坂に出仕していてほとんど城主不在だったため、その間は事実上の城代(留守役)を勤め、最上氏の動向調査報告などの活動を行っている。
 慶長7年(1602年)、死去。樋口家は3男の秀兼が継いだ。

 幼少・青年期ははっきりとした経歴は伝わってはいないが、上杉家に人質として来ていた真田源次郎と年が近かったため仲がよかったと言われる。秀兼は三兄弟の末子だが長兄の兼続が直江家に、次兄の実頼が小国家の養子行ったことで残った秀兼が実家の樋口家を継ぐことになった。米沢転封後は1000石を知行した。慶長19年(1614年)、大阪冬の陣に上杉家の武将として参加した。なお、長兄の兼続が、大国家を継いでいた次兄・実頼の後継者に、秀兼の嫡男の光頼を指名したため、光頼は大国家を継ぎ樋口家は次男の長兼が継いだ。没年は不群である。
 樋口家は幕末まで存続している。