NK21:中原以忠 | 磯城黒速 ― 十市磐古 ― 中原以忠 ― 中原兼遠 | NK21:中原兼遠 |
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中原兼遠 | 今井兼平 |
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信濃国木曾地方に本拠を置く豪族。久寿2年(1155年)の大蔵合戦で源義賢が甥の源義平に討たれた際、その遺児・駒王丸を斎藤実盛の手から預かり、ひそかに匿って養育する。この時、信濃権守であったという。駒王丸は兼遠一族の庇護のもとで成長し、木曾義仲と名乗って治承・寿永の乱において平家や源頼朝と戦う。兼遠の子である樋口兼光,今井兼平はともに義仲の重臣となっている。 |
義仲の乳母子として共に育ち、兄の兼光と共に側近として仕える。治承・寿永の乱では治承4年(1180年)の義仲挙兵に従い、養和元年(1181年)5月、横田河原の戦いで城助職を破る。寿永2年(1183年)、般若野の戦い,倶利伽羅峠の戦い,篠原の戦いで平氏軍を破り、7月には平氏を都落ちさせて義仲と共に入京。10月、福隆寺縄手の戦いで妹尾兼康を破る。11月、後白河法皇と義仲が対立した法住寺合戦では、兼平・兼光兄弟の活躍が著しかった。元暦元年(1184年)正月20日、鎌倉軍に追われ敗走する義仲に従い、粟津の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害した。享年33。 |
鞆絵(巴御前) | 落合兼行 |
巴御前が登場するのは軍記物語の『平家物語』『源平盛衰記』のみであり、当時の一次史料や鎌倉幕府編纂書の『吾妻鏡』には、その存在は確認されない。女武将であるという物語の記述は史実としては疑問があり、文学的脚色である可能性が高い。ただし、女性が第一線級として通用する戦闘訓練を受けている例は存在し(板額御前など)鎌倉時代にあっては、女性も男性と平等に財産分与がなされていたことからも、合戦に参加することは女性であれ認められていた。 |
源義仲に対して、樋口兼光,今井兼平と共に家臣として仕える。治承4年(1180年)の義仲挙兵時より参戦し、白鳥河原の勢揃,横田河原の戦い,倶利伽羅峠の戦い,篠原合戦などに参戦した。義仲敗死後については諸説があり、義仲の死去前後に討死にしたとする説、木曾谷に逃れて萱ヶ平に隠れたという説、更級郡の今井に逃れ、その子の兼善が親鸞の弟子となったという説などがある。
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