<神皇系氏族>天神系

NH03:海野広道  楢原久等耳 ― 滋野家訳 ― 海野広道 ― 真田頼昌 NH05:真田頼昌


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真田頼昌 真田幸隆

 海野氏庶流の出身とされ、今日では真田氏の祖と推定されている。諱は「頼昌」とされるが、これは後世の江戸時代の元禄9年(1696年)成立の「良泉寺矢沢氏系図」が初出である。戦国期真田氏当主の通字は「綱」であることが指摘されるため、問題点が残される。
 江戸時代中期に信濃国松代藩主・真田家が編纂した「真田家系図書上案」(『真田家文書』)によれば、真田氏は清和源氏を発祥とし、滋野氏・海野氏と続き、戦国時代に甲斐武田氏家臣となった幸隆(幸綱)が信濃小県郡真田郷を領し「真田」姓を称したという。この系図では頼昌の名は記されず、幸隆の父を海野棟綱としている。
 一方、長野県上田市殿城に所在する矢沢氏の菩提寺である良泉寺に伝わる「良泉寺矢沢氏系図」「良泉寺過去帳」では、滋野氏の発祥を滋野宿禰に始まる一族としている。
 戦国期には海野氏の被官で、永禄10年(1567年)8月に甲斐武田氏家臣が生島足島神社へ奉納した起請文のうち「海野衆」に名が見られる真田綱吉(右馬助)がいる。綱吉は「右馬助」の通称が頼昌と共通することから頼昌の嫡男とする説がある。また、頼昌の妻は海野棟綱の娘とされ、高野山蓮華定院『過去帳月坏信州小県分第一』にはよれば、天文9年(1540年)4月26日に死去したとされる。幸綱により高野山で供養が行われており、供養帳の日付は命日ではなく、供養依頼日の可能性も指摘される。また、「己亥」が天文8年(1539年)にあたることから、同年に死去である可能性も指摘される。息子とされる真田幸綱にも海野棟綱の娘を妻とする説もある。『一徳斎殿御事蹟稿』によれば、真田氏の菩提寺である長野県上田市真田町の長谷寺には頼昌の位牌が安置されていたという。 

 天文10年(1541年)、武田信虎は同盟関係にある信濃諏訪郡の諏訪頼重や、信濃小県郡の村上義清と共に信濃小県郡・佐久郡へ侵攻する。同年5月23日の海野平の戦いにより海野一族は敗北して上野へ亡命している。
 武田信虎は海野平合戦から帰国した同年6月14日に嫡男・武田晴信(信玄)により駿河へ追放され、晴信が家督を継承する。晴信はまず天文11年(1542年)に独断で関東管領の上杉憲政と和睦して領地を割譲した諏訪頼重を滅ぼすと、本格的な佐久・小県郡侵攻を再開する。
 幸綱は晴信期の武田氏に帰属して旧領を回復しているが、その帰属時期は諸説ある。初期の軍役は10騎程度と推定する説があり、動員兵力は300~400人程度と考えられるが、功名を重ねた後年は200騎程であっただろうとされている。
 武田氏臣従した後は、信濃先方衆として軍役を務め、村上義清方の望月氏の調略などを行っている。天文19年(1550年)7月には小県郡諏訪に知行を約束されており、同年9月の戸石城(砥石城)攻めは真田幸綱の要請にもよるものと言われている。戸石城攻めで幸綱は村上方の清野氏や寺尾氏などを調略するが、戸石崩れ(砥石崩れ)と呼ばれる大敗で一時は失敗する。天文20年(1551年)に再び戸石城攻めが行われ、『高白斎記』によれば、真田幸綱の調略で同年5月26日に城はわずか1日で攻略されたという。
 天文22年(1553年)、葛尾城が落城した村上義清は越後国へ逃れ、真田幸綱は旧領を完全に回復する。義清は越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、甲越両国は信濃の領有を巡って対峙し、川中島の戦いを展開することとなる。幸綱は対長尾氏(上杉氏)の最前線に置かれることとなり、引き続き真田本城を本拠地とし、戸石城番を兼ねた。
 この頃、関東へ進出した後北条氏は、上野国で上杉憲政を庇護した長尾景虎と対峙するが、幸綱は天文23年(1554年)に甲相駿三国同盟に基づく北条氏康の吾妻郡在城を求める出兵要請を受けており、永禄4年(1561年)からはじまる西上野侵攻など関東方面の戦略に関わっていたと考えられている。
 弘治2年(1556年)9月8日には埴科郡東天飾城を攻略し、小山田虎満とともに城番を務める。
 『甲陽軍鑑』によれば、永禄2年(1559年)に晴信が出家して信玄と名乗ると、自身も剃髪して一徳斎と号したという。また、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは、嫡男・真田信綱とともに妻女山の上杉本陣への夜襲に加わっていたという。川中島の戦いの後、武田信玄は西上野侵攻を開始するが、武田氏に提訴されていた吾妻郡内での鎌原氏と羽尾氏の所領抗争は、双方が真田氏の同族でもあることから、真田幸綱が調停に関わっている。永禄6年(1563年)には羽尾氏を支援した上杉氏方の斎藤氏の居城・岩櫃城を、永禄8年(1565年)には嵩山城を、永禄10年(1567年)には白井城を攻略している。 
 永禄10年(1567年)、病気のために家督を真田信綱に譲って隠居したとされている。このため、信玄の駿河侵攻や西上作戦には加わらず、もっぱら信濃北部及び上州方面の抑えとして活動した。天正2年(1574年)5月19日、戸石城で病死した。享年62。墓所は長野県上田市真田町の曹洞宗真田山長谷寺。 

真田信綱 真田昌輝

 戦場では専ら父・幸隆や弟の真田昌輝らと共に行動しており、幸隆と共に信濃国や上野国を転戦し、永禄11年(1568年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍している。また、箕輪城城代であったとする説も有力で、準譜代としての待遇を得ていたようである。元亀3年(1572年)の信玄の西上作戦にも従軍し、三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務めて奮戦した。
 天正2年(1574年)5月に幸隆の死去に伴い正式に真田家の家督を継いだ信綱は、その一年後、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いに真田の兵を率いて参戦した。三尺三寸の陣太刀・青江貞を振って奮戦し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲部隊の銃撃によって弟の昌輝と共に戦死した。享年39。
 信綱を討ったのは徳川方の渡辺半十郎政綱(渡辺半蔵守綱の実弟)だと言われるが、実際には織田信長配下の柴田勝家,丹羽長秀,羽柴秀吉ではないかとする説もある。信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣(近習)の北沢最蔵と白川勘解由が甲斐に持ち帰ったといい、この「血染めの陣羽織」は上田市の信綱寺に収蔵されている。なお、この2人は信綱を追って殉死し、その忠義を賞されて北沢家には300石、白川家にも200石が与えられた。
 なお、信綱寺は、信綱の弟・昌幸が、位牌所として建立した寺で、この南には古城と呼ばれる尾根がある。ここは中世に真田氏が居館を構えていたと言われる由緒のある地である。 

 小姓として武田信玄に近侍し、信玄により、有力武将の子弟が任じられる「百足衆」に抜擢される。信玄に常に付き従い、「一之先衆七千」を務め、「兵部は我が両眼なり」とまで言わしめたという逸話が残っている。
 『甲陽軍鑑』では、信玄から別家を立てる事を許されて独立し、真田本家の長兄・真田信綱の200騎とは別に50騎を預かる将として活躍し、信州先方衆の副将格であった。
 永禄11年(1568年)には信綱と駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでも信綱や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。
 天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦い設楽原決戦場では、最右翼の主将を馬場美濃守、そのすぐ左翼を兄・信綱が担い、さらに左横に陣取って、右翼部隊の一端を担う。織田軍の左翼を受け持った正面の佐久間信盛の陣に突撃すると、「丸山」と呼ばれる小高い丘を奪い合う局地戦を展開。ここでは首級を挙げるなど奮闘するが、深手を負い信綱とともに討死した。享年33。
 子の真田信正は徳川家に仕え、忠昌に従って越前に在し、子孫は越前松平家に仕えた。今も越前真田家として存続している。


真田昌幸 真田信繁(幸村)
 幸隆の3男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継いだ。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏,上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しがあって、高野山配流を命じられるにとどまり、12月12日に上田を発して紀伊国に向かう。初め高野山にある蓮華定院に入り、次いで九度山に移った。蟄居中の慶長16年(1611年)に死去。

 真田幸村の名が広く知られているが、諱は信繁である。その証明として、直筆の書状を始め、生前の確かな史料で「幸村」の名が使われているものは全く無い。元禄時代には、「幸村」の名が広く知られるようになる。「幸」は真田家や海野家の通字、また、「村」については村正は幸村の佩刀であったとか、介錯に村正が用いられたという話があり、これらに尾ひれがついたものである。
 永禄10年(1567年)または元亀元年(1570年)、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛を名乗る)の次男として生まれ、通称は源二郎を称した。
 天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順して厩橋城に入城した滝川一益のもとに人質として赴く。同年6月の本能寺の変で、滝川一益は関東を離れる際に、信繁も同行させ、木曾福島城で信繁を木曾義昌に引渡した。
 真田氏は上杉氏に帰属して自立し、天正13年(1585年)には第一次上田合戦において徳川氏と戦っている。従属の際に信繁は人質として越後国に送られ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられたという。
 羽柴秀吉が台頭すると、昌幸はこれに服属し、独立した大名として扱われる。信繁は人質として大坂に移り、のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘・竹林院を正妻に迎えている。
 天正18年(1590年)の小田原征伐では、信繁・吉継は石田三成の指揮下で忍城攻めに参戦したと伝えられる。豊臣政権期の信繁の動向は史料が少なく、詳細はわかっていない。ただし、信繁が秀吉の馬廻衆であり、昌幸とは別に1万9000石の知行を有していたことがわかっており、大坂・伏見に屋敷を与えられるなど独立した大名として遇されていた。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)であるため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになる(犬伏の別れ)。昌幸と信繁は居城上田城に籠り、38,000の秀忠率いる徳川軍を迎え撃った。少数の真田隊に手こずった秀忠勢は家康からの上洛を命じられ、攻略を諦めて去った。9月15日、西軍が関ヶ原で敗北を喫すると、昌幸と信繁は本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところだったが、信之とその舅の本多忠勝の取り成しがあって、高野山配流を命じられるにとどまり、12月12日に上田を発して紀伊国に向かう。初め高野山にある蓮華定院に入り、次いで九度山に移った。蟄居中の慶長16年(1611年)に父・昌幸が死去。慶長17年(1612年)、信繁は出家し、好白と名乗った。
 方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化すると、豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣して黄金200枚,銀30貫を贈った。信繁は国許(上田)にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して嫡男・大助幸昌と共に大坂城に入った。大坂で信繁が指揮を執っていた軍は、鎧を赤で統一していたという。
 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、真田丸という突出部を築くことで敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を見逃しやすくした。この戦闘で信繁は、寄せ手を撃退し、初めてその武名を天下に知らしめることとなる。冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に取り壊されてしまった。そして、豊臣方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)2月に、信繁の叔父である真田信尹を2度にわたり派遣し、寝返るように説得している。
 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、道明寺の戦い(5月6日)に参加。しかし、所定の時間に着陣できず、この場での討死を覚悟したが、先に着陣していた毛利勝永に促され、退却に移った。真田隊は殿軍を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させた。この撤退戦の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。この言葉は後世にまで語り継がれた。
 5月7日、信繁は大野治房,明石全登,毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。しかし、先鋒の本多忠朝の部隊が毛利隊に向けて発砲し射撃戦が始まってしまったことで、作戦は断念せざるを得なくなった。死を覚悟した信繁は、徳川家康本陣のみを目掛けて決死の突撃を敢行した。毛利・明石・大野治房隊などの豊臣諸部隊も全線にわたって奮戦し、徳川勢は総崩れの観を呈するに至った。真田隊は、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ、ついに家康本陣に向かって突撃を敢行。真田隊の攻撃のあまりの凄まじさに、家康は二度も自害を覚悟したほどだった。家康本陣の馬印が倒されたのは、三方ヶ原の戦い以来二度目であり、ともに武田家ゆかりの武将である。
 大野治長は秀頼の出馬は今と、自ら言上しようと大坂城に引き返したが、この時、治長は秀頼の馬印を掲げたまま帰ろうとしたため、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り、落胆が広がった。さらに城内で火の手が上がったことで、前線で奮闘していた大坂方の戦意が鈍った。家康はこれを見逃さず、全軍に反撃を下知し、東軍は一斉に前進を再開し、大坂方は崩れ始めた。岡山口から家康の危機を知って駆けつけた井伊直孝の軍勢が、越前松平隊と合戦を続けていた真田隊に横槍を入れて突き崩し、真田隊は遂に備えが分断されてしまった。信繁は家康に肉薄しながら、ついに撤退を余儀なくされた。
 信繁は四天王寺近くの安居神社の境内で木にもたれて、傷つき疲れた身体を休ませていたところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次(甚左衛門)に発見され、「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られたという。享年49。実際は、真田信繁だという首級が多数あったと言われている。

片倉守信 真田幸歓

 真田信繁の次男として紀伊国九度山で生まれた。幼名は大八。母は大谷吉継の娘。大八については、ある年の高野山蓮華定院の記録に、京都にて死去とあるが、実は生存し、慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣で父・信繁と兄・大助(幸昌)の戦没した後に、落城時に乱取りされた異母姉の阿梅(次女)が片倉重長の側室になると、片倉家に引き取られることになって、同母姉の阿昌蒲(6女),おかね(7女)らと共に陸奥白石に落ち延びることになったという。
 大坂両陣の戦中に負傷したとして、京都の西本願寺にて潜伏療養していた幸村家臣の三井景国がいる。この三井の家臣であった我妻佐渡と西村孫之進の護送により、戦後に京都の片倉家の屋敷に4女・お弁、7女・おかね、8女(名前不明)、そして次男・大八が送り届けられた、とする話が残る。三井景国はその後も京に留まり、元和5年(1619年)に片倉家へ赴き庵原元鄰と共に仙台藩に仕え、守信の家臣となっている。また、片倉家領内に我妻佐渡の墓とされるものも発見されている。
 寛永17年(1640年)、28歳の時に仙台藩の伊達家に召し抱えられ、真田四郎兵衛守信を称した。しかし、逆賊の子を雇用したのではないかと幕府が咎めて、仙台藩に詰問状が届いた。伊達家は、信繁の次子・大八は石投げで死んでいるとする前述の記録を持ち出して弁明し、守信は「幕臣である真田信尹の次男の政信の子」だと説明した。信尹家は真田一族ではあるが幕臣であるため、幕府も厳密に調査すれば否定できた話であるにも拘らず、これで結局、お咎めなしとなった。
 上記のこともあり、早々に真田姓を憚って片倉姓に改め、片倉久米之介守信と改名して、仙台藩士として扶持360石を与えられた。寛文10年(1670年)10月30日に死去し、享年59。子の辰信が継いだ。守信より8代後、幕末期の子孫・真田幸歓において真田姓に復し、仙台真田家として現在も続いている。 

 藩主・伊達慶邦の小姓となり、のちに慶邦の命で下曽根信敦に西洋砲術を学んだ。安政3年(1858年)、講武場で多くの藩士に西洋砲術を教えた。元治元年(1864年)脇番頭となり、慶応2年(1866年)には近習目付となり、経験を生かし藩の軍政の改革を行った(軍制変革侍読長)。また、藩主・慶邦の密名により上京したこともあったという。慶応4年(1868年)1月に若年寄に任じられ軍制係の長となる。同年4月、新政府軍より会津藩討伐の命を受け土湯峠まで出陣した。その後、奥羽越列藩同盟成立後は病により潜居していて、その後、慶邦の命により軍監となるが、指揮をする前に撤兵したためその職務を果たせなかった。同年12月、若年寄を免職となり石巻に閑居し(俸禄は廃藩置県まで給される)、学校教育関係の事務官や、牡鹿郡の書記官などに務めるとともに和歌などを嗜み余生を過ごした。 
真田清鏡 金井高勝

 真田幸隆の庶子とされる。真田幸隆が領地を追われ、上野亡命中の天文10年(1541年)、幸隆は海野幸全の下に寄宿するが、その際、幸全の娘に男児である清鏡を産ませたと言う話が残っている。真実であれば、真田兵部昌輝の兄、信綱の弟になるため、本当は幸隆の次男となる。真田清鏡はその後、羽黒山の修験者となり、羽黒山醍醐坊の開山となったとされる。
 天正19年(1591年)、豊臣秀吉の奥州仕置に際し、不満を持った南部一門の九戸政実・実親兄弟が南部宗家に対して興した九戸政実の乱に際しては、四戸家の南部利直を支援した。その恩賞として、南部利直から霞廻りの際に名主の家に宿泊できる特権を得た。しかし、慶長4年(1599年)に南部家と南部城中に宿泊時にささいな行き違いに憤って切腹。城門に腸を叩きつけたと言う。
 醍醐坊は子孫の七郎右衛門が継ぎ、南部利直は清鏡荒神社を創建して清鏡の霊を祀ったと言われる。清鏡の墓は羽黒山奥之院の荒沢寺と羽黒山麓の金剛寺院にあるという。 

 真田幸綱(幸隆)の5男。信尹を5男、高勝を4男とする説もある。名ははじめ「信春」か。
 最初は真田の家名を名乗るが、のち金井氏を称し、高勝(隆勝とも)と名を改めたらしいが、詳細は不明。『金井氏系図』や『一徳斎殿御事事蹟稿』では高勝が金井氏を継承したとしている。信濃小県郡丸子村(長野県上田市)の御嶽堂に居住した。墓所は同所の龍顔寺といい、高勝の菩提所として創建された。
 高勝の没した翌年の6月26日付で、甥の信之が叔父の冥福を祈って寺領3貫文を寄進したという記録が寺に残っている。 子の金井高次は大阪夏の陣で死亡したとされ、その子の清馬信次から子の嘉兵衛信定と続くが、困窮のため表具師となり、その子の佐之助吉信の頃に帰農したとされる。
 ただし、『寛政重修諸家譜』では高勝の名は見られない。

真田信尹 矢沢頼綱

 昌幸と同じく幼年期から人質として甲府に出仕した。主君の武田信玄の命により甲斐の旧族である加津野昌世の養子となり、名門・加津野氏(和野,鹿角)の名跡を継ぐ。隠岐守の官途を自称し、武田勝頼に近侍して槍奉行を務め、加津野市右衛門尉信昌と称した。武田家では騎馬15,足軽10を率いる槍奉行としての地位にあったと『甲陽軍鑑』にある。
 元亀2年(1571年)1月、武田信玄が北条綱成の守る駿河深沢城を陥落させているが、これは信昌(信尹)の武功によるところが大きかったと伝えられ、この際に綱成の「黄八幡」の旗指物を奪い取ったという。昌幸と同じように武田家の竜朱印状の奉者を勤め、天正7年(1579年)6月25日付で二宮神主宛の居屋敷諸役免許状を出しており、武田家の家臣団の一翼を構成していた。
 天正10年(1582年)3月の武田家滅亡後に真田姓に復姓し、諱を「信尹」と改名する。当初は上杉氏に属し牧之島城に配属されていたが、同年7月に北条氏直が信濃川中島に進軍してくると、北条方に鞍替えした兄・昌幸と通じて牧之島城に北条軍を手引きするよう画策したが、調略を拒否した山田右近尉により追放された。その後、同年9月、昌幸が北条家から徳川家に乗り換える際には間を取り持ち、そのまま徳川家康に仕えた。徳川家では5000石を与えられ、後に1万石に加増されるが「それだけの働きをしていない」として浪人する。一説に小田原征伐で武蔵江戸城の無血開城で功績を立てたにも関わらず、家康からの恩賞に不満を覚えて家康の下を離れたとされている。
 その後、池田輝政を介して会津の蒲生氏郷に5000石で仕える。蒲生氏には同じ武田遺臣の曽根昌世も仕官し、信尹は曽根とともに天正19年(1591年)の九戸政実の乱平定戦にも参加している。文禄4年(1595年)に氏郷が死去して蒲生騒動が起こったため、慶長3年(1598年)に再び徳川家康に甲斐で4000石を与えられて帰参した。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い,慶長19年(1614年)の大坂の陣で御使番・軍使として功績を挙げ、それにより1200石を加増されて5200石になる。
 その後は幕臣として徳川家に仕え、寛永9年(1632年)5月4日に病死。享年86。墓所は山梨県北杜市長坂町長坂上条の龍岸寺。子の真田幸政以降、子孫は代々旗本として幕府に仕えた。子孫は4つの系統に分かれ、その内の2家が明治維新まで存続した。 

 矢沢家は真田郷に隣接する矢沢郷を支配する地侍。しかも諏訪氏の一族として真田家とは敵対関係にあったが、頼綱がその養子になることで敵対は解消された。若い頃に出家し、京都鞍馬寺の僧となるが、程なく郷里に戻って還俗したとされる。武田信玄に仕える兄の幸隆の下で信濃先方衆として活躍する。
 一方で1541年(天文10年)5月の海野平の戦いで幸隆とともに惣領家の海野氏に与して敗北し、諏訪氏の斡旋を受けて武田信虎に従った。ただ、この頃は真田家の家臣ではなく、独立した小領主として甲斐武田家に従っていた。
 1551年(天文20年)に、兄の幸隆の援助を受けて、荒砥城を攻撃して、村上氏一族の山田国政と吾妻清綱を攻め滅ぼした。
 幸隆や後を継いだ甥の信綱に従い、1563年(永禄6年)9月の上野岩櫃城攻略で功を立てた。以後は真田家の吾妻郡平定で先頭に立って働き、一時期は岩櫃城代を勤めた。 1575年(天正3年)5月の長篠の戦いで信綱が亡くなると、真田家を継いだ甥の真田昌幸に従った。昌幸は甲府に詰めることが多かったため、頼綱は吾妻郡の経営や沼田領侵攻の指揮を執った。1580年(天正8年)5月に沼田城攻略に成功し、その功績により沼田城代に任命された。この頃には「頼綱」と改名しており、武田勝頼の偏諱である可能性が指摘されている。
 1582年(天正10年)3月に織田信長の武田征伐で武田家が滅亡すると、独立勢力となった真田家の重臣となる。1583年(天正11年)6月17日には沼田領として200貫文を与えられている。頼綱は後北条氏との最前線で働き、1585年(天正13年)3月14日付で沼田城在番の功労として海野領で1,000貫文を宛がわれている。同年の上田合戦では徳川家康に呼応した北条氏直の叔父・氏邦の沼田侵攻を受けるが撃退している。
 1585年の書状から嫡子・矢沢頼康と連署しており、これ以後は頼綱の活動がほとんど確認されていないため、この頃に代替わりが行われていたと見られている。以後、矢沢家は真田家臣団の中で最高位にあり、子孫も明治時代に至るまで藩の筆頭家老格を維持し、知行高も2,000石を数え、同心40人を預かる大身として存続した。1597年(慶長2年)5月7日に死去。享年80。 

矢沢頼康

 若い頃より沼田城代であった父に従い、天正期には既に城代をまかされていたとの記述もある。
 天正13年(1585年)に昌幸の子・信繁が上杉景勝の元へ人質に出される際には、警護として随伴。同年の第1次上田合戦では、上杉景勝からの援軍と共に支城の矢沢城に篭って依田勢1500を退け、追撃戦では大久保忠世らを散々に蹴散らす活躍を見せた。この年を境に父・頼綱の活動はあまり見られなくなり、書状でも父と連署したものはこの年が最初で最後になっているため、この前後に代替わりが行なわれたものと推測される。
 関ヶ原の戦い時には真田信之に属し、信之の息子である信政を人質として徳川家康のもとに送り届けたという。その後も当主となった信之に仕え、大坂の陣では信之の代わりに出陣した子(信吉,信政)らを補佐した。出陣にあたって、信之は頼康に「何事も油断なく、間に入って頼み入り候」と書き送っている。
 寛永3年(1626年)に死去。頼康に子はなかったが、遺言により弟の頼邦が跡を継ぎ、その後、子孫は代々松代藩家老職を担って真田氏を支えた。