NH01:楢原久等耳 | 天道根命 ― 紀 豊古 ― 楢原久等耳 ― 滋野家訳 | NH02:滋野家訳 |
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滋野家訳 | 滋野貞主 |
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桓武朝の延暦17年(798年)伊蘇志臣から滋野宿祢に改姓する。弘仁3年(812年)外従五位下・尾張介に叙任され、弘仁6年(815年)内位の従五位下に叙せられると同時に尾張守に昇格するなど、嵯峨朝前半に尾張国の国司を歴任した。 |
平城朝の大同2年(807年)に文章生に及第する。早くから詩才が認められ、勅撰漢詩集『凌雲集』に2首が採録されると、弘仁9年(818年)に撰上された『文華秀麗集』ではその編纂に参画している。 |
滋野善蔭 | 滋野善根 |
仁明朝の承和13年(846年)従五位下・宮内少輔に叙任され、翌承和14年(847年)掃部頭に遷る。文徳朝の仁寿2年(852年)父・貞主が没すると、翌仁寿3年(853年)大宰少弐に任ぜられ地方官に転じる。 |
文徳朝の仁寿4年(854年)従五位下に叙爵する。斉衡3年(856年)2月に中務少輔に任ぜられるが、7月には肥前守として地方官に転じる。その後、天安元年(857年)11月に河内権守、天安2年(858年)正月に河内守に遷っている。 |
滋野貞雄 | 滋野恒成 |
若い頃より大学寮で学び、詩賦に習熟する。弘仁7年(816年)主殿少属に任ぜられ、掃部権允・右衛門少尉を歴任するが、嵯峨天皇に召されて近侍しその恩寵を得る。のち、掃部助に転じ左近衛将監を兼ねる。この間の弘仁14年(823年)には父・家訳らと共に宿禰姓から朝臣姓に改姓している。 |
天慶元年(938年)、平将門に圧迫された平良兼の子平貞盛は、この事情を京の朝廷に訴えようと東山道より京に向かう。それを知った平将門は1000余の兵を率いて直ちに追撃に向かった。平貞盛は危険を察して海野城(海野古城)へ逃げ込み旧知の善淵王(滋野恒成)に助けを求めた。平将門は平貞盛が海野城に隠れているのを知り、先回りして国分寺付近に陣を取り、神川を挟んで衝突する。いわゆる千曲川合戦である。小県の滋野の一族は平貞盛に加勢して、平将門と千曲川にて合戦した。滋野一族は奮戦したが、戦は平将門側が勝利を収め、平貞盛は付近の山中に逃れ危機を脱したといわれる。なお、この戦いで信濃国分寺が焼失したという。 |