<神皇系氏族>地祇系

MW05:大神惟基  大三輪大友主 ― 大神惟基 ― 佐伯惟康 MW13:佐伯惟康

リンク MW14
佐伯惟康 佐伯惟治
 治承4年(1180年)の源頼朝挙兵後、従兄弟の緒方惟栄が九州武士で平家に叛いた中心的勢力となると、惟康もこれに従い、源氏方の命で寿永元年(1182年)には大畑城,宇留津城などを築き、息子の惟興を大畑城、惟貞を犬丸城、惟成を宇留津城の城主に入れたという。ただ、『源平盛衰記』では、惟康は従兄弟の臼杵惟隆・緒方惟栄が源氏方についたのに対して、一ノ谷の戦いで菊池高直,原田種直,山鹿秀遠らと共に平氏方に属して戦ったともいわれ、確かなことは不明。

 大永7年(1527年)、肥後の菊池義武に通じて大友義鑑に対し謀叛を企てていると讒言する者があり、義鑑は臼杵長景に惟治の討伐を命じた。11月13日に栂牟礼城攻めが始まったが、栂牟礼城は堅固で落ちる気配が無かったため、長景は義鑑への口添えを約束して開城を促し、惟治はこれに応じて日向へと退去した。しかし、これは長景の罠であり、城を出た惟治は長景の要請を受けた土豪・新名氏の襲撃に遭って進退窮まり、11月25日に三川内の尾高智山で自害した。享年33。惟治死後、豊後佐伯氏を継いだのは惟常だが、惟教までの続柄には諸説有って系図が確定していない。
 翌大永8年(1528年)に臼杵長景が病死し、また各地で異変・災厄が相次いだ。これらは惟治の祟りと噂され、怨念を鎮めるべく富尾神社が建立された。加えて、惟治が自害した尾高智山には胴体を祀った尾高智神社が建てられ、その他にも首を祀った御頭神社、刀・脇差を祀った鴟尾神社など、日豊国境一帯に惟治を祀る神社が20余り建立された。
 また、豊後佐伯氏は大神姓であり、蛇神信仰とのつながりが深いことから、この地域では惟治が「トビノオサマ」と呼ばれ、夜刀神と同一視されるようにもなった。智勇兼備の良将であったと伝わるが、一方で春好という怪僧を寵愛して家臣の諫言を聞かずに領民を苦しめていたという説もある。

佐伯惟教 佐伯惟定

 『大友興廃記』によれば、天文19年(1550年)の二階崩れの変の際に大友義鎮(宗麟)を奉じて府内を制圧し、以来、宗麟の重臣として信任されたという。また『肥後国史』『大友興廃記』によれば、同年、菊池義武や義武に味方する肥後国の領主との戦いで先陣を務め、鎮圧に活躍した。
 弘治2年(1556年)5月に他紋衆・小原鑑元が中村長直らと共に叛旗を翻した(姓氏対立事件)。惟教は挙兵には参加しなかったが鑑元らと連絡をとっていたとされる。しかし、宗麟はこれを機に惟教の追討を決定し討伐軍が差し向けるが、惟教は抗戦せず一族を伴って伊予国の西園寺実充の下に身を寄せ、その後10年余り居住した。
 その後、永禄年間(1558~70年)に入ると、大友氏は毛利元就と北九州をめぐる争いに突入した。毛利方の水軍に対抗するためには惟教率いる水軍の存在が不可欠であったため、宗麟は惟教に帰参を持ちかけ、永禄12年(1569年)に惟教は臼杵鑑速らの執り成しによって帰参した。翌元亀元年(1570年)には栂牟礼城を還付された。天正5年(1577年)、剃髪して麟与軒宗天と号した。この頃までには嫡男・惟真に家督を譲っていたと考えられる。
 同年12月、島津氏の勢力が日向北部にまで及ぶようになり、それまで大友方に属していた同地の諸勢力の間に動揺が見られるようになった。翌天正6年(1578年)1月、松尾城主・土持親成(惟教の妹婿)が離反して島津氏に属したとの情報が伝わると、惟教は直ちに親成に対し弁明を促し自身も執り成しに努めたが許されず、宗麟は惟教に土持氏討伐を命じた。このため、4月10日に惟教は松尾城を攻略し親成を降伏させた。この時、惟教は親成の助命を嘆願したが許されず、親成は自害させられた。
 同年9月、キリスト教に傾倒していた宗麟は、日向にキリスト王国を建設するためとして、島津攻めに自ら出陣することを決定する。10月には、松尾城攻略後も日向に駐留していた惟教もまた山田有信の籠もる高城攻めへの参加を命じられた。惟教は高城救援に向っていた島津家久の軍と遭遇しこれを撃破したが、田原親賢率いる大友勢は士気の低い武将が多く、各部隊の連携が十分にとれない有様であったために、家久隊に追い討ちをかけられず高城への入城を許してしまった。11月11日、さらに島津義久率いる本隊が北上中との報がもたらされると軍議が開かれ、惟教は包囲を継続して志賀親守,朽網鑑康,一萬田鑑実らの援軍を待つべきと主張し、親賢もこの意見に同意したが、田北鎮周は、これに対し即時交戦を強く主張し、潔く突撃して死んでみせると言い残して退席した。
 翌12日未明、鎮周が予告通り島津勢に突撃し、これに引きずられるようにして大友勢は無秩序に戦闘に突入していった(耳川の戦い)。惟教はやむを得ず全軍を前進させ、兵力の優位を活かしての中央突破を図ったが、高城から出撃した島津家久らの急襲を受けた親賢が、全軍に後退命令を下したため大友勢は大混乱に陥り、これに乗じた島津勢の猛攻を浴びて潰滅。乱戦の中、惟教は子の惟真,鎮忠らと共に討死した。

 天正6年(1578年)に父・惟真と祖父・惟教が耳川の戦いで戦死したため、家督を継ぐ。天正14年(1586年)の豊薩合戦の際には、周辺の諸将が次々と島津方に降る中で、客将・山田匡徳を参謀に据えて徹底抗戦した。居城・栂牟礼城に攻め寄せた島津家久の軍を11月4日の堅田合戦で撃破した。12月4日には佐伯家臣・高畑新右衛門が星河城を攻め落とし、島津側に寝返っていた柴田紹安の妻子を捕らえた。このため、紹安は動揺して大友方に帰参しようとしたが、その動きを察知した島津軍に殺害された。さらに12月18日には戸高将監率いる島津軍の輜重隊を因尾谷で襲撃し全滅させている。翌天正15年(1587年)2月には土持親信が守る朝日嶽城を奪回した。大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉が九州平定戦を開始すると、3月17日に府内から撤退する島津義弘・家久兄弟の軍を日豊国境の梓峠で大敗せしめた。日向路の大将・豊臣秀長が豊後に到着すると合流し、先導役を務めて日向に入り高城攻め等に参加した。九州平定後、秀吉は惟定の奮戦を激賞し感状を与えた。
 文禄の役にも大友軍の一員として参加したが、文禄2年(1593年)の大友氏改易により惟定も居城を失うと、秀長の後継者・豊臣秀保を頼り、秀保没後はその家臣であった藤堂高虎に客将として招かれ、五百人扶持を与えられた。文禄4年(1595年)、高虎の宇和島入封に従い伊予に移住、翌年に新知2,000石を与えられた。のち、藤堂良勝に替って国府城代となる。慶長の役では板島城留守役を務め、当初、家臣のみ出陣したが、後に渡海して海戦で功をあげた。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には宇和島城留守居役を務め、家臣のみ従軍した。翌年以降、高虎の手掛けた普請に従事し、津城下には佐伯町を開いている。慶長19年(1614年)10月の大坂冬の陣には、士隊10騎・卒隊40人を率いて出陣する。当初は旗本士大将であったが、11月26日より右先鋒・藤堂高刑の合備となった。翌年の大坂夏の陣では遊軍部隊の指揮を命じられたが、5月6日の戦闘で先鋒が壊滅したため、7日は藤堂高吉と共に左先鋒を務めた。戦後4,500石に加増される。
 元和4年(1618年)6月9日死去。享年50。嫡男の惟重が家督を相続し、佐伯家は藤堂家臣として明治に至る。