F101:藤原麻呂 | 藤原鎌足 ― 藤原麻呂 ― 藤原浜成 | F102:藤原浜成 | ● |
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藤原浜成 | 藤原継彦 |
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藤原麻呂の嫡男として、京家の中心的人物であったが、年齢的に一世代近く年上であった他の3家(南家・北家・式家)の二世世代に比べてその昇進は常に一歩後れをとらざるをえなかった。 |
宝亀11年(780年)正六位上から従五位下に叙せられる。天応元年(781年)兵部少輔に任ぜられるが、翌天応2年(782年)に発生した氷上川継の乱において、父・浜成とともに連座して解官となる。のち赦されて、桓武朝では、延暦8年(789年)主計頭、延暦18年(799年)左少弁、延暦24年(805年)左中弁・讃岐守、延暦25年(806年)民部大輔を歴任する。 平城朝では治部大輔・民部大輔を歴任し、大同3年(808年)には正五位下に叙せられる。 |
藤原貞敏 | 藤原大継 |
承和2年(835年)従六位下・美作掾の時、遣唐使准判官に任ぜられ、承和5年(838年)入唐し長安に赴く。貞敏は劉二郎(一説に廉承武)という琵琶の名人に教えを請い、2,3ヶ月の間に妙曲を習得し、劉二郎はさらに数十曲の楽譜を贈った。また、劉二郎は貞敏の才能を見込んで、自らの娘(劉娘)を貞敏に娶らせるが、劉娘は琴や箏に優れ、貞敏は新曲を数曲学んだという。承和6年(839年)琵琶の名器「玄象」「青山」(ともに仁明天皇の御物)及び琵琶曲の楽譜を携えて日本に帰国する。なお、一説では貞敏は唐で結婚した妻を連れて帰国し、妻は日本に箏を伝えたともいう。 帰国後、承和7年(840年)駿河介、承和8年(842年)主殿助次いで雅楽助を経て、承和9年(842年)正六位上から従五位下に叙せられる。のち、承和14年(847年)雅楽頭、斉衡3年(856年)備前介、天安2年(858年)掃部頭、貞観6年(864年)備中介を歴任。この間、天安元年(857年)従五位上に昇叙している。 |
従五位下に叙せられたのち、宝亀8年(777年)少納言、宝亀10年(779年)伊予介に任ぜられる。 桓武朝に入り、天応2年(782年)に発生した氷上川継の乱に伴い父・浜成が連座して参議を解任されると、大継もその影響を受け、桓武朝の前半は官職に就いた記録がない。延暦8年(789年)大判事に任ぜられ官界に復帰すると、のち宮内少輔・備前介を歴任する。延暦11年(792年)後宮に仕えていた娘の河子が桓武天皇の皇子・仲野親王を儲けたのちは順調に昇進し、延暦25年(806年)迄に従四位下に至った。この間、下総守,大蔵大輔,伊勢守を歴任している。 |
藤原河子 | 直江信綱 |
祖父の藤原浜成は参議にまで昇ったが、氷上川継の乱に連座し、父・大継もその影響により要職につけず、藤原京家は衰退の一途を辿っていた。そんな時勢の中、河子は桓武天皇の後宮に入り、仲野親王をはじめ5人の親王・内親王を生んだ。この河子の入内は、祖父の名誉回復のような影響をもたらしたのではないかとされている。 | 元は総社長尾家の出身で、長尾顕方の9男とも長尾景秀の次男ともいわれる。上杉家の重臣・直江景綱の娘・船と結婚し、婿養子となって直江与兵衛尉信綱と名乗る。天正5年(1577年)3月5日に養父・景綱が死去すると、直江氏の名跡と奉行職を継ぎ馬廻として上杉謙信に仕えた。天正5年 (1577年)9月23日、手取川の戦いに参戦。 天正6年(1578年)の謙信急死後に勃発した御館の乱では上杉景勝方に付いて、景勝と共に春日山城に籠る一方、本拠地の与板城に残る直江氏一族や配下の与板衆を動員して周辺の上杉景虎派の討伐を進めた。この功により、乱後に新当主となった景勝のもとで重用されたが、天正9年(1581年)9月9日、重臣・河田長親の遺領を巡る諍いにより春日山城内で会談中のところを毛利秀広に襲われ、山崎秀仙と共に殺害された。この時、信綱は身を守ろうと脇差を抜いて斬りかかったが、抵抗むなしく逆に返り討ちにあったという。 信綱の死後、妻の船は景勝の命令により景勝腹心の上田衆・樋口兼続と再婚させられ、直江家は兼続を当主として存続することになった。なお、信綱と船の間の子であるかは定かではないが、船が養母である子(後の清融阿闍梨)がいたが、兼続を婿として迎える頃に何らかの理由で出家させたのではないかといわれている。 |
直江兼続 | |
米沢藩(主君・上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 ,立物は「愛字に端雲」。 天正6年(1578年)謙信急死後に起こった上杉家の後継者争い「御館の乱」が収束し、戦後処理が行われる天正8年(1580年)から、景勝への取次役など側近としての活動が確認される。 |