<神皇系氏族>天神系

NH03:海野広道  楢原久等耳 ― 滋野家訳 ― 海野広道 ― 安部頼真 NH04:安部頼真


リンク {G423}{F917}{AB14}
安部元真 安部信勝
 本姓は神氏。駿河国の今川氏に仕え、主君の今川義元より偏諱を賜り元真を名乗る。永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで義元が戦死して以降、弱体化しつつあった今川氏の領土に甲斐国の武田信玄が侵攻してくると、元真は駿府で迎え撃つが敗れ、自領に退散した。今川氏滅亡後は流浪の末に徳川家康に仕え、遠江国伯耆塚城に入城し、仇敵・武田氏と戦い、諸戦で戦功をあげた。

 当初は父・元真と共に今川氏に仕えたが、後に徳川家康の家臣となる。天正11年(1583年)には後北条氏の甲斐国本巣の砦を攻め落とし、翌天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いでも戦功を挙げた。また同年6月の蟹江城合戦では、石川数正と共に前田長種が守る前田城を攻め、長種を破った。
 天正18年(1590年)、家康が関東に移封された際、武蔵国榛沢郡,下野国梁田郡内の5250石の領地を賜った。
 慶長5年(1600年)1月2日、大坂において49歳で死去。

安部信盛 安部信峯

 武蔵国岡部藩初代藩主。遠江国浜松出身。慶長5年(1600年)、父・信勝が死去し家督と5,200石の所領を継承する。同年の関ヶ原の戦いでは本多正信隊に属して下野国小山にまで参陣した。慶長10年(1605年)には徳川秀忠の将軍宣下のための上洛に従っている。慶長19年(1614年)からの大坂の陣には冬,夏とも参陣し、その功績により元和2年(1616年)には御徒頭に任じられた。
 元和5年(1619年)、秀忠の上洛に従い、このとき摂津守に任じられた。元和6年(1620年)、秀忠の娘・和子の入内に参列する。寛永13年(1636年)、4,000石を加増され、合計9,200石となり、慶安2年(1649年)もは大坂城番となり、このときに摂津において1万石を与えられて大名となった。なお、所領は計1万9,200石であったが、領地は武蔵国・摂津国・三河国・下野国に分散していた。寛文2年(1662年)に隠居し、家督を長男・信之に譲った。延宝元年(1673年)11月27日、死去。

 延宝2年(1674年)、初めて4代将軍・徳川家綱に御目見する。貞享3年(1686年)10月に従五位下・丹波守に叙任された。
 元禄14年(1701年)3月14日に起こった播磨国赤穂藩主・浅野長矩による吉良義央への刃傷事件の際には、浅野とは母方の従兄弟にあたるため、戸田氏定(美濃国大垣藩主)と共に一族連座して出仕をとめられた。しかし、5月には出仕、6月には将軍拝謁がそれぞれ許された。
 同年6月29日に家督相続したが、この際に弟・信方に2000石を分知している。8月に初めて領地入りした。宝永2年(1705年)に岡部村に陣屋を移しており、正確にはこのときから岡部藩は始まった。

安部信発

 文久3年(1863年)9月11日、岡部藩12代藩主・安部信宝が死去したため、その末期養子となって家督を継いだ。同年9月23日、14代将軍・徳川家茂に拝謁する。同年12月26日、従五位下・摂津守に叙任する。元治元年(1864年)11月、岡部藩は天狗党の乱鎮圧に参加し武功を挙げた。元治2年(1865年)、日光祭礼奉行を命じられる。
 慶応4年(1868年)3月17日、上洛し新政府へ恭順の姿勢を示す。同年4月3日、新政府に対して、武蔵の所領だけでは藩士に対して知行を与えるのが困難であるとして、三河国八名郡半原に藩庁を移すことを願った。同年4月14日、許可され、以後、半原藩と称した。同年閏4月7日、京都を出発し半原に向かった。
 明治2年(1869年)の版籍奉還で半原知藩事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で免職された。