| NH03:海野広道 | 楢原久等耳 ― 滋野家訳 ― 海野広道 ― 真田頼昌 | NH05:真田頼昌 | ● |


| リンク | {KI43}{NH06} |
| 真田頼昌 | 真田幸隆 |
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海野氏庶流の出身とされ、今日では真田氏の祖と推定されている。諱は「頼昌」とされるが、これは後世の江戸時代の元禄9年(1696年)成立の「良泉寺矢沢氏系図」が初出である。戦国期真田氏当主の通字は「綱」であることが指摘されるため、問題点が残される。 |
天文10年(1541年)、武田信虎は同盟関係にある信濃諏訪郡の諏訪頼重や、信濃小県郡の村上義清と共に信濃小県郡・佐久郡へ侵攻する。同年5月23日の海野平の戦いにより海野一族は敗北して上野へ亡命している。 |
| 真田信綱 | 真田昌輝 |
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戦場では専ら父・幸隆や弟の真田昌輝らと共に行動しており、幸隆と共に信濃国や上野国を転戦し、永禄11年(1568年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍している。また、箕輪城城代であったとする説も有力で、準譜代としての待遇を得ていたようである。元亀3年(1572年)の信玄の西上作戦にも従軍し、三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務めて奮戦した。 |
小姓として武田信玄に近侍し、信玄により、有力武将の子弟が任じられる「百足衆」に抜擢される。信玄に常に付き従い、「一之先衆七千」を務め、「兵部は我が両眼なり」とまで言わしめたという逸話が残っている。 |
| 真田昌幸 | 真田信繁(幸村) |
| 幸隆の3男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継いだ。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏,上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しがあって、高野山配流を命じられるにとどまり、12月12日に上田を発して紀伊国に向かう。初め高野山にある蓮華定院に入り、次いで九度山に移った。蟄居中の慶長16年(1611年)に死去。 |
真田幸村の名が広く知られているが、諱は信繁である。その証明として、直筆の書状を始め、生前の確かな史料で「幸村」の名が使われているものは全く無い。元禄時代には、「幸村」の名が広く知られるようになる。「幸」は真田家や海野家の通字、また、「村」については村正は幸村の佩刀であったとか、介錯に村正が用いられたという話があり、これらに尾ひれがついたものである。 |
| 片倉守信 | 真田幸歓 |
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真田信繁の次男として紀伊国九度山で生まれた。幼名は大八。母は大谷吉継の娘。大八については、ある年の高野山蓮華定院の記録に、京都にて死去とあるが、実は生存し、慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣で父・信繁と兄・大助(幸昌)の戦没した後に、落城時に乱取りされた異母姉の阿梅(次女)が片倉重長の側室になると、片倉家に引き取られることになって、同母姉の阿昌蒲(6女),おかね(7女)らと共に陸奥白石に落ち延びることになったという。 |
藩主・伊達慶邦の小姓となり、のちに慶邦の命で下曽根信敦に西洋砲術を学んだ。安政3年(1858年)、講武場で多くの藩士に西洋砲術を教えた。元治元年(1864年)脇番頭となり、慶応2年(1866年)には近習目付となり、経験を生かし藩の軍政の改革を行った(軍制変革侍読長)。また、藩主・慶邦の密名により上京したこともあったという。慶応4年(1868年)1月に若年寄に任じられ軍制係の長となる。同年4月、新政府軍より会津藩討伐の命を受け土湯峠まで出陣した。その後、奥羽越列藩同盟成立後は病により潜居していて、その後、慶邦の命により軍監となるが、指揮をする前に撤兵したためその職務を果たせなかった。同年12月、若年寄を免職となり石巻に閑居し(俸禄は廃藩置県まで給される)、学校教育関係の事務官や、牡鹿郡の書記官などに務めるとともに和歌などを嗜み余生を過ごした。 |
| 真田清鏡 | 金井高勝 |
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真田幸隆の庶子とされる。真田幸隆が領地を追われ、上野亡命中の天文10年(1541年)、幸隆は海野幸全の下に寄宿するが、その際、幸全の娘に男児である清鏡を産ませたと言う話が残っている。真実であれば、真田兵部昌輝の兄、信綱の弟になるため、本当は幸隆の次男となる。真田清鏡はその後、羽黒山の修験者となり、羽黒山醍醐坊の開山となったとされる。 |
真田幸綱(幸隆)の5男。信尹を5男、高勝を4男とする説もある。名ははじめ「信春」か。 |
| 真田信尹 | 矢沢頼綱 |
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昌幸と同じく幼年期から人質として甲府に出仕した。主君の武田信玄の命により甲斐の旧族である加津野昌世の養子となり、名門・加津野氏(和野,鹿角)の名跡を継ぐ。隠岐守の官途を自称し、武田勝頼に近侍して槍奉行を務め、加津野市右衛門尉信昌と称した。武田家では騎馬15,足軽10を率いる槍奉行としての地位にあったと『甲陽軍鑑』にある。 |
矢沢家は真田郷に隣接する矢沢郷を支配する地侍。しかも諏訪氏の一族として真田家とは敵対関係にあったが、頼綱がその養子になることで敵対は解消された。若い頃に出家し、京都鞍馬寺の僧となるが、程なく郷里に戻って還俗したとされる。武田信玄に仕える兄の幸隆の下で信濃先方衆として活躍する。 |
| 矢沢頼康 | |
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若い頃より沼田城代であった父に従い、天正期には既に城代をまかされていたとの記述もある。 |