<神皇系氏族>天神系

NH02:滋野家訳  楢原久等耳 ― 滋野家訳 ― 海野広道 NH03:海野広道


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海野幸親 海野幸広
 兄の幸通の跡を継いで海野氏の当主となり、保元2年(1157年)の保元の乱では、300騎を率いて源義朝の下に参じた。寿永2年(1181年)の木曾義仲の挙兵に呼応して、横田河原の戦いに参戦している。そのまま義仲に従って上洛し、寿永2年(1183年)の備中水島の戦いで嫡男の幸広が平教経と戦って戦死している。同年の法住寺合戦に参加。翌寿永3年(1184年)1月21日の粟津の戦いにて討死し、義仲らと共に七条河原で獄門にかけられた。  寿永2年(1183年)の水島の戦いにて源義仲に従い、先鋒となり討死した。
海野幸氏 真田幸春

 寿永2年(1183年)、義仲が源頼朝との和睦の印として、嫡男の清水冠者義高を鎌倉に送った時に、同族の望月重隆らと共に随行した。
 元暦元年(1184年)木曾義仲が滅亡、その過程で義仲に従っていた父と兄・幸広も戦死を遂げる。そして義高が死罪が免れないと察して鎌倉を脱出する際、同年であり、終始側近として仕えていた幸氏は、義高の寝床に入って身代わりとなって義高を逃がす。結局、義高は討手に捕えられて殺されてしまったが、幸氏の忠勤振りを源頼朝が認めて、御家人に加えられた。
 御家人となった幸氏は、弓の名手として『吾妻鏡』に何度も登場する。早くも文治6年(1190年)には、頼朝の射手として鶴岡八幡宮の弓始めに金刺盛澄らと共に参加しており、建久2年(1191年)、頼朝が大壇那となって再建された善光寺の落慶に供奉し、建久4年(1193年)5月の頼朝による富士の巻狩では、藤沢二郎,望月三郎(重隆),祢津二郎らとともに弓の名手と記述される。建久6年3月(1195年)の頼朝上洛の際は住吉大社での流鏑馬で東国の代表者として重隆と共に参加した。建仁元年(1201年)、源頼家の御前での的始儀の射手に中野能成らと共に選ばれた。そして、当時の天下八名手の一に数えられ、武田信光,小笠原長清,望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称された。嘉禎3年(1237年)7月にも執権・北条泰時の孫・時頼に流鏑馬を指南、更に鶴岡八幡宮で騎射の技を披露し、周囲の者達は「弓馬の宗家」と讃えたと伝わっている。
 また、武将としても活躍。建久4年(1193年)の曾我兄弟の仇討ちの際には、頼朝の護衛役を務め負傷したことが『吾妻鏡』に記述されており、建仁元年(1201年)の建仁の乱、建暦3年(1213年)の和田合戦や承久3年(1221年)の承久の乱にも出陣している。
 仁治2年(1241年)3月の『吾妻鏡』によると、甲斐国守護の武田信光と、上野国三原荘と信濃国長倉保の境界についての争いがあり、幸氏が勝訴している。この記述から、幸氏の代に海野氏の勢力が、信濃から上州西部へと拡大していたことが判る。
 幸氏の死期については、確かな記録は無い。建長2年(1250年)3月の『吾妻鏡』に、幸氏と思われる「海野左衛門入道」の名が登場するのが、記録の最後となった。

 源頼朝の御家人である海野幸氏の孫・海野幸継の7男・七郎幸春がおり、真田に住み、真田氏と称したことに始まるとしている(家系図上で真田姓の初出となる人物)。
 浅羽本信州滋野三家系図に登場する海野幸氏の孫(海野幸継の7男)。 他の史料には見られないことから、実在性は不明。また戦国期に登場する真田幸綱(幸隆、真田幸村の祖父)との血統的な繋がりも不明。

海野棟綱 羽尾道雲(幸世)

 大永7年(1527年)、海野氏族の高野山参詣時の宿坊を蓮華定院とする契状を出す。天文10年(1541年)の海野平の戦いでは武田・村上・諏訪連合軍に敗れる。この戦いで領地と子息の幸義を失う。
 『神使御頭之日記』によれば、関東管領・山内上杉家を頼り、真田幸綱ら少数の一族の者を率いて上野国へ逃れる。棟綱の要請で行われた箕輪城主・長野業政の佐久出兵に同行したと思われるが、領地回復は成功しなかった。
 その後については史料がなく、没年もはっきりしない。一説では、上野国吾妻郡の海野氏系羽尾氏の庇護下にあったとされ、羽尾幸全の子の幸光・輝幸兄弟は、後に海野家を継承したとして海野姓を名乗る。

 羽尾氏は上野国吾妻郡の羽根尾城周辺を支配していた国衆である。吾妻郡西部にある三原荘には鎌倉時代に海野幸氏が地頭として入部し、戦国期には羽尾氏や湯本,鎌原氏がその海野氏の子孫を称して三原荘に勢力を有していた。天文2年(1533年)の北条氏綱による鶴岡八幡宮造営の奉加に羽尾氏も応じており、当時、羽尾氏が山内上杉氏の従属国衆として存立していたことが確認できる。
 永禄3年(1560年)以降に上杉憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)が関東侵攻を開始した際に、羽尾氏も上杉方に従った国衆として『関東幕注文』に「羽尾修理亮」の名前が確認できる。この修理亮に関して道雲本人であるという見方と、道雲の嫡子ではないかとする見方がある。
 『加沢記』に基づいた羽尾道雲の事績では、永禄3年に発生した上杉謙信の関東侵攻に合わせ、同年10月に道雲は斎藤憲広,湯本氏,大戸浦野氏と共に武田氏に通じて吾妻斎藤氏と対抗していた鎌原氏の鎌原城を攻めた。これに対して武田氏は同5年(1562年)3月に鎌原・羽尾両氏の領土紛争の調停にあたったが、道雲は斎藤憲広を通じて調停結果を拒否したため、鎌原氏は上野を退去した。これにより道雲は鎌原城を手に入れたが、翌年(1563年)6月に真田幸綱らの援軍を得た鎌原氏に万座へ湯治に行っていた隙を攻められ鎌原城を奪回され、さらに羽根尾城も奪取された。道雲はその後自身の所領に戻れず、信濃高井郷に逃れた。9月に道雲は斎藤憲広と共に長野原城を攻め城将の常田新六郎(隆永か?)を討ち取り、羽尾領を奪回した。
 その後、永禄7年(1564年)、斎藤憲広が武田氏に攻められて没落した段階で吾妻斎藤氏と共に没落したとみられ、羽尾氏の国衆としての動向がみられなくなる。

海野幸光 海野輝幸

 父は吾妻郡羽根尾を領する国衆・羽尾景幸で、幸光はその次男にあたる。羽尾氏は鎌倉期に三原荘の地頭となった海野幸氏の子孫を称しており、幸光と弟・輝幸は海野氏を名乗っている。
 永禄4年(1561年)より武田信玄の西上野侵攻が開始され、吾妻郡の国衆であった斎藤憲広,羽尾道雲も武田氏の従属国衆となった。しかし、同郡の国衆である鎌原重澄とそれを支援する武田氏と所領問題で対立するようになり、永禄6年(1563年)に斎藤憲広らは武田氏から離反して岩櫃城に籠城した。幸光は兄・道雲と共に当初は斎藤方に付いたが、真田信綱,室賀満正の調略により弟・輝幸と斎藤憲広の甥・斎藤弥三郎と共に武田氏に内応し、岩櫃城を武田氏に引き渡した。
 以後、幸光は武田氏配下の従属国衆となり、岩櫃城に配備され真田氏の相備えに付けられた。『加沢記』によると幸光・輝幸兄弟は真田幸綱の推挙により武田信玄より吾妻郡代に任じられ、幸光の娘が浦野弾正忠と鎌原重澄に、輝幸の嫡男・幸貞が矢沢頼綱(真田幸綱の弟)の婿となったという。
 天正8年(1580年)2月から始まる武田氏の沼田城攻略戦では、5月23日に前線である名胡桃城に配置され、在城する輝幸,金子泰清,渡辺左近丞を一時的に指揮下に置いた。沼田城攻略後、弟・輝幸は沼田城二ノ丸に配備され、兄弟で岩櫃・沼田という北上野の重要拠点を抑えることになる。翌年3月7日には上野でさらに二つの城を手に入れたことを真田昌幸より賞されている。
 天正9年(1581年)、幸光と弟・輝幸,甥・幸貞が突如武田氏によって粛清された。この事件の事実関係を裏付ける確実な史料は存在しないが、『古今沼田記』『羽尾記』は事件日を10月23日とし、『加沢記』は11月のこととしている。
 以下は『加沢記』に記述されている幸光の最期の様子である。幸光は真田昌幸の軍勢により岩櫃城の自身の屋敷にて襲撃され、当時、老衰により盲目であったが、座敷に麻の殻を撒き散らして殻を踏む音で敵を見分け、三尺五寸の太刀を振るい14,5人を切り伏せたという。しかし切り抜けることはかなわず館に火をかけ自刃した。享年は75と伝わる。館から脱出した幸光の妻と娘は越後に逃れようとしたが、真田方の包囲から逃れられず家来・渡利常陸介によって殺害された。また、弟・輝幸とその子・幸貞は沼田城に派遣された加津野昌春の襲撃を受け、親子で刺し違えて自刃した。
 幸光ら海野一族が粛清された要因として、幸光ら海野氏が同郡の鎌原氏と所領問題で対立しており、さらに沼田城攻略後に吾妻郡の支配を巡って真田昌幸とも対立している。幸光らは吾妻郡の支配を巡り周辺国衆や真田氏との関係を悪化させており、上野支配の安定化を図る武田・真田氏が海野一族を排除することで、海野氏を巡る所領問題の解決と領国安定化を図ったと推測されている。

 天文10年(1541年)、海野平の戦いで村上義清に敗北して逃亡した海野棟綱,真田幸隆を兄とともに匿ったとされる。岩櫃城主・斎藤憲広に従っていたが、永禄6年(1563年)、真田幸隆を総大将とする武田信玄の軍勢が岩櫃城に侵攻した際、真田信綱,室賀満正の調略に応じて兄・幸光とともに武田軍に内応した。以後は幸光とともに岩櫃城に入城し、幸隆の指揮下に入った。
 天正8年(1580年)、幸隆の跡を継いだ昌幸が沼田城を攻略すると、その二の丸に入った。天正9年(1581年)、謀反の疑いにより昌幸の襲撃を受け、息子の幸貞と刺し違えて自害した。沼田城北東の岡谷に幸貞と共に葬られ「海野塚」として残る。塚原卜伝に師事し、印可を得たといわれている。 

海野幸貞

 天文13年(1544年)、上野吾妻郡の国衆・海野輝幸の嫡男として生まれた。塔原海野氏の当主三河守幸貞とは別人である。天正8年(1580年)、幸隆の跡を継いだ昌幸が沼田城を攻略すると、父・輝幸とその二の丸に入った。
 天正9年(1581年)、吾妻郡衆が海野幸光・輝幸兄弟に謀反の疑いありと上申したため、昌幸の攻撃を受け、無実を訴えようとするも奮戦の末、父・輝幸と刺し違えて自害した。 父とともに「海野塚」に葬られている。妻子は下沼田に落ちのびた。
 妻は矢沢頼綱の娘であるため助命され、長女は原監物の妻,次女は禰津幸直の妻となり、嫡男・原郷左衛門尉は矢沢頼綱の嘆願により許され、のちに真田信吉に従って大阪の陣に従軍し、天王寺口で討死にしている。