<神皇系氏族>天神系

NH01:楢原久等耳  天道根命 ― 紀 豊古 ― 楢原久等耳 ― 滋野家訳 NH02:滋野家訳

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滋野家訳

滋野貞主

滋野善蔭

 桓武朝の延暦17年(798年)伊蘇志臣から滋野宿祢に改姓する。弘仁3年(812年)外従五位下・尾張介に叙任され、弘仁6年(815年)内位の従五位下に叙せられると同時に尾張守に昇格するなど、嵯峨朝前半に尾張国の国司を歴任した。
 嵯峨朝末の弘仁13年(822年)従五位上に至り、翌弘仁14年(823年)宿禰姓から朝臣姓に改姓している。

 平城朝の大同2年(807年)に文章生に及第する。早くから詩才が認められ、勅撰漢詩集『凌雲集』に2首が採録されると、弘仁9年(818年)に撰上された『文華秀麗集』ではその編纂に参画している。
 淳和朝に入ると、弘仁14年(823年)皇太子・正良親王の東宮学士に任ぜられ、また同年には父・家訳と共に宿禰姓から朝臣姓に改姓している。また淳和朝では、漢詩集『経国集』20巻の編纂に参画し、古今の文書を分類した日本最古の百科事典『秘府略』1000巻を撰集している。
 承和9年(842年)には参議兼式部大輔に任ぜられて公卿に列した。承和11年(844年)には私邸(城南宅)を寺として慈恩寺を建立した。貞主は座禅の合間に方々を巡り歩き、人々に慕われたという。承和12年(845年)『便宜十四事』を陳述。嘉祥2年(849年)宮内卿を兼ねる。
 仁寿2年(852年)口吻に毒瘡を病み、詔により医薬を賜与されるが、葬儀は質素に行うようにとの遺戒を残して、まもなく慈恩寺西書院で没する。その死が伝わると哀惜しない者はなかったと伝えられる。

 仁明朝の承和13年(846年)従五位下・宮内少輔に叙任され、翌承和14年(847年)掃部頭に遷る。文徳朝の仁寿2年(852年)父・貞主が没すると、翌仁寿3年(853年)大宰少弐に任ぜられ地方官に転じる。
 清和朝に入り、貞観2年(860年)11月に従五位上・弾正少弼に叙任され京官に復すが、翌貞観3年(861年)5月には丹波守として再び地方官に遷っている。その後も貞観6年(864年)大蔵大輔、貞観9年(867年)但馬守と、京官と地方官を交互に務めた。

滋野善根

滋野貞雄

滋野恒成

 文徳朝の仁寿4年(854年)従五位下に叙爵する。斉衡3年(856年)2月に中務少輔に任ぜられるが、7月には肥前守として地方官に転じる。その後、天安元年(857年)11月に河内権守、天安2年(858年)正月に河内守に遷っている。
 清和朝に入ると、天安3年(859年)宮内少輔、貞観3年(861年)民部少輔と京官を務めるが、貞観4年(862年)美濃守として再び地方官に転じる。貞観9年(867年)大判事に遷ると、貞観10年(868年)従五位上・大蔵少輔に叙任されるなど、清和朝中盤は京官を務めるが、貞観12年(870年)信濃守とみたび地方官に遷った。
 陽成朝では少納言兼侍従として天皇の身近に仕え、元慶3年(879年)正五位下、元慶7年(883年)従四位下と昇進を果たしている。

 若い頃より大学寮で学び、詩賦に習熟する。弘仁7年(816年)主殿少属に任ぜられ、掃部権允・右衛門少尉を歴任するが、嵯峨天皇に召されて近侍しその恩寵を得る。のち、掃部助に転じ左近衛将監を兼ねる。この間の弘仁14年(823年)には父・家訳らと共に宿禰姓から朝臣姓に改姓している。
 淳和朝の天長4年(827年)従五位下に叙爵。のち、備前権介を経て、承和5年(838年)従五位上・備前守に叙任されるなど、淳和朝から仁明朝にかけて備前国の国司を務める。仁明朝半ばには少納言・侍従と京官に任ぜられるが、承和12年(845年)丹波守、嘉祥4年(851年)但馬権守と仁明朝末から文徳朝にかけて再び地方官を歴任する。  しかし、地方官としては特筆すべき治績は無かったという。またこの間、承和13年(846年)正五位下、嘉祥3年(850年)従四位下と累進した。
 清和朝初頭の貞観元年(860年)正月に摂津守に任ぜられ、11月には従四位上に至るが、同年12月22日卒去。享年65。身長が六尺(約180cm)以上あり、容姿・振る舞いが優れていた。性格は仁愛が深く、他人と競うようなことはなかったという。

 天慶元年(938年)、平将門に圧迫された平良兼の子平貞盛は、この事情を京の朝廷に訴えようと東山道より京に向かう。それを知った平将門は1000余の兵を率いて直ちに追撃に向かった。平貞盛は危険を察して海野城(海野古城)へ逃げ込み旧知の善淵王(滋野恒成)に助けを求めた。平将門は平貞盛が海野城に隠れているのを知り、先回りして国分寺付近に陣を取り、神川を挟んで衝突する。いわゆる千曲川合戦である。小県の滋野の一族は平貞盛に加勢して、平将門と千曲川にて合戦した。滋野一族は奮戦したが、戦は平将門側が勝利を収め、平貞盛は付近の山中に逃れ危機を脱したといわれる。なお、この戦いで信濃国分寺が焼失したという。

 

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